帰る場所
朝。
碧は、顔に落ちてきた冷たい風で目を覚ました。
「……さむ」
ぼんやりしたまま身体を起こす。
屋根の隙間から、細い朝日が差し込んでいた。
昨夜、布を掛けた窓が風で少し揺れている。
空き家特有の、乾いた木の匂い。
床へ敷いた枯れ草は思ったよりも暖かかった。
隣では、リゼが小さく身体を丸めて眠っている。
長い耳が、寝息に合わせて微かに揺れていた。
「……ほんとに住んでるな」
小さく呟く。
昨日まで、寝る場所すら決まっていなかったのに。
その時。
ぐぅ。
腹が鳴った。
「……朝から元気だなぁ」
碧は顔を覆った。
◇
少しして、リゼも目を覚ました。
「おはようございます……」
「おはよー」
リゼはまだ少し眠そうだった。
耳も垂れている。
碧は昨日買った袋を確認する。
黒パンが少し。
干し肉が少し。
それだけだった。
リゼも同じことを考えていたらしい。
「……あと二日くらいですね」
「うわ、現実的だねぇ」
「現実です」
リゼは真顔だった。
碧は苦笑する。
そして、大きく伸びをした。
「じゃ、働くか」
リゼが瞬きをする。
「え?」
「金ないし」
本当に、それだけだった。
リゼは少し迷うような顔をしたあと、小さく口を開く。
「……働ける場所、ありますかね」
「あるだろ、多分」
「多分……」
かなり不安そうだった。
だが碧には、一軒だけ心当たりがあった。
◇
朝のフェルメリアは忙しい。
市場へ向かう人。
荷物を運ぶ獣人。
朝食を買う商人。
石畳の上を、けん車が何台も通っていく。
二人は市場の方へ向かう通りを歩いていた。
やがて、見覚えのある木看板が見えてくる。
『Osteria Gino』
「ここ?」
リゼが少し驚いたように言う。
「うん」
「昨日のお店ですよね」
「一応、知ってる店ここくらいだし」
碧はそう言って扉を開けた。
◇
店の中には、朝の湯気が立ち込めていた。
鍋の匂い。
焼いたパンの匂い。
皿のぶつかる音。
昨日より忙しそうだった。
厨房の奥では、おととい会った店主が鍋を混ぜている。
エプロン姿のまま、面倒そうにこちらを見る。
「……あぁ?」
低い声だった。
碧を見る。
それからリゼを見る。
「あぁ、おとといの」
覚えていたらしい。
「今日も別じゃないんだな」
「別じゃないですよ」
碧が言う。
店主の男――ジーノは、「ふぅん」とだけ返した。
あまり興味なさそうだった。
碧は少しだけ息を吸う。
「ここで働かせてもらえませんか」
ジーノの手が止まる。
「なんでうち」
「まだフェルメリアに来たばっかりで、知ってる店ここくらいなんですよ」
「適当だなぁ」
ジーノは呆れたみたいに笑った。
だが、追い返しはしない。
鍋を混ぜながら聞く。
「なんかできんのか」
「飲食店で働いてました」
「へぇ」
ジーノは碧をじっと見る。
それから、店内を見回した。
ちょうど忙しい時間だった。
皿が積まれている。
水桶も減っている。
店員はおらず、いるのはジーノだけ。
「……まあ、人足りねぇしな」
そう言って、顎で厨房裏を指した。
「皿洗いくらいならいいよ」
「ほんとですか」
「あぁ、いいよ」
軽かった。
まるで、今日の天気を決めるみたいに。
リゼが少し驚いた顔をする。
その視線に気づいたのか、ジーノはリゼを見る。
「うさぎも働く?」
「え」
リゼの耳がぴくっと動く。
「わ、私もですか?」
「嫌なら別にいいけど」
ジーノは興味なさそうに鍋を混ぜる。
「一緒なんだろ?」
リゼは少し迷ったあと、小さく頭を下げた。
「……お願いします」
「じゃあ決まり」
本当にそれだけだった。
◇
仕事は、想像以上に忙しかった。
「皿こっち」
「水なくなってるぞー」
「パン持ってきて」
店の中をジーノの声が飛び交う。
碧は水桶を運びながら厨房を駆け回っていた。
熱い。
重い。
忙しい。
でも、不思議と身体は動いた。
皿を下げる。
洗う。
戻す。
次を見る。
気づけば自然に身体が動いていた。
「……お前、意外と動けるんだな」
ジーノがぼそっと言う。
「前に似たようなことしてたんで」
「ふぅん」
興味あるのか無いのか分からない返事だった。
一方で、リゼもかなり手際が良かった。
卓を拭く。
皿を運ぶ。
注文を伝える。
最初こそ緊張していたが、仕事自体は丁寧だった。
客の邪魔にならない動き方を、ちゃんと分かっている。
ただ、人間の客へ近づく時だけ、少し耳が伏せる。
碧はそれに気づいたが、何も言わなかった。
◇
昼を過ぎた頃。
ようやく店が落ち着き始める。
ジーノは鍋の蓋を開けると、余った煮込みを適当に皿へ盛った。
「ほら、まかない」
どん、と卓へ置く。
黒パン。
豆を煮込んだスープ。
少しだけ肉。
昨日と大きく変わらない。
でも。
「……うま」
碧は思わず呟いた。
温かかった。
リゼも少し驚いた顔でスープを見る。
「まかないって、食べていいんですね……」
「働いたからな」
ジーノは当然みたいに言った。
「食わねぇと動けねぇだろ」
碧はスープを飲みながら、ぼんやり鍋を見る。
香草。
塩。
火加減。
少しだけ、惜しい。
(これ、もうちょっとおいしくできそうだな)
そんなことを考えていると。
「なんかあったか?」
ジーノが言った。
「え?」
「ずっと鍋見てどうしたんだ」
碧は少し迷ってから口を開く。
「……これ、この香草、最後に入れた方がいいんじゃないかと思って」
リゼが固まる。
普通なら、新人が言うことじゃない。
だがジーノは。
「ほう」
一度鍋を見る。
それから肩をすくめた。
「なるほどな、次からそうしてみるよ」
「いいんですか」
「うまくなるならな」
本当に、それだけだった。
◇
仕事を終えて空き家へ戻る頃には、空はもう赤くなっていた。
碧は扉を開ける。
そして少し目を丸くした。
「……おぉ」
窓の隙間が、かなり塞がっていた。
床も昨日より綺麗だ。
棚まで立っている。
リゼが少し照れたように耳を揺らす。
「休憩の間に少しだけ戻ってきてたので」
「すげぇな」
その時。
「帰ってきたんだね」
声がした。
振り向く。
いつの間にいたのか、ルカが棚の上へ座っていた。
「うおっ」
「なに」
ルカは平然としている。
碧は苦笑した。
「お前ほんと急に出るな」
「碧が気づかないだけ」
ルカはそう言いながら、碧の持っていた袋を見る。
「……それなに」
「まかない」
「ふぅん」
興味なさそうに言いながらも、尾が揺れていた。
碧は笑う。
「食べる?」
ルカは少し黙ったあと、
「……食べる」
と、小さく言った。
空き家の中へ、少しずつ生活の匂いが増えていく。
まだ廃墟みたいな場所だった。
でも。
碧はまだ温かいスープを机へ置きながら、なんとなく思う。
帰る場所みたいだな、と。




