第24話
窓から差し込む夏の日差しで起こされた。
寝ぼけ眼で窓を開けると、蝉の大合唱と、夏のスキー場の緑の丘が目に染みた。
僕は、今、日本アルプスのヒュッテにいるんだっけ。
時計を見ると、8時を回っていた。ダイニングに降りていくと、ベーコンの焼けるおいしそうな匂いがした。
「おはようございます。寝坊しました。すいません」
「よくお休みになれたようですね。もう少ししたら起こしにいこうかと、新田さんと話していたところです。
見ると、栄子さんは朝食を終えて、既にコーヒーを飲んでいるところだった。
今日は、ハヤブサと同じ、フレンチブルーのポロに、デニムのミニスカート姿だったが、夏の高原のヒュッテのダイニングとよくマッチしていた。
「起こしてさしあげられなくて残念だったわ」栄子さんは、軽くウインクしたが、ちょっとぎこちなくて、心なしか顔が赤かった。
寝ぼけている自分が少し恥ずかしくなったので、
「5分で顔を洗って着替えてきます。」とダイニングを飛び出した。
外へ出ると、既に気温が上がってきているのがわかった。
頭から水を浴びる。夏の朝の冷たい水で完全に目が覚めた。
エントランスにたたずむハヤブサを見ると、とにかく、走りたくてたまらなくなった。
「今日は、いよいよ、日本海をこの目で見るんだ。頼むぜ、相棒!」
部屋に戻り、陽子さんがプレゼントしてくれた真っ白な新品のレーサージャージに袖を通した。
鏡の中には、よく日に焼けて締まったサイクリストの自分がいた。
「あら、素敵じゃない!」ダイニングにおりていくと、真っ先に栄子さんがほめてくれた。
たっぷりとおいしい朝食をいただき、しっかりと、栄子さんとツーショットを撮ってもらっていよいよ出発だ。
「東京にもどったら、連絡してね。写真ができたら、渡したいから」
「ええ、ありがとうございます」
女の子から、手書きの住所をもらったのは、初めてだったので、少し緊張した。
考えすぎだと、自分でも思ったが。
ヒュッテの外まで出てきて見送ってくれるおじさんと、栄子さんに別れを告げて、いよいよ出発だ。
入道雲の湧き立つ夏空の下、山に向かって真っすぐに続いていく高原の道。
見慣れたこの景色も後少しで終わるはずだった。
たっぷりと休養を取ったつもりだったが、ペダルが重かった。
いつものリアのサードを、一段ローに落とした。
風、風があるのだ。今まで、あまり体験したことのない強い向かい風だった。
サイクリストの敵は、上り坂だけではない。むしろ、向かい風の方がしんどいという人もいる。
ロードレースで、チームで一列に並んでトレインを組んで走るのも、風の抵抗をチームで分担するためだ。
後は、気軽に海に向かって下るだけだとタカをくくっていた僕への、強烈なしっぺ返しだった。
道は、明らかに下りなのに、懸命にこがなければ前に進めない。
すぐに、道は、長いトンネルに入った。フランス製のソービッツのライトは、おしゃれだが、電圧が低く、今一つ明るくない。
ほとんど気休めにしかならないが、それでも点灯して長いトンネルを走っていく。
トンネルの中で、風がないというのは、こんなにも楽に走れるものなんだ。
うそのように、ペダルが軽くなった。
幸い交通量が少ないので、車に脅かされることはなかったが、天井のオレンジ色のライトだけのトンネルは寂しさが身に染みた。
ソービッツのダイナモが回る軽い音も心なしかわびしく思えた。
トンネルを抜けると、容赦ない向かい風、そして、またトンネル。
道は、どこまでも続いていく。そして、前に立ちはだかる山また山!
気温も上がってきた。こんなことなら、もっと早朝に出発すべきだった。
あのおしゃれで快適なヒュッテの生活は、僕の旅の姿ではなかった。
トンネル、向かい風、行く手を遮るようにそびえたつ山、そしてトンネル、また向かい風、山また山、トンネル。
焼けるような夏の日差し、うるさいくらいの蝉の声。
もうたくさんだった。
数えるのもめんどうなほど、沢山のトンネルを抜けて、少し開けた橋の上で僕は、ハヤブサを止めた。
足が、鉛のように重かった。走っているときは、あれほど辛かった風がむしろ心地よい。
高原の風は、もう秋の匂いがした。
「必ず日本海まで行くんだぞ。途中でやめたら承知しないからな」風の中で、伸二の声がした。
「わたしも応援する!」千佳子の顔が浮かんだ。
この旅は、僕一人の孤独な旅ではなかった。応援してくれる人がたくさんいるんだ。
それが、豪田さんの旅とは違う。僕は、豪田さんがさみしそうな顔をしていたのがわかった気がした。
僕は、橋の欄干に立てかけたハヤブサを見つめた。
高原の夏空の下、フレンチブルーのハヤブサは、いかにも軽快で走りたさそうだった。
「いかなくちゃ。待っている人がいる」僕は、また、山々に向かって走り出した。
向かい風と格闘するうちに、ほどなくして、姫川と表示のある大きな橋に差し掛かり、突然、景色が開けた。
橋を渡ると、あれほど、威圧的に僕の前にそびえたっていた山がなくなっていた!
風は、相変わらずだったが、ペダルに力が入った。
道は、ますます平坦になり、僕の行く手に、もはや山は見えなかった。
僕は、とうとう山を越えたんだ! 山の向こうに来た。
ギヤをシフトアップする。風を切り裂くように、ウォルバーのタイヤが回り出す。
もはや、まったく疲れを感じなくなっていた。
ハヤブサと僕は、川に沿って疾走した。
やがて大糸線の線路が見えてきて、街に入った。
北陸自動車道の高架をくぐると、糸魚川ICの標識が見えた。
そして、潮の匂いがした。
僕は、ギヤをトップに入れて全力疾走した。
潮風をハヤブサが切り裂く。
突然、道が終わった!
標識は、もうその先の表示がなく、左右の矢印があるだけだった。
そして波の音が聞こえ、真っ白な沸き立つ入道雲の下、どこまでも広がる青い海が見えた。
日本海だった!
とうとう、僕は、日本海に来た!
自分の力で、自分の眼で日本海を見ることができた。
あの時、底抜けに明るい夏空の下、眼の前に広がる青い海を、僕は、生涯忘れない。
それは、少年の僕にとって、人生の可能性の象徴だったのだ。
僕が、本当に確かめたかったのは、自分自身の可能性だった。
それを自ら納得するために、僕は山を越えて、ここまで来たのかもしれなかった。




