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第11話

旅立ちの朝が来た。


夏の早い夜明けすら待ちきれず、僕は、四時に起きて、矢上さん直伝のストレッチで体を目覚めさせた。


少しでも早く出発したかったので、昨夜のうちに、両親へ挨拶を済ませておいた。


ガレージに降りていくと、何日もかけて、入念に整備した我がハヤブサが待っていた。


「おはよう、さあ、一緒に日本海を見に行こう。相棒!」


僕は、これから多くの時間を過ごすことになるイデアル90の革サドルをそっと撫でた。


ハヤブサを朝の冷気の中へ引っ張り出す。


フレンチブルーのフレームがその日最初の夏の太陽を受けてキラキラと美しかった。


「事故に気をつけるんだぞ。藍川さんによろしくな」


振り返ると、いつの間にか、父と母が見送りに出て来ていた。


「起こしちゃったみたいだね。大丈夫だから」


「毎日、必ず電話を入れるのよ。くれぐれも事故には気を付けてね」母は心底心配そうだった。


「大きくなったな・・・」父がつぶやいた。


フレームのダウンチューブと、シートチューブに直付したボトルに水を満たして、いよいよ出発だ。


「じゃあ、行ってきます」


僕は、家の前まで来て見送る父と母に頭を下げると、ハヤブサのペダルを踏み込んだ。


ウォルバースーパーランドナーのタイヤが滑るようにまわりだす。


夏の朝のさわやかな空気が、風になって、どんどん、僕の後ろへ流れて行った。


不安がないと言えばうそになる。


でも、僕の頭の中で、坂本さんが好きなアメリカの古い歌、

カーターファミリーの「Keep on sunny side」が鳴っていた。


こうして、僕は、旅に出た。


多摩川にかかる橋の途中で僕は、川向うに広がる自分の町を振り返った。


今度、ここへ戻ってくるときは、僕は、少しは変わることができているだろうか。


まだ五時前だというのに、もう町は動き出していた。


様々な人が、その日の生活を始める準備をしていた。朝の町の生活の音は饒舌だった。


それを人ごとのように、眺めている僕は、既に旅人だった。


僕は、何台もの新聞配達の自転車とすれ違いながら、山の向こうへハヤブサを走らせた。


朝の涼しいうちに、大垂水峠を越えて山梨県に入りたかった。


相模湖までは、何度も走っていたものの、やはり、旅の初日ということもあり、力が入ってしまう。


大垂水のヒルクライムで力を消耗してしまわないように、ギヤを軽めにして力まずに登っていった。


大型のフロントバッグと、リアにサドルバッグをつけているものの、フロントインナーローギア、34Tのハヤブサは軽快に峠を上っていく。


上りきって、見慣れた相模湖が見えたところで、僕は、小休止してボトルの水を飲んだ。


旅は始まったばかりだ。まだまだ先は長い。


下り坂で、フロントギアをアウターに戻し、リアをトップにシフトすると、夏の朝のさわやかな風が、音を立てて後ろへ飛び去って行く。


僕とハヤブサは、湖に向かって矢のように下っていった。


すぐに湖面が見えてきた。湖を現物したかったが、ここで時間をとるわけにはいかない。


湖畔の道で、何人かのサイクリストと行き会う。


ほとんどランドナーにバッグを付けた旅人仕様だった。


誰もが、当然のように、親しげに挨拶を交わして、走り去って行った。


皆、同じサイクルツーリスト仲間だった。


僕は、甲州街道の脇道をつなぎ合わせながら、一路、北北西へハヤブサを走らせた。


頭の中では、いつも、カーターファミリーのギターと歌声が鳴っていた。


何百年前から変わらずに佇む古い街道沿いの町並みの中を、走り抜けながら、涼しげな木陰を見つければ、しばらく佇み、降るような蝉の声の中で、ボトルの水で喉を潤した。


昼近くになると、レーサージャージを通しても、さすがに日差しが肌に痛くなってきた。


街道のはずれに、古い神社が見えた。まだ少し早いが、ここで昼食にすることにした。


僕は、ハヤブサから降りると、押して境内へ入っていった。


うっそうとした境内は、降るような蝉の声だけで、人影もなかった。


僕は、木立の脇にハヤブサを立てかけると、まず、神社にお参りをした。


「無事にこの旅を終わることができますように。そして、帰ってきたら、男として、成長していることを約束します」


それから、手押し式の井戸で、頭から水を浴びた。


火照った頭に澄んだ冷たい湧き水が気持ち良い。


神社の軒下に腰をかけると、母が作ってくれた握り飯を広げた。


今日は初日ということもあって、ウォーミングアップもかねて70㎞くらい走って、甲府市内のユースホステルで泊まるつもりでいた。


もう大月近くだから三分の二は来たことになる。


食休みもかねて、神社の参道横のベンチに寝転がる。


目を閉じると、蝉の声に交じって、川の音がすぐ近くに聞こえる。


日本の山里の夏だった。


「ああ、僕は、とうとう旅に出たんだ・・・」


挿絵(By みてみん)


いつの間にか少し眠っていたらしい。


腕時計を見ると、もう二時をまわっていた。


僕は、もう一度井戸で水を浴びると、古い神社を後にした。


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