ズッパ
フェルメリアへ来てから、一週間ほどが過ぎていた。
朝起きて、働く。
片方がオステリア・ジーノへ行き、片方が空き家を直す。
次の日は逆。
そんな生活が、少しずつ形になり始めていた。
空き家の壁穴はかなり減った。
窓には布だけでなく板戸まで付き始めている。
竈も、もう普通に使えた。
まだ廃墟みたいな家だった。
でも、前よりずっと暖かかった。
◇
その日の夜。
オステリア・ジーノは、昼とは違う空気に包まれていた。
ランタンの灯り。
酒の匂い。
煮込みの湯気。
昼より客は少ないが、その分声は大きい。
仕事終わりらしい獣人たちが、酒杯を片手に笑っていた。
碧は厨房で皿を拭いている。
リゼは卓の間を動き回っていた。
「エール追加ー!」
「あぁ、いいよ」
ジーノが気の抜けた声で返す。
その時。
扉が開いた。
夜風と一緒に、干し草みたいな匂いが流れ込む。
「あー……疲れたぁ」
女の声だった。
碧が顔を上げる。
入ってきたのは、牝牛人の女だった。
茶色い髪を後ろで緩くまとめている。
頭には短い角。
耳が揺れ、長い尾がゆったり動いていた。
深緑のディアンドル。
編み上げの胸元は少し緩く、袖は肘までまくられている。
革エプロンには白い染みが付いていた。
「今日は遅かったな」
ジーノが言う。
女は椅子へどかっと腰を下ろした。
「今日ちょっと出すぎちゃってさぁ。固めるの時間かかった」
「あぁ、季節だしな」
ジーノは当然みたいに頷く。
碧だけ、会話についていけなかった。
「エール」
「はいよ」
ジョッキが置かれる。
女は半分ほど一気に飲み干し、大きく息を吐いた。
「んっ……生き返る」
かなり酒に慣れているらしい。
その時、女が碧を見る。
「あれ、新入り?」
「まぁな」
ジーノが適当に答える。
女は肘をつきながら、面白そうに碧を眺めた。
「へぇ、人間の男の子じゃん、こんなところで珍しいね」
「碧って言います」
「あたしセレナ」
そう言って笑う。
距離が近い。
でも嫌な感じではなかった。
セレナは足元の布袋をごそごそ漁る。
「そうだ、ジーノ。これ余ったから持ってきた」
取り出したのは、白い塊だった。
「チーズ?」
碧が思わず呟く。
「お、分かる?」
セレナが少し嬉しそうに笑う。
ジーノは受け取ったチーズを軽く押した。
「若いな」
「朝搾ったやつだからね」
碧の手が止まる。
「……搾った?」
「ん?」
セレナはきょとんとしてから、自分の胸元を軽く指した。
「ここから」
「……」
碧の思考が止まる。
いや、待て。
待て待て待て。
「え、いや……え?」
「ん、どした?」
セレナが不思議そうに首を傾げる。
「普通に搾るけど」
「いやそうじゃなくて……」
「あははっ」
セレナが吹き出した。
「分かりやすい顔するねぇ」
笑いながら酒杯を揺らす。
「もしかして、知らなかった?」
碧は完全に反応に困っていた。
視線の置き場が分からない。
しかも本人は全く気にしていない。
「うちの乳結構評判いいんだからね」
軽い調子で言う。
軽すぎて逆に困る。
リゼは卓を拭きながら、小さく首を傾げていた。
どうやら驚いているのは碧だけらしい。
ジーノも普通だった。
「あぁ、だから最近あんまり来てなかったのか」
「そそ。今もちょっと張っててさぁ」
セレナは笑いながら胸元を軽く叩く。
碧は思わず視線を逸らした。
「あはは、困ってる困ってる」
完全に面白がられていた。
「……文化が違う……」
碧がぼそっと呟く。
「ん?」
「いや、なんでもないです」
セレナはまた笑った。
「面白い子」
◇
翌日。
久しぶりに、碧とリゼの休みが重なった。
二人は朝から市場へ出ていた。
「今日は人多いですね」
「休みの日とかあるのかな」
「碧さんって、たまに変なところ抜けてますよね」
「否定できない」
リゼが少し笑った。
市場には相変わらず様々な露店が並んでいた。
干し肉。
黒パン。
香草。
そして野菜。
碧は山積みの玉ねぎを見つけ、足を止める。
「……これ安いな」
「端のやつだからじゃないですか?」
少し傷んだ玉ねぎだった。
だが、火を通すなら問題ない。
碧は玉ねぎを袋へ詰めてもらう。
「そんなに使うんですか?」
「今日はちょっと作りたいものある」
「作りたいもの?」
碧は少し笑った。
◇
空き家へ戻ると、碧はすぐ竈へ火を入れた。
鍋へ油を落とす。
刻んだ玉ねぎを入れる。
じゅわ、と音が鳴った。
甘い匂いが、少しずつ広がっていく。
「わ……」
リゼが目を丸くする。
「玉ねぎって、こんな匂いするんですね」
「炒めると甘くなるんだよ」
碧は木匙でゆっくり混ぜる。
焦がさないように。
じっくり火を入れる。
鍋の中で、玉ねぎは少しずつ色を変えていった。
その時。
碧の視線が、机の上の白いチーズへ向く。
柔らかい。
まだ少し温度が残っている気がした。
――朝搾ったやつだからね。
「……」
昨夜のセレナの声が頭をよぎる。
『ここから』
そう言って、自分の胸元を軽く指していた。
「……いや」
碧は思わず顔を覆った。
意味が分からない。
いや、意味は分かる。
分かるから困る。
これを今から食べるのか?
いや、昨日も食べた気がするけど。
でも改めて意識するとなんか違う。
「なに赤くなってんの」
「うわっ!?」
振り向く。
いつの間にいたのか、ルカが棚の上に座っていた。
「びっくりした……」
「変な顔してた」
「してない」
「してた」
ルカは即答した。
碧は誤魔化すように鍋を混ぜる。
「あ、やば」
「焦げるよ」
「分かってる」
ルカは少し笑った。
◇
しばらくして、ズッパは完成した。
炒めた玉ねぎのスープ。
浸した黒パン。
その上へ、セレナから貰った白いチーズを乗せる。
熱で少しずつ溶けていく。
「……すご」
リゼが呟いた。
碧は器を差し出す。
「熱いから気をつけろよ」
「はい」
リゼは両手で器を持ち、恐る恐る口をつける。
そして。
「……おいしい」
耳がぴん、と立った。
「玉ねぎ、甘いです……!」
かなり驚いていた。
碧は少し笑う。
「ちゃんと炒めるとこうなるんだよ」
「すごい……」
一方で、ルカは床へ座ったまま黙々と食べている。
「どう?」
「……まあ、それなり」
そう言いながら、食べる速度はかなり速かった。
碧は苦笑する。
リゼはもう一口食べてから、ふと顔を上げた。
「これ、お店で出せませんか?」
「え?」
「ジーノさん、きっと気に入ると思います」
碧は少し驚く。
リゼの方からそんなことを言うとは思わなかった。
「……売れるかな」
「絶対売れます」
かなり真剣だった。
……まあ、こういうの普通に人気あったしな。
ルカは器を抱えたまま呟く。
「これ食べられるなら毎日来る」
「お前もう毎日来てるだろ」
「じゃあ住む」
そんなやり取りをしながら、三人は湯気の立つズッパを囲んでいた。
外では、フェルメリアの夜風が静かに吹いている。
空き家だった場所には、もうちゃんと“食卓”ができ始めていた。




