第9話
雨さえ降っていなければ、ハヤブサで毎日走った。
まったくコイツは最高だった。
下り坂なんて、ほんとうに空を飛んでいるじゃないかと思ったくらいだ。
地面すれすれを滑空するグライダーのようだった。
学校が終わると、ヒルクライムを兼ねて、丘の上の文久大学や、さらにその先まで毎日走った。
いくら走っても走り足りなかった。
週末は、矢上さんや、坂本さん、時には、陽子さんまでいっしょに走ってくれた。
矢上さんは、段違いに早かった。
週末は、いつもの競技用のロードでなく、クラブモデルというロードレーサーに泥除けを付けて、サドルの後ろに、バッグつるした、スマートな自転車で来てくれた。
シックなウールのレーサージャージに、しゃれたベレー帽をかぶった矢上さんは、イギリスのフランクパターソンが描くサイクリングの絵画の中から抜け出してきたかのようだった。
しかも、その走りは、全然追いつけなかった。
矢上さんからは、スポーツ走行の基本を教えてもらった。
休憩の時は、自転車を止めて、海外のレースの話をしてくれた。
60回目のツールドフランスで、エディメルクスが走らなかったことを、矢上さんは心底残念がっていた。
矢上さんは、エンジニアとして、日本の自転車パーツを世界一にしたいと言っていた。
「俺は、日本製のパーツで、ツールドフランスを席巻するんだ」という夢を熱く語ってくれたことを今でも忘れない。
坂本さんは、コンロ一式もってきて、峠の上でコーヒーをごちそうしてくれた。
僕は、夕焼けを眺めながら、坂本さんから様々な旅の体験を聞かせてもらった。
「世界は広いぜ。まだまだこんなもんじゃない。卒業したらアメリカや、オーストラリア大陸を走ってやるんだ」
坂本さんの山の向こうは、既に海の向こうだった。
髭面にパイプを燻らせながら熱く語る坂本さんの横顔を、梅雨の中休みの夕日が染めていた。
大人になった今でも、来るべき夏が待ち遠しくて仕方のなかった、あの少年の日の夕暮の幸せな時間と、坂本さんの燻らすパイプタバコの甘い香りが重なって甦ってくる。
赤いミキストフレームのおしゃれな自転車で走る陽子さんは、まったくパリジェンヌのようだった。
時々、大学のそばの喫茶店でごちそうしてくれた。
「パリに行きたいの」
曇り空でも、そこだけ明るい日がさしているような陽子さんの横顔に、僕は、ばかみたいに見とれていただけかもしれない。
陽子さんと言えば、伸二が一緒に走るんだと、うるさかった。そのうち、クラスの男子を何人も引き連れて、走ることになってしまった。
陽子さんにとってはさぞや迷惑なことだったと思う。
こうして、ハヤブサが僕の手足のように馴染んだ頃、すごい雷とともに夕立が来て、とうとう梅雨が明けた。




