第1話
貴にいちゃん、お元気ですか。
沙紀は、とっても元気です。
去年の夏休み、来てくれるのを楽しみにしていたのに。
中学はいろいろ大変みたいですね。
父や母も、貴ぼうは元気にしてるかなと言っています。
沙紀も、5年生になって、だいぶ背が伸びました。
今年のいまいが浜の花火大会は、8月16日です。
またいっしょにいけたらいいな。
藍川沙紀
4月の最後の日曜日、ポストを開けた僕に、ひと足早い夏の便り。
真っ青な海のイラストの入った可愛らしい葉書に、手書きの丸っこい文字が定規ではかったように等間隔に並んでいた。
一瞬、子供の頃のむせ返るような夏の海のにおいを嗅いだような気がした。
小学校5年の夏を最後にいまいが浜には行っていない。
僕、萩原貴志には、居場所がない。
結局何にもならなかったあの中学受験のせいだ。
行きたくもない近所の公立中学に通わされて、2年生になった今でも、感じるのは違和感ばかりだった。
「あの日、熱さえなければ・・・。」何度悔やんでも、過去は変えられない。それは分かっていた。
何もかも明るい光に包まれる、本来なら心浮き立つ季節。
その春の光を浴びて、付属中学の制服姿で、友だちと笑いながら、歩いていく自分。
何度も夢に見た自分の姿。
その選ばれた一員として、誇りに満ちた、誰にでも胸の張れる自分の姿。
何もかも、夢に終わった幻の姿。
今でも、あの付属中学の制服を見ると、影に隠れる自分がひたすら悲しかった。
僕は、乱暴にポストを閉じると、うつむいて明るい陽射しを避けるように自室へ駆け上がっていった。
部屋のドアを閉める。誰にも脅かされない僕だけの世界。
ここにいられさえすればいい。
生きているのがつらかった。この先、どれだけ長い人生が待っていようとも。
悲しいことに、僕は今を生きているのだった。
でも、何のために生きているのだろう。
いつも考えてきた。
常に、どうしよう・・・とくよくよ考え続ける日々。
片時もやすまらないし、何も楽しめない。
今の学校の友人なんて、何の慰めにもならない。
人生の終わりこそ、開放される日々。
それを夢見て、指折り数える毎日。
時間がくれば、すべては必ず終わるのだということがせめてもの救い、それが人生だという残酷な現実。
何をすれば、どうしようかと、くよくよ考ええなくてもすむのか。
こうしようと楽しいことを考えることができるのか。
僕は、遠くの空に眼をやりながら、相変わらず答えのない問いを頭の中で繰り返していた。
「めんどくさいな。死んじゃおうか…」僕は、声に出して、つぶやいていた。
「沙紀ちゃんか・・」
いまいが町は、父の故郷だ。
日本海に面したどこにでもある海辺の田舎町。
毎年、いまいが町で夏をすごすのが、僕のもの心ついてからの夏休みだった。
もう父の両親は、とっくに東京に移り住んでいて実家はない。
いまいが浜のおじさんと言っているが、親戚でもなんでもなくて、父の親友だ。
今では、いまいが町の町長さんだ。
沙紀ちゃんはそのひとり娘で、僕とはよっつ違い。
僕も一人っ子だからよくいっしょに遊んだ。
まんまるい眼をしたキューピーさん人形みたいな女の子。
沙紀ちゃんというと、まずその丸い大きな眼を思い出す。
夏空の下、岬が見える海沿いの道を、沙紀ちゃんの手を引いて歩いた幼い頃の夏休みの日々。
僕は、ちっちゃな沙紀ちゃんを自分の妹のように思っていた。
僕の中で、今でも沙紀ちゃんは、あの海辺の街で、夏休みの日々をいっしょに過ごした妹のままだった。
いまいが浜の海は、今でもあの頃のままなのだろうか。
僕は、部屋の窓から、遠い空をに眼をやった。
東京の郊外の僕の部屋の窓からは、当然海は見えない。
彼方に衝立のようにそびえ立つ山々が見えるだけ。
ずっと続いていく同じような家並みと、申し訳程度の緑の公園。
丘陵を開拓して出来た典型的な新興住宅地だった。
僕は、いまいが浜の海を思い出しながら、遠くの山々をぼんやりと眺めていた。
でも、新緑の光は、絶望した少年にも分け隔てなく降り注いでいた。
開け放った窓から、気持ちの良い風が吹き抜け、丘を登って行く九十九折の道に、ふと、銀色の光の輪が眼に止まった。
新緑の中で、自転車の銀輪が日を受けてきらきら輝いていた。
その自転車は、結構な急坂をものともせず軽やかに登っていく。
普通の自転車ではない。前にバッグひとつ付けた如何にも軽そうなスマートな自転車。
それが、初夏の光の中、丘を駆け上っていく。
坂の勾配がきつくなると、立ち上がって、リズミカルに自転車を左右に振る。
スピードは落ちない。勾配が緩くなると、腰を降ろし、あくまでもペースを落とさずに坂を上っていく。
僕は、憑かれたように眼で追っていた。
自転車は、あたかも、あの遠くの山々に一直線に向かっていくように見えた。
「あの山の向こうには何があるのだろう」
今まで考えたこともない疑問が浮かんだ。
僕の中で、見慣れた遠くの山々の景色が急に変わっていった。
「あの山の向こうには、きっと海があるはずだ。あの山を越えて、どこまでも、どこまで
も走っていけば、いつしか日本海に出て、いまいが町にいける!」
体中に電撃が走った。
あの山の向こうには、海があるんだ。
あの懐かしい広い広い大きな海が。
いてもたってもいられなかった。
僕は、適当なはがきを取り出すと、沙紀ちゃんに返事を書いた。
沙紀ちゃん、お手紙ありがとう。
今年は、いまいが浜の花火に行きます。
でも父に連れて行ってもらうのではなくて、自分の力だけで行きたいと思っています。
必ず行きますので待っていてください。
ここまで書いて、さすがに大げさだと思い書き直した、
今年の夏の良い目標が出来ました。計画が出来たらまた手紙を書きます。
萩原貴志
こんなにわくわくしたのは、まったく久しぶりだった。
もうあの自転車は丘の向こうへ行ってしまって、姿が見えなくなっていた。
「もう終わりにしよう。自分で自分を嫌っていても何も始まらない。」
僕は、遠くにそびえ立つ山々を見ながら、つぶやいた。
灰色一色だった僕の季節が動きだした瞬間だった。
窓から見かけた一台の自転車が、僕に夢をくれた。
僕はもう変わりたい。




