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第十九話 故郷へ帰る約束

明治三十七年、八月。


水無瀬伊織が初めて人を殺す夢を見たのは、まだ一度も敵兵に銃を向けたことのない夜だった。


夢の中で、男は何かを叫んでいた。言葉はわからない。ただ、倒れる寸前、その男が懐から一通の手紙を取り出したことだけを覚えている。


目覚めると、満洲の夜はひどく静かだった。


「……母ちゃん」


思わず漏れた声を、伊織は慌てて飲み込んだ。


二十一にもなって情けない。

そう思ったところへ、頭上から低い声が降ってきた。


「母親を呼ぶのに、歳は関係ねえだろ」


顔を上げると、葛城冬馬軍曹が立っていた。


三十二歳。日清戦争を経験した古参兵で、無精髭の似合わないほど整った顔をしている。目つきは悪く、口数は少ない。だが、負傷兵の包帯を誰より丁寧に巻く男だった。


「……聞いてたんですか」


「聞こえた」


「忘れてください」


「努力はする」


「絶対忘れない人の返事ですね」


冬馬は鼻で笑い、水筒を差し出した。


「飲め。明日も歩く」


伊織は受け取りながら、その指に古い傷がいくつもあることに気づいた。


人を殺した手なのだろうか。

それとも、誰かを助けた手なのだろうか。


まだ尋ねる勇気はなかった。


*


伊織は長野の農家の三男だった。


家には年老いた父母と、幼い頃から許嫁と決まっていた早瀬静江がいる。


静江は気丈な娘で、出征の日にも泣かなかった。


『帰ってきたら、畑の石垣を直してね』


最後にそう言って笑った。

伊織は、その笑顔が好きだった。


恋と呼べるのかは、まだわからない。

けれど、彼女のいる故郷へ帰りたいとは、心から思っていた。


「水無瀬」


昼の休憩中、冬馬が声をかけてきた。


「また手紙か」


「はい。同郷の者に頼まれまして」


伊織の膝には、便箋が三枚。

字を満足に書けない兵士たちの代わりに、家族への便りをしたためていた。


「……お前、自分の分は?」


「最後に書きます」


「そう言って、いつも書かねえな」


伊織は苦笑した。


「何を書いたらいいのか、わからないんです」


元気です。

心配しないでください。

必ず帰ります。


どれも、今の自分には少しだけ嘘に思えた。

冬馬は便箋を見下ろし、静かに言った。


「なら、今日食った飯のことでも書け」


「……飯ですか?」


「生きてる証拠になる」


伊織は思わず笑った。


「葛城軍曹って、案外、詩人ですね」


「馬鹿を言え」


そう言いながら、冬馬は伊織の肩に落ちた枯れ葉を払った。


その仕草が、妙に優しかった。


*


数日後、部隊は前線に近い野営地へ移った。


夕暮れ、伊織は冬馬が一人で靴を修繕しているのを見つけた。


「軍曹、手伝います」


「いらん」


「僕、農具の修理なら得意ですよ」


「靴は農具じゃねえ」


「足を守る道具です。似たようなものでしょう」


冬馬は呆れた顔をしたが、結局、針を渡した。

二人で並んで作業するうち、伊織はふと尋ねた。


「軍曹には、帰りを待っている人がいるんですか」


冬馬の手が止まった。


「……いねえよ」


「ご家族は?」


「兄貴が家を継いだ。俺が帰らなくても、困らん」


あまりに淡々とした口調だった。

伊織は針を置いた。


「……そんなこと、言わないでください」


冬馬が顔を上げる。


「何だ」


「帰ってこなくても困らない人なんて、いません」


冬馬はしばらく伊織を見つめた。

やがて、困ったように笑った。


「……お前は、甘いな」


「よく言われます」


「戦場じゃ、その甘さで死ぬぞ」


「じゃあ、軍曹が守ってください」


冗談のつもりだった。

けれど冬馬は笑わなかった。


「……ああ」


短く答えた。


「守ってやる」


その声が、妙に真剣だった。

伊織は胸の奥が熱くなるのを感じ、慌てて靴へ視線を落とした。


*


その夜、砲声が遠くで響いた。

伊織は眠れず、野営地の外れへ出た。


冬馬が立哨していた。


「……眠れねえのか」


「少し」


「明日は早いぞ」


「わかってます」


伊織は隣に立った。


空には星があった。


長野で見上げた星と、同じもののはずだった。


それなのに、どうしてこんなにも遠く感じるのだろう。


「軍曹」


「何だ」


「人を殺すのは、怖いですか」


冬馬はすぐには答えなかった。


「……怖えよ」


伊織は驚いて顔を向けた。


「軍曹でも?」


「慣れたら、人間じゃなくなる」


冬馬は遠くを見つめた。


「怖いままでいろ。だが、怖さで動けなくなるな」


伊織は唇を噛んだ。


「……難しいですね」


「ああ」


冬馬は、伊織の冷えた手を見た。

そして自分の外套を脱ぎ、その肩へ掛けた。


「まずは、生き残れ」


伊織は外套の襟を握った。

煙草と革と、かすかな汗の匂い。


不思議と、嫌ではなかった。


「……軍曹もですよ」


「俺はいい」


「よくありません」


伊織は思わず冬馬の袖を掴んだ。


「僕に生きろと言うなら、軍曹も生きてください」


冬馬は、その手を見下ろした。

何かを言いかけ、やめた。


やがて、伊織の指をそっと外套の内側へ戻す。


「……約束は、できねえ」


伊織の胸が沈んだ。

けれど冬馬は続けた。


「だが、帰るつもりで戦う」


それが、この男にできる精一杯の誠実さなのだと、伊織にはわかった。


*


翌朝、伊織は故郷への手紙を書いた。


『静江へ。

こちらは朝晩、ずいぶん冷えます。

昨日は軍曹殿に外套を貸していただきました。

怖いこともありますが、親切な人がいます。

だから、どうか心配しないでください。』


そこまで書いて、筆が止まった。


最後に一行を加える。


『必ず、帰ります。』


その文字を見つめていると、背後から冬馬の声がした。


「……書けたか」


「はい」


伊織は振り向き、笑った。


「軍曹のおかげです」


冬馬は手紙を覗かなかった。


ただ、伊織の乱れた襟元を直し、低く言った。


「なら、なくすなよ。その約束」


伊織は頷いた。


まだ、知らなかった。


この男が、自分の帰る場所を守るために、いつか帰る場所そのものを失うことを。


そして、冬馬も知らなかった。


誰にも待たれていないと思っていた自分の帰還を、これほど強く願う人間が現れることを。


遠くで、出発を告げる号令が響いた。


伊織は手紙を懐にしまい、冬馬の後ろを歩き始めた。


二人の足元には、乾いた土が続いていた。


桜の木など、一本もなかった。


それでも伊織は、その男となら、いつか春へ帰れる気がしていた。


――第四部、開幕。


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