第23話
暮れていく山々をぼんやり眺めていると、栄子さんが顔をだした。
「お待たせ。お風呂空いたよ。洗濯モノは、ランドリーのところに干しておいたから。忘れないでもっていってね」
「ありがとうございます。替えがないから、忘れることはありません」
今日のお客さんは、栄子さんと、僕だけのようだった。
夏のスキー場なんて、こんなものなのかもしれない。
風呂は、小学生の頃に来たときよりも、狭く感じた。僕が大きくなったのだが。
ヒグラシの声を聴きながら、ゆっくりと、温泉を堪能できた。
部屋に戻る途中で、夕食の支度のよいニオイがした。そういえば、ここは、なんでも自家製で、料理が自慢なんだっけ。
すぐに、夕食を知らせる鐘の音がして、ダイニングにおりていくと、様々な前菜がならんでいた。
「メインは、信州牛のハーブ焼きです。その前に前菜をどうぞ」
ほどなくして、栄子さんが、チェックのサマードレス姿で現れて、僕の向かいに座った。
しっかりと、お化粧までしていた。僕が、あっけにとられていると、
「貴志さん、グラスを取ってくださる」
「変身しすぎですよ。やりずらいんですけど。」僕が、ワイングラスを持っていくと、
「少年のひと夏の思い出に残してもらうためよ。素敵なお姉さまとしてね」
「最初から充分素敵です」
栄子さんは、一瞬赤くなってうつむくと、うれしそうに、ニコリと笑った。
「信州ワインはおいしいんですが、おふたりとも、未成年なので、リンゴジュースで我慢してください。炭酸でわりますか?」とおじさん。
「お願いします。それだけだと、甘すぎるので、」僕がすかさず言うと、
「お父さんと似て、お味にうるさいようですね。今日は、腕を振るいました」
僕は、ビーフの香草焼き、つまりステーキが最高においしかった。
もっと食べたさそうな顔をしていたのだろう。栄子さんが、少しわけてくれた。
その代り、デザートの杏のタルトは、半分あげた。
こっちは、栄子さんの方がもっと食べたそうだったから。
文句のない食事を楽しみながら、僕は、この旅の体験を二人に語って聞かせた。
とくに、お寺で野宿した話は、大うけだった。
ワッパ熊さんこそ、豪田さんの野宿のスキルは二人とも感心したみたいだった。
豪田さんは、今頃、晩夏の木曽路をひとりで旅をしているのだろうか。
食事が終わって、部屋に戻る途中で、地下のランドリー室へ洗濯モノを取りに行った。
驚いたことに、栄子さんの、洗濯モノといっしょくたにしてロープにほしてあった。
僕は、隣に干してあるレースのついたピンク色の小さな洗濯モノを、できるだけ見ないようにしながら、自分のレーサージャージを外した。
ちょうど、栄子さんも降りてきた。
「あら、よかったら、それも記念にもっていっていいよ」
「ジャージを洗濯していただいただけで充分です」僕は、あさっての方を向いて言った。
部屋に戻ってしばらくすると、案の定、栄子さんが顔を出した。
「さて、少年、恋の相談に乗ってあげよう。写真を見せなさい」
からかわれるのはわかっていたが、僕も栄子さんともう少し話していたかったので、
「別に恋とかそんなんじゃありません。幼馴染の友だちです」と、沙紀ちゃんの写真を見せて、手紙の話をした。
栄子さんは、写真を食い入るように見つめると、「うーん、妹路線かぁ、こういう手があったんだ!」と意味不明なことをつぶやいていた。
なんか、千佳子がもう少し大人になったら、こんな風になりそうだな、と思ってしまった。
そのあと、二人でどうでも良い話を延々とした。栄子さんの美術や、写真の造詣はすごかった。
栄子さんの言ったことをひとつだけ、今でもよく覚えている。
「写真に限らず、ある時間を切り取って永遠に残すって、ある意味、すっごく残酷なことだと思わない?たとえば、ワタシが、おばあさんになって、少年の君が山にむかって、ぐいぐい坂を登っている今日の写真を見た時、なんて思うのかな」
「その時は、僕もおじいさんですよ」僕は、外しているのをあえて承知で言った。
確かに、今のこの時は、その場限りで、もう二度と繰り返すことはできない。
さすがに、10時を過ぎたのでお開きにしようとしたが、終わり際に、もう一回思いっきりからかわれた。
「ねぇ、きみ、キスしたことある?」栄子さんが、正面から僕の顔を見つめて言った。
「なっ、ないですよ」
「練習してみない?」
と栄子さんは、あさっての方を見ながら、小声でつぶやいた。心なしか顔が赤かった。
僕が、固まっていると、
「うそよ、うそ。からかってごめんねぇ。おやすみなさい。」
そう言うと、栄子さんは部屋に戻っていった。
いよいよ明日は、日本海だというのに、その夜はなかなか寝付けなかった。
確かに、「今のこの時間」は、二度と、繰り返すことはできない。何度そうありたいと思っても。
このことが本当にわかったのは、ずっと大人になってからだった。




