表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ごはん革命  作者: Sen
35/36

雨のあと

 夜のうちに、雨が降った。


 最初は、屋根を叩く細い音だった。


 ぽつ。


 ぽつ。


 それが少しずつ増えて、やがて空き家の屋根全体を濡らす音になった。


 碧は、夜中に一度目を覚ました。


 屋根の隙間から落ちる水音。


 竈の灰が冷えていく匂い。


 リゼの寝息。


 遠くで軋む、仮倉庫一号の木戸。


 そして、ふと頭に浮かんだのは、低地だった。


 あの四つの区画。


 杭。


 紐。


 川に近い柔らかい土。


 クラウスの言葉。


 ――低地は冬の雨で様子が変わります。


 碧は布の中で目を開けたまま、しばらく雨音を聞いていた。


 水の畑。


 まだ、畑にもなっていない場所。


 けれど雨が降れば、きっと何かが変わっている。


 そう思うと、眠気は少し遠くなった。


     ◇


 朝になっても、空は薄く曇っていた。


 雨はもう止んでいる。


 けれど、石畳は黒く濡れ、空き家群の土道には小さな水たまりがいくつもできていた。


 リゼは戸口から外を見て、耳を少し動かした。


「降りましたね」


「うん」


 碧は上着を羽織りながら頷いた。


「低地、どうなってるかな」


「見に行きますか?」


「行きたい」


 即答だった。


 リゼは少しだけ笑った。


「では、木板を持っていきます。紙は濡れると困りますから」


「頼む」


 碧が小鎌に手を伸ばしかけた時、リゼがすぐに言った。


「今日は刈りませんよ」


「あ」


「観察です。杭や紐を直すのも、必要なら次の作業日にしましょう」


「……ちゃんとしてるな」


「昨日、役場で言われましたから」


 リゼは真面目に答えた。


 碧は少し苦笑した。


 見に行く。


 ただそれだけのことなのに、もう勝手には動けない。


 でも、それが悪いとは思わなかった。


 安心して作業をするために、昨日、紙に名前を残したのだから。


     ◇


 オステリア・ジーノへ寄ると、ジーノは竈の前で鍋に火を入れていた。


 湿った朝の空気の中に、玉ねぎを炒める甘い匂いが広がっている。


「雨、止みましたね」


 碧が言うと、ジーノは鍋を混ぜながら答えた。


「見に行くんだろ」


「分かるんですか」


「お前の顔が低地だ」


「また変な顔してます?」


「飯屋の顔じゃねぇ」


「最近そればっかりですね」


「事実だからな」


 ジーノは短く言って、棚から昨日の控えの紙片を取り出した。


「持ってけ」


「いいんですか?」


「聞かれたら見せろ。今日は見るだけだろ」


「はい」


「見るだけなら見るだけで済ませろ。濡れてる土をいじると、余計に崩すこともある」


 碧は少し意外に思った。


「ジーノさん、土のことも分かるんですか?」


「分からん」


「え」


「だが、濡れたものをいじると面倒になるのは、厨房も土地も同じだ」


「なるほど……?」


「あと、昼頃には戻れ。雨上がりの日は、温かいものがよく出る」


「はい」


 リゼは木板に、今日の目的を書いた。


 雨後の確認。


 作業なし。


 土を動かさない。


 川を変えない。


 採取なし。


 子供同行なし。


 碧はそれを横から見て、少しだけ背筋を伸ばした。


 ただ見に行く。


 でも、それはもう、ただの散歩ではなかった。


     ◇


 フェルメリアの城門を出ると、街道は雨を吸って黒くなっていた。


 けん車の車輪跡には水が溜まっている。


 ところどころ、泥が跳ねた跡もあった。


 遠くへ続く道の端では、草が濡れて重たそうに垂れている。


 碧とリゼは、東側の低地へ向かった。


 歩くたびに、靴の底に湿った土がくっつく。


「昨日までと全然違うな」


 碧が呟いた。


「はい」


 リゼは木板を抱え直す。


「雨が降った後を見るのは、初めてですね」


「今まで晴れてる時ばっかりだったもんな」


「だから、今日の記録は大事だと思います」


 その言葉に、碧は頷いた。


 大事。


 そう言われると、ただのぬかるみまで意味を持つ気がした。


     ◇


 低地に着くと、碧は思わず足を止めた。


「……うわ」


 昨日までとは、まるで違っていた。


 四つの区画を囲った紐は残っている。


 杭も、ほとんどは立っている。


 だが、低地全体が濡れて光っていた。


 川に近い方には、細い水の筋ができている。


 街道側から流れ込んだらしい泥水の跡もあった。


 水たまり。


 ぬかるみ。


 倒れた草。


 濡れた稲穂。


 鳥の足跡。


 昨日までの低地が、一晩で別の顔になっていた。


「……クラウスさんの言った通りだ」


 碧は小さく言った。


「冬の雨で様子が変わる」


 リゼはすぐに木板へ書き始めた。


 雨後。


 低地全体に水。


 川側、水の筋あり。


 街道側、泥水流入あり。


 碧は第一の区画へ近づいた。


 足元が沈む。


「ここ、かなり柔らかい」


「第一の区画ですね」


「苗を育ててから植える予定の方」


「はい」


 リゼは区画の外から見て、印をつけた。


 碧は一歩下がる。


 それだけで、足跡に水がじわりと滲んだ。


「見るだけでも難しいな」


「はい」


 リゼは木板に書き足す。


 第一、足で沈む。


 外から確認。


     ◇


 第二の区画は、思ったより乾いていた。


 周囲は濡れているのに、区画の中央は水があまり残っていない。


 草の根元も、第一より少し軽そうに見える。


「こっちは水が抜けてるな」


 碧が言うと、リゼは首を傾げた。


「水が少ない方がいいのでしょうか」


「分からない」


「また、分からないですね」


「うん。でも、今日はそれでいいと思う」


 碧は第二の区画を見た。


「水が残らない場所。乾きやすい場所。そういう記録だな」


「はい」


 リゼは頷いて書く。


 第二、水少ない。


 中央乾き気味。


 周囲に湿り。


 碧はその文字を見て、少しだけ感心した。


 昨日までなら、ただ「水が少ない」で終わっていた。


 でも今は違う。


 どこに。


 どれくらい。


 どう残っているか。


 それを書かなければ、次に比べられない。


     ◇


 第三の区画には、鳥の足跡が増えていた。


 雨で柔らかくなった土の上に、細い三本指の跡がいくつも残っている。


 碧はそれを見て眉を寄せた。


「多いな」


「はい。前よりはっきり残っています」


 リゼがしゃがみ込んで木板に印をつける。


「雨の後だと、足跡が見えやすいんですね」


「いいことなのか、嫌なことなのか分からないな」


「両方かもしれません」


 リゼは真面目に答えた。


 その時だった。


「鳥、来てる」


 低い声がした。


 碧は振り向いた。


 低地の少し上、濡れた草の陰に、ルカが立っていた。


 いつからいたのか分からない。


 尾は汚れないように、少し高く上がっていた。


「ルカ」


 碧が声をかける。


 リゼも顔を上げた。


「あ、ルカさん。来ていたんですね」


「見に来ただけ」


 ルカはそう言って、第三の区画を指した。


「ここ、種まいたら食べられる」


「鳥に?」


「うん」


「やっぱりか」


「たぶん、いっぱい来る」


 ルカは足跡を見て言った。


「雨の後、柔らかい。歩きやすい。粒あったら食べる」


 碧は黙って区画を見た。


 まだ何もまいていない。


 それなのに、もう食べられる未来が見えている。


「鳥よけ、考えないとだめだな」


「鳥よけ」


 リゼが木板に書き足す。


 第三、鳥足跡多い。


 種を直接まく場合、鳥対策必要。


 ルカはそれを見て、少しだけ頷いた。


「混ぜたらだめ」


「何を?」


「鳥が食べる分と、人が食べる分」


「それは……確かに」


 碧は少し笑いそうになったが、笑わなかった。


 ルカは真面目だった。


 食べるために、食べられないようにする。


 それは、かなり大事な話だった。


     ◇


 第四の区画は、街道側に近い。


 雨水が街道から流れてきたのか、紐の一部に泥が付いていた。


 杭も一本、少し傾いている。


「これ、ずれてないか?」


 碧が言うと、リゼは前の木板と見比べた。


「少しだけ、内側に倒れています」


「直した方がいいかな」


 碧が手を伸ばしかける。


 リゼがすぐに言った。


「今日は直さない方がいいです」


「あ、そうだった」


「補修は作業になります。次に届けてからにしましょう」


「確かに、今度来た時にしようか」


 碧は手を引っ込めた。


 ルカが横から言う。


「倒れたら?」


「倒れたら困る」


「じゃあ、見る」


「見るだけな」


「うん」


 ルカは紐の近くまで行ったが、触れなかった。


 しゃがみ込み、じっと泥の跡を見る。


「こっちから来てる」


 指差した先には、街道側から低地へ流れ込む細い泥の筋があった。


 リゼが目を細める。


「街道側から、水が入ったんですね」


「たぶん」


 碧は街道を見る。


 けん車の車輪跡。


 水たまり。


 そこから低地へ向かう泥の線。


「街道の水も関係あるのか」


「はい」


 リゼは木板に書いた。


 第四、街道側から泥水。


 杭一本傾き。


 補修は次回。


 街道水の流入確認。


「田んぼって、川だけ見ればいいわけじゃないんだな」


 碧が言うと、リゼが頷いた。


「水がどこから来るか、全部見ないといけないのかもしれません」


「全部か……」


 碧は低地を見渡した。


 川。


 街道。


 水たまり。


 草の根元。


 足跡。


 泥の筋。


 全部が、水とつながっていた。


     ◇


 三人はしばらく、低地の周りを歩いた。


 中へは入らない。


 土を動かさない。


 杭も動かさない。


 ただ見る。


 ただ書く。


 それだけなのに、思ったより時間がかかった。


 リゼは木板いっぱいに印をつけていた。


 ルカは時々、匂いを嗅ぐようにしゃがみ込む。


「ここ、冷たい」


「水が残ってる?」


「うん。下にある」


 碧が見ても、表面には水がない。


 でも、ルカが踏むと土が少し沈んだ。


 リゼはそれも書いた。


 表面乾き。


 下に水。


「リゼ、木板足りる?」


「ぎりぎりです」


「紙に写すの大変そうだな」


「大変です。でも、書かないと忘れます」


 その声に迷いはなかった。


 碧は少しだけ嬉しくなった。


 分からないことを、分からないまま残す。


 最初に低地へ来た時、そう決めた。


 今、その分からないことが、木板の上にどんどん増えている。


 増えているのに、不思議と怖くはなかった。


     ◇


 帰る前、碧は四つの区画をもう一度見た。


 第一。


 水が多く、足が沈む。


 第二。


 水が抜けやすい。


 第三。


 鳥の足跡が多い。


 第四。


 街道側から泥水が入る。


 同じ低地。


 同じ百平方メートル。


 でも、雨の後には、全部違っていた。


「……一晩でこんなに変わるんだな」


 碧が言うと、リゼは木板を抱えたまま頷いた。


「はい」


「昨日までの記録だけじゃ、全然足りなかった」


「でも、今日見ました」


「うん」


「次に雨が降った時も見れば、比べられます」


「比べるための記録か」


「はい」


 リゼは少しだけ笑った。


「記録は、あとで見るためのものですから」


 ルカは濡れた稲穂を一本、指で弾いた。


「今日、食べるのない」


「今日は採らないよ」


「わかってる」


「じゃあ、なんで言った」


「言っただけ」


 ルカはそっぽを向いた。


 碧は少し笑った。


「そろそろ帰ろう。ジーノさんに怒られる」


「忙しくなりそうだって言ってましたね」


 リゼが言う。


「雨上がりは、みんな腹減るんだろうな」


「碧はいつも」


 ルカが言った。


「それは否定できない」


     ◇


 オステリアへ戻る頃には、昼前になっていた。


 ジーノは忙しそうに鍋を動かしている。


 店内には、雨上がりの冷えた身体を温めに来た客が何人か座っていた。


「戻ったか」


「はい」


「濡れたな」


「少し」


「何か分かったか」


 碧は答えようとして、少し迷った。


 何か。


 たくさん分かった。


 でも、ひとことで言えるほど単純ではない。


 リゼが木板を差し出した。


「区画ごとに違いました。第一は水が多く、第二は水が抜けやすいです。第三は鳥の足跡が多く、第四は街道側から泥水が入っています。杭の補修が必要な場所もあります」


 ジーノは木板をちらりと見る。


「なるほどな」


「分かるんですか?」


 碧が聞くと、ジーノは鍋を混ぜながら言った。


「分からん」


「え」


「だが、分からないことが増えたのは分かる」


「ああ……」


「見に行った意味はあったんだろ」


 ジーノはそれだけ言って、皿にスープをよそった。


「ほら、食え。冷えただろ」


 碧は器を受け取る。


 温かい湯気が顔に当たった。


 玉ねぎと豆の匂い。


 雨の匂いとは違う、店の匂い。


「ありがとうございます」


「食ったら紙に写せ。木板は濡れると消える」


「はい」


 リゼはすぐに頷いた。


     ◇


 その夜。


 空き家群では、リゼが木板の記録を紙へ写していた。


 碧は横で、低地の簡単な図を描いている。


 ルカは棚の上で丸くなっていたが、時々片目だけ開けて紙を見ていた。


「第三、鳥」


 ルカがぼそっと言う。


「書いてる」


 碧が返す。


「いっぱい」


「いっぱいって書くか」


「うん」


 リゼは少し笑いながら、紙に書き足した。


 第三、鳥足跡多い。


 非常に多い。


「非常に」


 ルカが少し満足そうに目を閉じた。


 碧は笑ってしまった。


 紙には、今日見た低地の姿が少しずつ移っていく。


 雨後の水。


 泥の筋。


 足跡。


 沈む土。


 乾いた中央。


 傾いた杭。


 何も作っていない。


 何も植えていない。


 それでも、紙の上には確かに、水の動きが残り始めていた。


     ◇


 書き終えた頃には、外はすっかり静まり返っていた。


 雨雲は切れ、月が少しだけ顔を出している。


 仮倉庫一号の方から、かすかに稲穂の鳴る音がした。


 かさり。


 碧は顔を上げた。


 ルカも少しだけ耳を動かしたが、何も言わなかった。


 リゼは紙を乾いた布で押さえながら、静かに言った。


「今日は、作業していないのに疲れました」


「俺も」


「でも、作業したみたいです」


「見ただけなのにな」


「見るのも、仕事なんですね」


 その言葉に、碧はゆっくり頷いた。


 水の畑は、まだない。


 種もまだ土には戻せない。


 だから今は、土ではなく水を読む。


 雨のあと、低地は昨日とは違う顔をしていた。


 そして碧たちは、その顔を初めて、仕事として見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ