第3話
薄暗い店の中、所狭と並んだ修理中の高そうな自転車達。
棚に収まりきれず、テーブルや、作業台まではみ出した様々なパーツ。
よく見ると、値札がついているから売り物なのだろう。
金属と、グリスと、安物のコーヒーのニオイ。
いかにも怖そうな店主のおじさん。
僕が受験した付属中学の、大学生のような人達が、いつもたむろしている。
僕は、前を通るたびにこの自転車屋さんが、気になっていた。
自転車は、好きだったが、小学生の時に買ってもらった、いわゆるジュニアスポーツ車しか経験がなかった。
でも、当時流行っていたセミドロップハンドルではなくて、一応ドロップハンドルだった。
五月初めの晴れ渡った土曜日の午後だった。
僕は、意を決して、とうとうこのお店の内に入ったのだった。
旅の最初の一歩を踏み出すために。
店の中には、ダンガリーのワークシャツを腕まくりした山男風の髭面のおじさんと、ネービーブルーのブレザーと、ジーンズ姿のいかしたおにいさん、それにこわそうな店主のおじさんが、コーヒー片手に何やら議論の最中だった。
「フランスだ、フランス!日本のパーツには、テイストちゅうものがない。使えりゃいいってもんじゃないぜ。芸術はフランス。TAのギヤクランク、マファックのセンタープルブレーキ、ユーレーのディーラー、イデアルのサドル、これぞ芸術のフランスのテイストだ!」と髭男がわめいていた。
「おまえのように、ちんたら自転車をこいでいる連中は、味でも芸術でもいいかもしれんが、こちらは、1/100秒を争って走っているんだ。変速のタイミングひとつで負けることもあるんだぜ。まず、パーツの信頼性、軽さ、そして値段だ。国産のパーツは進歩が著しい。このシマノのディラエースのディーラーを見ろよ。仕上げだってユーレーよりも美しいと思うぜ」とブレザーにいさん。
「自転車は、全体のフォーマットが取れてないといかん。ロードでもテイストの統一は大切だ。なによりもフレーム、全体のバランスが取れていないと結局早く走れない」
と店主のおじさん。
僕のことなど、まったく眼中にないようだ。
TOEI、SANNOW SPORTS、CHELUBIM、Cinelli、3Rensho, COLNAGO・・・
しかたなく僕は、天井からつるされた自転車のフレームに書かれたロゴを目で追っていた。
「ちょうど、コーヒーが入っている。君もどうだい」
意外にやさしそうな声でおじさんがさそった。三人の視線が集中する。
「いただきます。ありがとうございます」
僕は、自然と笑顔になり、三人の輪に加わった。
「自転車が好きなのかい?」と店主のおじさん。
「はい、旅に出る自転車を探しています」
見る見る髭男が、満面の笑顔になった。
「そりゃいい、旅はいいぜ。君くらいの年なら怖いものなしだ」
「お前だって怖いものなしだろ。どのくらい走るつもりなんだい?」
さっそくブレザーにいさんが冷静に問いかける。
「日本海まで往復したいんです」
ひゅう!口笛が聞こえた。
「君、今までにどのくらい走ったことがある。一日に?」
ブレザーにいさんの目が笑っていた。
「せいぜい、30kmくらいです」
「まず、50km、その次には、100km。一日に100km以上走れればそれほど難しい距離でもないと思う。できれば120kmくらいを週末毎に走りこめば楽勝だぜ」
「あのなぁ、ファストランをやるんじゃないんだぜ。なんで日本海まで走りたいんだい?」
山男が真面目な顔で聞いてきた。僕は、自分を変えるため・・とは言えなかった。
「友だちに会いに行くんです。約束したので」
「女の子かい?」ブレザーにいさんの目が笑っていた。
僕は、うなずいた。店内にいっせいに明るい笑い声が広がった。
耳が赤くなるのが自分でもわかった。
「いや、笑って悪かった。僕は、文久大工学部の矢上幸一。自転車部で競技班班長。専門はロードレース。力になるぜ」
ブレザーにいさんが右手を差し出した。芝居じみていたが、悪い気はしなかった。
「萩原貴志です 広陵中学二年です」
「わしは、同じく文久大文学部兼自転車部、坂本敏明。ツーリング班班長。貴志君、君を男にするのに協力を惜しまない」
髭面の山男も右手を差し出した。この人も大学生だったんだ。
僕が、入れなかった付属中学のその先の大学生の皆さんとこんな風に話ができるなんて・・。
それだけで僕は、うれしかった。
「自転車の専門的なことはわかりません。勉強したいので教えてください」
僕は素直に頭を下げた。




