かまど
フェルメリアへ来てから、数日が過ぎた。
碧とリゼは、一日ごとに交代でオステリア・ジーノへ働きに出ることにした。
片方が店へ行き、片方が空き家を直す。
次の日は逆。
ジーノはそれを聞いて、
「あぁ、いいよ」
とだけ言った。
それ以上、何も聞かなかった。
◇
その日は、碧が空き家に残る日だった。
朝、リゼは少し緊張した様子で布袋を肩に掛けていた。
「じゃあ、行ってきます」
「おう。気をつけて」
「碧さんも、屋根から落ちないでくださいね」
「落ちないって」
そう返した碧の頭上で、屋根の板がぎし、と鳴った。
リゼは無言で碧を見た。
「……はい、気をつけます」
「ふふっ」
リゼは小さく笑ってから、オステリア・ジーノの方へ歩いていった。
その背中が通りの向こうへ消える。
碧は空き家を見回した。
数日前まで廃墟だった場所は、少しずつ形を変えていた。
窓には布が掛かり、床の埃もかなり減った。
隣の家から外した板で、壁の穴も少し塞がっている。
でも、まだ家とは言い切れない。
「……よし」
碧は腕まくりをした。
今日の目標は決まっている。
竈を使えるようにすることだった。
◇
台所らしき場所には、古い竈が残っていた。
石を積んだだけの簡素なものだ。
所々崩れていて、煤もひどい。
そばには、第五話で見つけた煤だらけの鉄釜が置かれている。
深くて丸い。
何度見ても、飯を炊く釜にしか見えなかった。
「これ、絶対そうだよな……」
碧は釜の内側を覗き込む。
焦げ跡が残っていた。
煮込み鍋とは違う。
底の焦げ方が、妙に見覚えのある形をしている。
「でも、米がないんだよな」
そう呟いた時だった。
「なに一人でしゃべってんの」
背後から声がした。
「うわっ」
振り返ると、ルカが割れた窓枠の上に座っていた。
相変わらず、いつ来たのか分からない。
「お前、ほんと音しないな」
「碧が鈍いだけ」
ルカはそう言って、ひょいと床へ降りた。
手には短い縄と、小さな袋を持っている。
「それ何?」
「拾った。使う?」
「使う」
「じゃあパンちょーだい」
「取引早いな」
碧は苦笑しながら、昨日の残りの黒パンを少し渡した。
ルカはそれを受け取り、端を齧る。
「それ、直すの?」
「竈な。ここ使えれば、家で料理できるだろ」
「料理」
ルカは少し不思議そうに竈を見る。
「外で焼けばいいじゃん」
「雨の日困るだろ」
「雨の日は食べなきゃいい」
「いや食べろよ」
碧が思わず言うと、ルカは肩をすくめた。
「食べられるなら食べるけど」
その言い方が、妙に軽かった。
碧は少しだけ黙る。
ルカにとって食事は、楽しいものというより、あれば口に入れるものなのかもしれない。
「……まあ、今日はここを使えるようにする」
「ふぅん」
ルカは興味なさそうに返したが、その場から離れなかった。
◇
竈の修繕は、思ったより大変だった。
崩れた石を運び出す。
煤を掻き出す。
隙間へ粘土を詰める。
煙が逃げる穴を確認する。
碧は何度も咳き込みながら作業した。
「げほっ……煤やば」
「顔、真っ黒」
「笑うな」
「笑ってない」
ルカは笑っていた。
夕方になる頃には、竈はなんとか形を取り戻した。
碧は額の汗を拭う。
「……火、入れてみるか」
小枝を組み、ルカが拾ってきた縄の切れ端をほぐして火種にする。
火打石はルカのものを借りた。
ぱち。
火花が散る。
何度か失敗して、ようやく小さな火がついた。
煙が上がる。
碧とルカは揃って天井を見た。
煙は少し部屋へ戻ったが、ほとんどは竈の奥へ抜けていった。
「……いける」
「ちょっと煙いけどね」
「まあ、廃墟にしては上出来だろ」
「まだ廃墟って言うんだ」
「家って言うにはもう少し足りない」
碧はそう言って、釜を竈に乗せた。
ぴたりとはまる。
「……やっぱりこれ用じゃん」
思わず声が出た。
ルカは首を傾げる。
「それ、そんなに珍しい?」
「珍しいっていうか……俺の知ってる道具に似てる」
「どこの?」
碧は言葉に詰まった。
どこの、と聞かれても答えようがない。
日本。
現実。
電車で寝る前までいた場所。
それをどう説明すればいいのか分からなかった。
「……遠いところ」
「ふぅん」
ルカはそれ以上聞かなかった。
◇
夜、リゼが帰ってきた。
手には布包みを抱えている。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
碧が返すと、リゼは少しだけ目を丸くした。
それから、竈を見てさらに驚いた。
「……直したんですか?」
「たぶん使える」
「すごい……」
リゼは近づいて、竈の周りを覗き込む。
煤で黒くなった碧の顔を見て、少し笑った。
「顔、真っ黒です」
「さっきルカにも言われた」
「だって真っ黒だもんね」
いつの間にか、ルカは棚の上にいた。
リゼはもう驚かなくなっていた。
布包みを机へ置く。
「ジーノさんが、余りを持たせてくれました」
中には豆の煮込みと、野菜の切れ端、それに小さな肉片が入っていた。
「いいおやじさんだよな」
「はい」
リゼは素直に頷いた。
碧は竈を見る。
火はまだ小さく残っている。
「……じゃあ、今日はここで温め直すか」
その言葉に、リゼの耳がぴくりと動いた。
「ここで?」
「せっかく直したし」
碧は鍋を乗せた。
火が鍋底を舐める。
煮込みが温まり、少しずつ湯気が立ってくる。
空き家の中に、食べ物の匂いが広がった。
今までの埃っぽい匂いとは違う。
温かい、暮らしの匂いだった。
「……なんか」
リゼが小さく呟く。
「本当に、家みたいですね」
碧は鍋を混ぜながら笑った。
「だから言っただろ。そのうちよくなるって」
ルカは棚の上から、じっと鍋を見ている。
「ルカも食う?」
「……食べる」
いつもの返事だった。
◇
三人は、直したばかりの竈のそばで夕食を食べた。
黒パンは相変わらず硬い。
煮込みも、店の味そのままだ。
でも、温め直しただけで、昼よりずっと美味く感じた。
リゼは両手で器を持ち、湯気に目を細めている。
ルカは床に座り、黙々と食べている。
碧は釜を横目で見た。
いつか、あれで米を炊ける日が来るのだろうか。
そもそも、この世界に米はあるのだろうか。
分からない。
けれど、今は火がある。
鍋がある。
食べる相手がいる。
それだけで、昨日より少し進んだ気がした。
窓の外では、フェルメリアの夜が静かに降り始めていた。
空き家の中では、竈の火が小さく揺れている。
その火の明かりが、三人の影を壁へ映していた。




