雨のあと
夜のうちに、雨が降った。
最初は、屋根を叩く細い音だった。
ぽつ。
ぽつ。
それが少しずつ増えて、やがて空き家の屋根全体を濡らす音になった。
碧は、夜中に一度目を覚ました。
屋根の隙間から落ちる水音。
竈の灰が冷えていく匂い。
リゼの寝息。
遠くで軋む、仮倉庫一号の木戸。
そして、ふと頭に浮かんだのは、低地だった。
あの四つの区画。
杭。
紐。
川に近い柔らかい土。
クラウスの言葉。
――低地は冬の雨で様子が変わります。
碧は布の中で目を開けたまま、しばらく雨音を聞いていた。
水の畑。
まだ、畑にもなっていない場所。
けれど雨が降れば、きっと何かが変わっている。
そう思うと、眠気は少し遠くなった。
◇
朝になっても、空は薄く曇っていた。
雨はもう止んでいる。
けれど、石畳は黒く濡れ、空き家群の土道には小さな水たまりがいくつもできていた。
リゼは戸口から外を見て、耳を少し動かした。
「降りましたね」
「うん」
碧は上着を羽織りながら頷いた。
「低地、どうなってるかな」
「見に行きますか?」
「行きたい」
即答だった。
リゼは少しだけ笑った。
「では、木板を持っていきます。紙は濡れると困りますから」
「頼む」
碧が小鎌に手を伸ばしかけた時、リゼがすぐに言った。
「今日は刈りませんよ」
「あ」
「観察です。杭や紐を直すのも、必要なら次の作業日にしましょう」
「……ちゃんとしてるな」
「昨日、役場で言われましたから」
リゼは真面目に答えた。
碧は少し苦笑した。
見に行く。
ただそれだけのことなのに、もう勝手には動けない。
でも、それが悪いとは思わなかった。
安心して作業をするために、昨日、紙に名前を残したのだから。
◇
オステリア・ジーノへ寄ると、ジーノは竈の前で鍋に火を入れていた。
湿った朝の空気の中に、玉ねぎを炒める甘い匂いが広がっている。
「雨、止みましたね」
碧が言うと、ジーノは鍋を混ぜながら答えた。
「見に行くんだろ」
「分かるんですか」
「お前の顔が低地だ」
「また変な顔してます?」
「飯屋の顔じゃねぇ」
「最近そればっかりですね」
「事実だからな」
ジーノは短く言って、棚から昨日の控えの紙片を取り出した。
「持ってけ」
「いいんですか?」
「聞かれたら見せろ。今日は見るだけだろ」
「はい」
「見るだけなら見るだけで済ませろ。濡れてる土をいじると、余計に崩すこともある」
碧は少し意外に思った。
「ジーノさん、土のことも分かるんですか?」
「分からん」
「え」
「だが、濡れたものをいじると面倒になるのは、厨房も土地も同じだ」
「なるほど……?」
「あと、昼頃には戻れ。雨上がりの日は、温かいものがよく出る」
「はい」
リゼは木板に、今日の目的を書いた。
雨後の確認。
作業なし。
土を動かさない。
川を変えない。
採取なし。
子供同行なし。
碧はそれを横から見て、少しだけ背筋を伸ばした。
ただ見に行く。
でも、それはもう、ただの散歩ではなかった。
◇
フェルメリアの城門を出ると、街道は雨を吸って黒くなっていた。
けん車の車輪跡には水が溜まっている。
ところどころ、泥が跳ねた跡もあった。
遠くへ続く道の端では、草が濡れて重たそうに垂れている。
碧とリゼは、東側の低地へ向かった。
歩くたびに、靴の底に湿った土がくっつく。
「昨日までと全然違うな」
碧が呟いた。
「はい」
リゼは木板を抱え直す。
「雨が降った後を見るのは、初めてですね」
「今まで晴れてる時ばっかりだったもんな」
「だから、今日の記録は大事だと思います」
その言葉に、碧は頷いた。
大事。
そう言われると、ただのぬかるみまで意味を持つ気がした。
◇
低地に着くと、碧は思わず足を止めた。
「……うわ」
昨日までとは、まるで違っていた。
四つの区画を囲った紐は残っている。
杭も、ほとんどは立っている。
だが、低地全体が濡れて光っていた。
川に近い方には、細い水の筋ができている。
街道側から流れ込んだらしい泥水の跡もあった。
水たまり。
ぬかるみ。
倒れた草。
濡れた稲穂。
鳥の足跡。
昨日までの低地が、一晩で別の顔になっていた。
「……クラウスさんの言った通りだ」
碧は小さく言った。
「冬の雨で様子が変わる」
リゼはすぐに木板へ書き始めた。
雨後。
低地全体に水。
川側、水の筋あり。
街道側、泥水流入あり。
碧は第一の区画へ近づいた。
足元が沈む。
「ここ、かなり柔らかい」
「第一の区画ですね」
「苗を育ててから植える予定の方」
「はい」
リゼは区画の外から見て、印をつけた。
碧は一歩下がる。
それだけで、足跡に水がじわりと滲んだ。
「見るだけでも難しいな」
「はい」
リゼは木板に書き足す。
第一、足で沈む。
外から確認。
◇
第二の区画は、思ったより乾いていた。
周囲は濡れているのに、区画の中央は水があまり残っていない。
草の根元も、第一より少し軽そうに見える。
「こっちは水が抜けてるな」
碧が言うと、リゼは首を傾げた。
「水が少ない方がいいのでしょうか」
「分からない」
「また、分からないですね」
「うん。でも、今日はそれでいいと思う」
碧は第二の区画を見た。
「水が残らない場所。乾きやすい場所。そういう記録だな」
「はい」
リゼは頷いて書く。
第二、水少ない。
中央乾き気味。
周囲に湿り。
碧はその文字を見て、少しだけ感心した。
昨日までなら、ただ「水が少ない」で終わっていた。
でも今は違う。
どこに。
どれくらい。
どう残っているか。
それを書かなければ、次に比べられない。
◇
第三の区画には、鳥の足跡が増えていた。
雨で柔らかくなった土の上に、細い三本指の跡がいくつも残っている。
碧はそれを見て眉を寄せた。
「多いな」
「はい。前よりはっきり残っています」
リゼがしゃがみ込んで木板に印をつける。
「雨の後だと、足跡が見えやすいんですね」
「いいことなのか、嫌なことなのか分からないな」
「両方かもしれません」
リゼは真面目に答えた。
その時だった。
「鳥、来てる」
低い声がした。
碧は振り向いた。
低地の少し上、濡れた草の陰に、ルカが立っていた。
いつからいたのか分からない。
尾は汚れないように、少し高く上がっていた。
「ルカ」
碧が声をかける。
リゼも顔を上げた。
「あ、ルカさん。来ていたんですね」
「見に来ただけ」
ルカはそう言って、第三の区画を指した。
「ここ、種まいたら食べられる」
「鳥に?」
「うん」
「やっぱりか」
「たぶん、いっぱい来る」
ルカは足跡を見て言った。
「雨の後、柔らかい。歩きやすい。粒あったら食べる」
碧は黙って区画を見た。
まだ何もまいていない。
それなのに、もう食べられる未来が見えている。
「鳥よけ、考えないとだめだな」
「鳥よけ」
リゼが木板に書き足す。
第三、鳥足跡多い。
種を直接まく場合、鳥対策必要。
ルカはそれを見て、少しだけ頷いた。
「混ぜたらだめ」
「何を?」
「鳥が食べる分と、人が食べる分」
「それは……確かに」
碧は少し笑いそうになったが、笑わなかった。
ルカは真面目だった。
食べるために、食べられないようにする。
それは、かなり大事な話だった。
◇
第四の区画は、街道側に近い。
雨水が街道から流れてきたのか、紐の一部に泥が付いていた。
杭も一本、少し傾いている。
「これ、ずれてないか?」
碧が言うと、リゼは前の木板と見比べた。
「少しだけ、内側に倒れています」
「直した方がいいかな」
碧が手を伸ばしかける。
リゼがすぐに言った。
「今日は直さない方がいいです」
「あ、そうだった」
「補修は作業になります。次に届けてからにしましょう」
「確かに、今度来た時にしようか」
碧は手を引っ込めた。
ルカが横から言う。
「倒れたら?」
「倒れたら困る」
「じゃあ、見る」
「見るだけな」
「うん」
ルカは紐の近くまで行ったが、触れなかった。
しゃがみ込み、じっと泥の跡を見る。
「こっちから来てる」
指差した先には、街道側から低地へ流れ込む細い泥の筋があった。
リゼが目を細める。
「街道側から、水が入ったんですね」
「たぶん」
碧は街道を見る。
けん車の車輪跡。
水たまり。
そこから低地へ向かう泥の線。
「街道の水も関係あるのか」
「はい」
リゼは木板に書いた。
第四、街道側から泥水。
杭一本傾き。
補修は次回。
街道水の流入確認。
「田んぼって、川だけ見ればいいわけじゃないんだな」
碧が言うと、リゼが頷いた。
「水がどこから来るか、全部見ないといけないのかもしれません」
「全部か……」
碧は低地を見渡した。
川。
街道。
水たまり。
草の根元。
足跡。
泥の筋。
全部が、水とつながっていた。
◇
三人はしばらく、低地の周りを歩いた。
中へは入らない。
土を動かさない。
杭も動かさない。
ただ見る。
ただ書く。
それだけなのに、思ったより時間がかかった。
リゼは木板いっぱいに印をつけていた。
ルカは時々、匂いを嗅ぐようにしゃがみ込む。
「ここ、冷たい」
「水が残ってる?」
「うん。下にある」
碧が見ても、表面には水がない。
でも、ルカが踏むと土が少し沈んだ。
リゼはそれも書いた。
表面乾き。
下に水。
「リゼ、木板足りる?」
「ぎりぎりです」
「紙に写すの大変そうだな」
「大変です。でも、書かないと忘れます」
その声に迷いはなかった。
碧は少しだけ嬉しくなった。
分からないことを、分からないまま残す。
最初に低地へ来た時、そう決めた。
今、その分からないことが、木板の上にどんどん増えている。
増えているのに、不思議と怖くはなかった。
◇
帰る前、碧は四つの区画をもう一度見た。
第一。
水が多く、足が沈む。
第二。
水が抜けやすい。
第三。
鳥の足跡が多い。
第四。
街道側から泥水が入る。
同じ低地。
同じ百平方メートル。
でも、雨の後には、全部違っていた。
「……一晩でこんなに変わるんだな」
碧が言うと、リゼは木板を抱えたまま頷いた。
「はい」
「昨日までの記録だけじゃ、全然足りなかった」
「でも、今日見ました」
「うん」
「次に雨が降った時も見れば、比べられます」
「比べるための記録か」
「はい」
リゼは少しだけ笑った。
「記録は、あとで見るためのものですから」
ルカは濡れた稲穂を一本、指で弾いた。
「今日、食べるのない」
「今日は採らないよ」
「わかってる」
「じゃあ、なんで言った」
「言っただけ」
ルカはそっぽを向いた。
碧は少し笑った。
「そろそろ帰ろう。ジーノさんに怒られる」
「忙しくなりそうだって言ってましたね」
リゼが言う。
「雨上がりは、みんな腹減るんだろうな」
「碧はいつも」
ルカが言った。
「それは否定できない」
◇
オステリアへ戻る頃には、昼前になっていた。
ジーノは忙しそうに鍋を動かしている。
店内には、雨上がりの冷えた身体を温めに来た客が何人か座っていた。
「戻ったか」
「はい」
「濡れたな」
「少し」
「何か分かったか」
碧は答えようとして、少し迷った。
何か。
たくさん分かった。
でも、ひとことで言えるほど単純ではない。
リゼが木板を差し出した。
「区画ごとに違いました。第一は水が多く、第二は水が抜けやすいです。第三は鳥の足跡が多く、第四は街道側から泥水が入っています。杭の補修が必要な場所もあります」
ジーノは木板をちらりと見る。
「なるほどな」
「分かるんですか?」
碧が聞くと、ジーノは鍋を混ぜながら言った。
「分からん」
「え」
「だが、分からないことが増えたのは分かる」
「ああ……」
「見に行った意味はあったんだろ」
ジーノはそれだけ言って、皿にスープをよそった。
「ほら、食え。冷えただろ」
碧は器を受け取る。
温かい湯気が顔に当たった。
玉ねぎと豆の匂い。
雨の匂いとは違う、店の匂い。
「ありがとうございます」
「食ったら紙に写せ。木板は濡れると消える」
「はい」
リゼはすぐに頷いた。
◇
その夜。
空き家群では、リゼが木板の記録を紙へ写していた。
碧は横で、低地の簡単な図を描いている。
ルカは棚の上で丸くなっていたが、時々片目だけ開けて紙を見ていた。
「第三、鳥」
ルカがぼそっと言う。
「書いてる」
碧が返す。
「いっぱい」
「いっぱいって書くか」
「うん」
リゼは少し笑いながら、紙に書き足した。
第三、鳥足跡多い。
非常に多い。
「非常に」
ルカが少し満足そうに目を閉じた。
碧は笑ってしまった。
紙には、今日見た低地の姿が少しずつ移っていく。
雨後の水。
泥の筋。
足跡。
沈む土。
乾いた中央。
傾いた杭。
何も作っていない。
何も植えていない。
それでも、紙の上には確かに、水の動きが残り始めていた。
◇
書き終えた頃には、外はすっかり静まり返っていた。
雨雲は切れ、月が少しだけ顔を出している。
仮倉庫一号の方から、かすかに稲穂の鳴る音がした。
かさり。
碧は顔を上げた。
ルカも少しだけ耳を動かしたが、何も言わなかった。
リゼは紙を乾いた布で押さえながら、静かに言った。
「今日は、作業していないのに疲れました」
「俺も」
「でも、作業したみたいです」
「見ただけなのにな」
「見るのも、仕事なんですね」
その言葉に、碧はゆっくり頷いた。
水の畑は、まだない。
種もまだ土には戻せない。
だから今は、土ではなく水を読む。
雨のあと、低地は昨日とは違う顔をしていた。
そして碧たちは、その顔を初めて、仕事として見ていた。




