第20話
山の朝の冷気で、自然に目が覚めた。
軒下から、這い出すと、ちょうど山の向こうから夏の太陽が昇るところだった。
僕は、顔をだしたばかりの太陽に向かって柏手をうつと、この先の旅の安全を祈願した。
境内の手水舎を借りて、手足や顔を洗わせてもらっていると、豪田さんが起き出してきた。
「おはよう。君の方が早やかったな」
「寒くて、目が覚めただけです。よい経験になりました」
「さて、立つ鳥は後を濁さず、だ」
豪田さんと境内を掃き清めていると、住職さんが、登ってくるのが見えた。
「おはようございます」
住職さんは、僕達を見て「ご苦労さまです」というと、あはは、と朗らかに笑った。
県道に出たところで、豪田さんと別れた。
「またどこかで会ったら、いっしょに旅をしよう」
「こちらこそお願いします。ありがとうございました」
僕は、豪田さんの姿が見えなくなるまで見送った。
ほんとうに楽しい二人旅だった。
「さあ、ハヤブサ、今日も頼むな」
僕は、すっかりなじんで体の一部になったイデアルの革サドルを撫でると、ハヤブサに跨たがった。
その気になれば、今日中に、日本海まで行ける距離だが、今晩は、父が大学時代良く泊まったという南小谷村のヒュッテに宿泊することになっている。
大糸線にそって走る。標識に「糸魚川」と表示されるようになった。
いよいよ日本海が近づいてきたんだ。
まだ店も開いていない時間なので、駅で朝配達されたばかりの駅弁を買い、待合室で食べることにした。
夏空の下のローカル線の駅で聞こえるのは、蝉の声ばかりだった。
自転車で旅をしていると、とにかく、何を食べてもおいしかった。
湧き立つ入道雲の下、最後の日本アルプスの山々に向かって、道は一直線に続いて行く。
あまり交通量も多くなく、聞こえるのは、風の音と、道路を滑るウォルバーランドナータイヤの軽やかなロードノイズだけ。
僕は、間違いなく「今」を生きている。
市街地が尽きる頃、また峠の登りが始まった。
今日は、たっぷりと時間があるので、フロントのギヤをインナーに落として、ゆっくり登る。
このフロントインナー34Tのギヤと、ウォルバーの軽量タイヤには、ほんとうに助けられた。
しばらく登ると左手に湖が見えてきた。木崎湖だった。
県道を離れ、涼しい湖畔の道を進む。
やがて、湖畔の道は、大糸線の高架をくぐって、また県道に合流した。
木崎湖を左に見ながら、ゆるやかな登りが延々と続く。
これまで越えてきた峠よりもずっと楽に感じた。
行先標識に必ず、「糸魚川」と表示されているのを見るだけで、背中を押されている気がした
。
「小谷29km。糸魚川 70km」
本格的な峠道に入ると、長い下りが始まり、中網湖、青木湖と続いた。
白馬村はもうすぐそこだ。
道も平坦になり、白馬駅が見えてきた。
今日の宿の南小谷村のヒュッテまでは、もう10kmもなかった。昼にはついてしまう。
駅前の公衆電話から電話を入れると、それなら昼食を用意しておきますと言われた。
無理に時間を潰す必要がなくなったので、今日はもう宿にチェックインすることにした。
宿で過ごす時間を楽しむのも、旅の楽しみひとつだ。これも坂本さんの言葉だったが。
夏の間は、シーズンオフなので、白馬界隈は、静かだった。
僕は、高原の夏木立の中をのんびりとハヤブサを走らせた。
街道沿いの橋の上から、清流を眺めてしばらく佇む。
自分の力だけでここにいることが自分でも信じられなかった。
糸井川までは、もう一本道を行くだけなので、迷うこともない。
僕は、いつものカーターファミリーのメロディを口ずさみながら、ハヤブサを走らせた。
しかし、いくら走っても、相変わらず道の向こうには、山の姿があった。
ほんとうに、この山の向こうに行くことができるのだろうか。
重なりあう山々を見つめながら、そう思わざるを得なかった。
「糸魚川 50km」標識がそう告げた。
ほんとうに、走れそうだ。あの山々の向こうの日本海まで。そう思えてきた。
しかし、道が続く向こうは、やはり重なり合う山々しか見えなかった。
アップダウンもそれほどでなく、静かな高原の風の中、千国街道を快調に走っている内に、白馬大池駅も過ぎ、小谷村に入った。




