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第二十話 君の手紙を書かせて

明治三十七年、九月。


戦場では、人間が死ぬより先に、言葉が死ぬことがある。


水無瀬伊織がそれを知ったのは、ある兵士の手紙を代筆した夜だった。


「……母ちゃんには、元気だって書いてくれ」


そう頼んだ兵士の左手には、指が二本なかった。

伊織は筆を止めた。


「ほかには?」


「飯も食えてるって。あと、寒くねえって」


兵士は笑った。痩せた頬に、まだ二十歳にもならない若さが残っていた。


伊織は少し考え、便箋に書いた。


『母上様。こちらでは毎日、よく空を見ています。故郷と同じ月が出るので、寂しくありません』


「……そんなこと、言ってねえぞ」


「でも、昨日、月を見ていたでしょう」


兵士は目を丸くし、それから困ったように笑った。


「お前、変な奴だな」


伊織も笑った。

その兵士が三日後に戦死することを、まだ知らなかった。


*


野営地では、伊織の代筆が評判になっていた。


農作業の合間に寺子屋で学んだ文字は、軍隊では思いがけない役に立った。


「水無瀬、女房に書いてくれ」


「水無瀬、俺も頼む」


「おい、俺のは恋文だからな!」


伊織は苦笑しながら、順番に便箋を並べた。


「皆さん、せめて宛名くらい自分で覚えてくださいよ」


「字が書けたら頼まねえ!」


笑いが起きる。

その輪の外で、葛城冬馬が煙草をくわえていた。


「……お前ら、水無瀬を便利屋にするな」


兵士たちは慌てて姿勢を正した。


「軍曹殿!」


「手紙を書くのは構わん。だが、あいつにも寝る時間をやれ」


伊織は顔を上げた。


「僕は平気ですよ」


「お前の平気は信用ならん」


「ひどいですね」


「昨夜も灯りが消えたあとに書いてただろう」


伊織は口を閉じた。

どうして知っているのだろう。


冬馬は答える代わりに、伊織の前へ温かい湯を置いた。


「飲め。指が冷えてる」


伊織は湯呑みを包み込み、その温かさに目を細めた。


*


数日後、前線から負傷兵が運ばれてきた。

担架の上で、若い兵士が何度も同じ名前を呼んでいた。


「……お春、お春……」


伊織は傍らに膝をついた。


「奥さんですか」


兵士は頷いた。


「……手紙を、書いてくれ」


伊織は便箋を取り出した。


「何と書きましょう」


「……待つなって」


伊織の手が止まった。


「俺なんか、待たなくていいって……」


兵士の声が途切れる。

伊織は唇を噛んだ。


「……本当に、それでいいんですか」


兵士は涙を流した。


「……帰りてえよ」


その言葉を最後に、意識を失った。

伊織は、何も書けなかった。


*


夜。

伊織は野営地の外れで、一枚の白紙を見つめていた。


背後から足音が近づく。


「……水無瀬」


冬馬だった。


「また寝てねえのか」


「……書けないんです」


伊織は便箋を差し出した。


「待つなって言われたんです。でも、あの人は帰りたいって……」


冬馬は隣に腰を下ろした。

しばらく、何も言わなかった。


やがて、低い声で告げた。


「……なら、書くな」


伊織は顔を上げた。


「え?」


「そいつが自分で言えなかったことを、お前が勝手に決めるな」


伊織は息を呑んだ。

冬馬は続けた。


「手紙は、残る。書いた奴が死んでもな」


伊織は便箋を見下ろした。


「……怖いですね」


「ああ」


「言葉って、こんなに重いんですね」


冬馬は煙草を取り出しかけ、やめた。


「……だから、俺は書かねえ」


伊織は顔を上げた。


「軍曹は、手紙を書かないんですか」


「書く相手がいねえ」


「……本当に?」


冬馬は答えなかった。

伊織は小さく笑った。


「じゃあ、僕に書いてください」


冬馬の目が動いた。


「……何?」


「僕、字を書くのは得意ですけど、もらうのはあまり慣れてなくて」


「馬鹿を言うな」


「本気ですよ」


伊織は冬馬を見つめた。


「軍曹が帰れなかったら、僕が覚えてます。だから、何か残してください」


冬馬の表情が変わった。


ほんの一瞬。

それは怒りにも、悲しみにも似ていた。


「……お前は、そういうことを簡単に言うな」


「……すみません」


伊織は俯いた。

すると、冬馬の手が伸びてきた。


大きな掌が、伊織の頭に触れる。


「……謝るな」


その声は、ひどく優しかった。


*


翌朝。

伊織は、昨夜の負傷兵が亡くなったことを知らされた。


遺品の中には、小さな櫛があった。

お春という名が、裏に彫られていた。


伊織はその櫛を見つめた。


待つな、と書かなくてよかった。

けれど、何も書けなかったことが、正しかったとも思えなかった。


「……軍曹」


冬馬が振り向く。


「僕、あの人の奥さんに、手紙を書きたいです」


「何を書く」


伊織は少し考えた。


「……あの人が、最後まで帰りたがっていたことを」


冬馬は黙っていた。

やがて、静かに頷いた。


「……それなら、書け」


*


その夜、伊織は二通の手紙を書いた。


一通は、お春へ。

もう一通は、静江へ。


『静江へ。


こちらでは、毎日たくさんの手紙を書いています。

誰かの代わりに言葉を残すことが、こんなにも難しいとは思いませんでした。

でも、僕には、どうしても書きたいことがあります。


僕は、生きて帰りたいです。

あなたのいる故郷へ。


そして、ここで出会った人たちにも、生きて帰ってほしいと思っています。』


そこまで書いて、筆を置いた。


冬馬の顔が浮かんだ。


あの男は、誰にも手紙を書かない。

誰にも待たれていないと思っている。


伊織は新しい便箋を取り出した。

宛名を書く。


『葛城冬馬軍曹殿』


そして、最初の一行。


『あなたが帰る場所を、僕は知りません。』


少し考えて、続けた。


『だから、もしよければ、僕の故郷へ来てください。』


書き終えた瞬間、胸が痛んだ。

これは、何という気持ちなのだろう。


尊敬。

憧れ。


それとも、もっと別の。


伊織は便箋を折り畳み、懐にしまった。

まだ、渡せなかった。


*


その頃、冬馬は野営地の外れで、一人煙草を吸っていた。


懐には、古い紙片が一枚。

日清戦争の頃、死んだ戦友が残した手紙だった。


『生きて帰ったら、桜を見に行こう』


冬馬はその文字を見つめ、静かに目を閉じた。

あの頃から、桜を見るのが嫌いになった。


春は、帰ってこなかった者を思い出させる。

それなのに。


「……水無瀬」


名前を呟く。

伊織の笑顔が浮かんだ。


故郷へ帰る約束を、あんなにも真剣に信じている青年。


冬馬は紙片を畳んだ。

そして、生まれて初めて思った。


――あいつから、手紙が欲しい。


誰にも待たれていないと思っていた男が、誰かの言葉を待ち始めた夜だった。


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