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第二十四話 あの丘に、桜は咲かない

明治三十八年、十月。


水無瀬伊織が故郷へ帰った日、長野の山々は紅葉していた。

駅には、早瀬静江が迎えに来ていた。


出征の日と同じ、藍色の着物。髪を結う位置だけが少し変わっていた。


「……お帰りなさい、伊織さん」


伊織は答えようとして、喉を詰まらせた。


静江は彼の左手を見た。銃を握り続けた指には傷があり、爪の際には、洗っても落ちない汚れが残っている。


「……ただいま」


ようやく絞り出した声に、静江は微笑んだ。


「お味噌汁、温めてあります」


泣かなかった。

それが、伊織には何よりありがたかった。


*


帰郷して三日目、伊織は畑の石垣を直していた。


出征の日、静江と交わした約束だった。

石を積む手つきは以前より不器用になっていた。砲声に似た物音がすると、身体が勝手に強張る。


「……無理しなくていいのに」


静江が水を持ってきた。


「約束しましたから」


「律儀ね」


「軍隊で覚えたんです」


冗談のつもりだった。

けれど、静江は笑わなかった。


伊織は俯いた。


「……すみません」


「謝らないで」


静江は隣に腰を下ろした。


「私、あなたに聞きたいことがあるの」


伊織は顔を上げた。


「……戦地で、大切な人ができた?」


心臓が止まったようだった。


「……どうして」


「手紙よ」


静江は静かに答えた。


「あなた、いつも誰かのことを書いていたでしょう。怖い顔をしているのに優しい人。自分の傷を隠す人。桜が嫌いな人」


伊織は目を閉じた。


冬馬さん。


その名を、口にすることができなかった。


静江は続けた。


「最初は、頼れる上官なんだと思ってた。でも、途中から……あなたの文章が変わったの」


伊織の指が震えた。


「……ごめんなさい」


「だから、謝らないでって」


静江は少し困ったように笑った。


「私が聞きたいのは、あなたが誰を好きだったかじゃない」


伊織は顔を上げた。


「……今、あなたはどうしたいの?」


その問いに、伊織は答えられなかった。


*


その夜、伊織は冬馬の手紙を開いた。

何度も読み返したせいで、折り目が柔らかくなっている。


『俺は、手紙を書くのが嫌いだった』


不器用な筆跡。

最後の一行だけ、少し右へ傾いていた。


『愛している。』


伊織は指で文字をなぞった。

冬馬の声が、耳の奥に蘇る。


――生きて帰れ。


伊織は涙を拭った。


「……帰ってきましたよ」


返事はなかった。

それでも、続けた。


「あなたがいないのに、帰ってきちゃいました」


窓の外では、虫が鳴いていた。

戦場にはなかった、穏やかな夜だった。


*


数日後、静江は伊織を村外れの丘へ誘った。


そこには、古い桜の木が一本あった。

ただし、何年も花をつけていない。


「……この木、覚えてる?」


「ええ。子供の頃、よく登りました」


静江は幹に触れた。


「私、ここで兄を待ってたの」


伊織は驚いた。

静江の兄は日清戦争で亡くなっていた。


「……兄が帰ってきたら、ここで花見をしようって約束してた」


静江は笑った。


「でも、その年から、この木は咲かなくなったの」


伊織は何も言えなかった。

静江は続けた。


「ずっと、兄が帰ってこないからだと思ってた。でも、違うのよね」


「……何がですか」


「花が咲かなくても、春は来るの」


静江は伊織を見た。


「兄がいなくても、私は生きてきた。あなたが戦地にいる間も、ここで畑を耕して、笑って、ご飯を食べてた」


その声には、静かな強さがあった。


「だから、伊織さん。あなたも、生きていいのよ」


伊織の目から、涙が落ちた。


*


「……葛城冬馬さん、という人でした」


伊織は、初めてその名を口にした。

静江は黙って聞いていた。


「十一歳年上で、口が悪くて、煙草ばかり吸って……でも、誰よりも優しい人でした」


伊織は笑った。

涙が止まらなかった。


「僕は、あの人を愛していました」


静江は目を伏せた。


「……そう」


「今も、愛しています」


長い沈黙が落ちた。

やがて静江は、小さく息を吐いた。


「……悔しいなあ」


伊織は顔を上げた。


「……え?」


「私、あなたと一緒に歳を取れるのに。その人は、あなたの中でずっと若いままなんでしょう」


静江は笑った。

けれど、その目には涙があった。


「……ずるい人ね、葛城さん」


伊織は何も言えなかった。

静江は涙を拭った。


「でも、私も負けないわ」


「……静江」


「私は、あなたと生きるもの」


静江は伊織の手を取った。


「亡くなった人に遠慮して、自分の人生を諦めたりしない」


その言葉に、伊織は初めて、彼女がどれほど強い人なのかを知った。


*


冬が来る前に、二人は祝言を挙げた。


派手なものではなかった。

親族と近しい者だけを招いた、小さな祝いだった。


伊織は静江の白無垢を見つめた。

綺麗だと思った。

その気持ちは、嘘ではなかった。


夜、二人きりになると、静江は静かに尋ねた。


「……後悔してる?」


伊織は首を振った。


「いいえ」


「本当に?」


「……あなたを、幸せにしたいと思っています」


静江は少し笑った。


「それ、軍人さんみたいな言い方」


伊織は苦笑した。


「……癖が抜けなくて」


静江は彼の手を取った。


「私も、あなたを幸せにしたいわ」


伊織はその手を握り返した。


その夜、二人は急がずに互いの温もりを確かめた。

静江が触れられたくない傷を尋ね、伊織が正直に答える。

彼女が涙を流したときには、今度は伊織がその頬を拭った。


失った誰かの代わりではなく、目の前にいる相手として。


*


明治三十九年、四月。


丘の桜は、今年も咲かなかった。

伊織は木の根元に、小さな紙包みを置いた。


冬馬から託された押し花。

そして、自分が書いた手紙。


『冬馬さんへ。


春になりました。


僕は、生きています。

静江と一緒に、畑を耕しています。


あなたがくれた春を、僕はまだ上手に生きられません。

それでも、少しずつ、歩いています。


あなたを忘れません。


でも、あなたがいないことだけを、僕の人生にはしません。』


伊織は手紙を畳んだ。

風が吹いた。

背後から、静江の声がした。


「……伊織さん」


振り向くと、彼女が弁当を持って立っていた。


「お昼にしましょう」


伊織は笑った。


「はい」


静江の隣へ歩き出す。


一度だけ、振り返った。

花の咲かない桜の木。


その枝の向こうに、青い空が広がっていた。


「……冬馬さん」


小さく呟く。


「僕、春が好きになれそうです」


返事はなかった。

けれど、もう、それでよかった。


あの丘に、桜は咲かない。


それでも、二人が愛した春は、確かにここにあった。


――第四部・完。


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