第6話
大学の自転車部の部室というからには、ある程度の権威というか、体裁があると思っていた僕は、目にした光景に足がすくんだ。
壁も床も見渡す限り、自転車とパーツ、開いたスペースは、ローラー台。
汗と油と埃にまみれた男のニオイ。
ほとんどの部員は、また走りに行ってしまったのだろう。
明け放なたれたドアから覗くと、レーサージャージ姿の矢上さんが、ロードレーサーのリアディーラーの調整をしていた。
ひとりかと思ったが、ジーンズに大学のロゴ入りのスェットシャツを着た女子学生と楽しげに話をしている。
その女子学生は、入り口の僕を見つけると、
「あら、気が付かなくてごめんなさい」と言った。
「こんにちは。おじゃまします」
僕が、頭を下げると、すかさず矢上さんが、「ようこそ。文久大自転車部へ。彼女は、良子ちゃん。部のマネージャーだ。」
「萩原貴志です。よろしくお願いします。」僕は、改めて挨拶した。
「日本海まで、彼女に会いに走りたいというナイトの君か・・・カワイイじゃない」
僕は、なんと答えていいのか、わからずに、「坂本さんは?」と話をそらした。
「君が来たら、秘蔵のコーヒーをふるまうといって、裏にいる。部室の中で、ガソリンストーブで、お湯を沸かされると迷惑だからね。いや、君のせいじゃないよ」
「いやーっ、現れたな。後輩よ。待ってたぜ」
裏の戸をあけて、坂本さんがニコニコしながら顔を出した。
部室の裏にわずかな空き地があり、そこにも、ローラー台がならんでいて、その傍らで、坂本さんが、真鍮製の筒のような、超小型のコンロにやかんをかけていた。
そのいかにも年季がはいった、小さなコンロは、シュボボボボボーっと大きな音を立てて、炎を吹きだしていた。
「もういいかげん、スベアは卒業しろよ。ヒマラヤで湯を沸かすんじゃないんだぜ。ガスで十分だろ」
「何を言うか、ツーリングには、氷点下でも確実に湯がわかせるこれしかない」
「今は、初夏だ。ろうそくでも湯はわく。はた迷惑なこった」矢上さんがあきれた声で言ったが、目は笑っていた。
「山の中でひとり野宿の時なんて、この音がどれだけ心強いことか・・・。ガスストーブなんてものは、つまらないこと甚だしい。あんな特殊なガスボンベなんぞ、旅先で調達できるかいな。その点こいつなら、いざとなれば、ガソリンスタンドでガソリンを分けてもらえば、どこでも使える」
坂本さんは、瓶からコーヒー豆を取り出すと、ミルで丁寧に引いて、ネルのドリップに詰めると、湧いたばかりの湯をゆっくりと注いでいった。
たちまちおいしそうなコーヒー香がただよいだした。
「どこの豆だ?」
「トラジャ。幻の豆だぞ」坂本さんが胸を張った。
坂本さんは、アルミのカップで、まず僕に差し出すと、各自に入れたてのコーヒーを振る舞った。
「じゃあ、貴重な後輩の助っ人君に乾杯!」坂本さんが言うと、「異議なし!」と矢上さん。
少し、苦いが、深みのある味は、あまりコーヒーになじみのない僕でも、とても美味しく感じた。
「うん、さすがにうまいな。まずフレームをどうするかだ」矢上さんがコーヒー片手につぶやいた。
「その前に車種だろ。65042Bのボカマのクラウンのランドナー」とすかさず坂本さんが応じた。
「あの・・・」また果てしない自転車談義が始まりそうなので、
「何をお手伝いすればいいでしょうか」と聞いた。
「いいこね。うふっ、おねえさんについてきなさい!」
良子さんが、手を引かんばかりに差し出した。
「ちょっと待ったぁ。ここで、そのチラシが百枚すってくれ」と謄写版を指して坂本さんが叫ぶ。
「百人も来るわけないだろ。お前が企画したイベントだぞ。ディーラーの調整を教えてあげるから手伝いたまえ」と矢上さん。
「順番にこなしていきます!」僕が真剣に応えたので、一同に大きな笑い声が広がった。




