プロローグ
「お父さん。これ、なに?」
息子が、古びた革のサドルを持ってきた。
私は一目見ただけで、それが何なのか分かった。
三十年以上前のものだ。
革はすっかり黒ずみ、表面には細かな傷が残っている。
けれど、その形を忘れたことはなかった。
私はサドルを受け取った。
掌に、あの夏の感触が蘇ってくる。
風を切る自転車。
焼けたアスファルト。
いつ果てるともない峠の上り坂。
雨宿りの隧道。
夕陽に向かう下り坂
汗。
向かい風。
そして――坂を超えた先に広がる真っ青な海。
「これ、お父さんの?」
「ああ」
「昔、自転車に乗ってたの?」
「乗ってたよ」
「どこまで?」
私は少し考えた。
「日本海まで」
「……日本海?」
息子が目を丸くした。
「東京から?」
「ああ。東京から」
「自転車で?」
「ああ」
息子は、しばらく黙って私の顔を見ていた。
「なんで?」
その質問に、私はすぐには答えられなかった。
三十年以上も昔のことなのに、その時の気持ちは、今でも不思議なくらい覚えている。
中学受験に失敗した。
友達とも、うまくいかなかった。
学校へ行っても、自分だけが取り残されているような気がした。
だから、遠くへ行きたかった。
自分の知らない場所へ。
山の向こうに何があるのか、自分の目で確かめたかった。
そんな時だった。
一通の葉書が届いた。
差出人は、父の故郷の日本海沿い街に住む幼馴染の女の子。
封筒を開けると、そこには短い言葉が書かれていた。
――貴にいちゃん、お元気ですか。
あの葉書が、私の人生を変えた。
「お父さん?」
「ん?」
「その話、もっと聞きたい」
息子は、古いサドルを見つめている。
その目を見て、私は思わず笑った。
昔の自分も、きっとこんな目をしていたのだろう。
「そうだな」
私はサドルを机の上に置いた。
「じゃあ、話そうか」
あの夏のことを。
山の向こうを自分自身の目で見るために、あの時、僕は旅に出た。
それは、自分の可能性を信じて、自らの世界を広げていくことだったんだ。
その話を始めよう。
すべては、一通の手紙から始まった。




