次の一歩
翌朝。
リゼは、いつもより少し早く目を覚ました。
隣を見る。
碧がいなかった。
「……あれ、碧さん?」
最初は、竈の方へ行ったのだと思った。
けれど、家の中に碧の姿はない。
リゼは布を肩に掛け、外へ出た。
朝の空き家群には、まだ薄い霧のような冷たさが残っている。
ふと、仮倉庫一号の扉が少しだけ開いているのが見えた。
「……碧さん?」
リゼが近づいた時だった。
中で、小さな音がした。
かさり。
乾いた稲穂が、ほんの少しだけ揺れる音。
リゼは足を止めた。
「……?」
風だろうか。
けれど、朝の空気はほとんど動いていない。
もう一度耳を澄ませたが、それきり何も聞こえなかった。
誰かがいたような気がした。
でも、扉の隙間から見える倉庫の中に、人影はない。
リゼは少しだけ首を傾げてから、そっと扉を押した。
◇
仮倉庫一号の中は薄暗かった。
奥の梁の下で、種用の木札が小さく揺れている。
その下で、碧が柱にもたれて眠っていた。
肩には、上着が掛けられている。
けれど、袖は通していない。
ただ、誰かが上からそっと掛けたように、少しずれて肩に残っていた。
「えっ、碧さん?」
リゼが声をかける。
碧はゆっくり目を開けた。
「……ん」
「こんなところで寝ていたんですか?」
「……あれ、朝?」
「あ、朝です」
碧はぼんやりと周囲を見回した。
そして、自分の肩に掛かった上着に気づく。
昨日、ルカに貸した上着だった。
碧はそれを見下ろし、少しだけ黙った。
「上着もちゃんと着ないで……風邪ひきますよ」
リゼは呆れたように言った。
「いや、これは……」
碧は言いかけて、口を閉じた。
倉庫の中に、ルカの姿はない。
ただ、奥の梁の下で、種用の木札がかたりと鳴った。
「……返すって言ってたもんな」
「え?」
「いや。なんでもない」
碧は上着をそっと握った。
上着には、ほんの少しだけ、昨夜の冷たい空気と稲穂の匂いが残っていた。
◇
その日の昼前。
オステリア・ジーノの厨房では、玉ねぎを炒める甘い匂いが広がっていた。
碧は鍋の前に立っていたが、目の下に少し疲れが残っている。
ジーノはそれを一目見て言った。
「眠そうだな」
「ちょっと寝る場所を間違えてしまって……倉庫で寝ちゃって」
「家と倉庫の区別もつかねぇのか」
「返す言葉がないです」
碧が苦笑すると、ジーノは鍋を混ぜながら鼻で笑った。
「で、今日は何だ」
「低地のことなんですが」
碧は棚の上に置かれた紙を見た。
リゼがまとめ直した記録だ。
低地の場所。
四つの試験区画。
稲が多かった場所。
水が残っていた場所。
川の近くの柔らかい土。
仮倉庫一号。
種用の穂。
それぞれが、紙の上に丁寧に並んでいる。
「そろそろ、ちゃんと許可を取りに行った方がいいと思うんです」
「何の許可だ」
「水の畑……田んぼを作るための」
ジーノはすぐに言った。
「田んぼは役場じゃ通じねぇ」
「分かってます」
「水の畑も、たぶん変な顔をされる」
「ですよね」
「外では、水鳥草の試験区画だな」
ジーノは鍋から目を離さずに言った。
「前に出したのは調査届だ。草を見て、採って、記録するだけの話だろ」
「はい」
「土地を使う話になるなら別だ」
碧は頷いた。
その違いは、少し分かるようになっていた。
見るだけ。
採るだけ。
印をつけるだけ。
そこから一歩進んで、育てる場所にする。
それは、ただの好奇心では済まない。
「今すぐ種をまくわけじゃありません」
碧は言った。
「まだ十一月の頭ですし、春までは動かせないと思います」
「なら、冬の間に何をする」
「水がどう残るかを見ます。雨の後、どこに溜まるか。どこが乾くか。あと、区画の草を整理して、春に使えるか確認したいです」
「川は?」
「変えません」
「土は?」
「大きくは動かしません」
「子供は?」
「連れて行きません」
ジーノはそこで、ようやく碧を見た。
「なら、それを言え」
「はい」
「やりたいことだけ言うな。やらないことも言え」
リゼが横で紙へ書き足した。
やること。
やらないこと。
その二つの欄ができた。
「リゼ」
ジーノが言う。
「はい」
「役場には紙を持っていけ。木板もだ。あいつらは、口だけより紙を見る」
「分かりました」
「あと、妙に大きく言うな。米を増やすだの、新しい畑を作るだの言うと面倒になる」
碧は少し口を閉じた。
言いたくなる言葉だった。
けれど、今はまだ早い。
「水鳥草を、オステリア・ジーノの食材として試験的に扱う。そのための準備作業をしたい。そう言え」
「……はい」
ジーノは短く頷いた。
「行ってこい」
◇
フェルメリア役場は、今日も人の出入りが多かった。
市場管理係の前では露店主らしい男が声を荒らげている。
税務係の前では、けん車引きが荷札を握って待っていた。
警備係の方には、外套を着た者たちが何人か出入りしている。
碧とリゼは、街道管理係の札の前で受付に声をかけた。
「オステリア・ジーノです。街道脇の低地について、追加の相談があります」
受付の男は、二人を見てから手元の板をめくった。
「以前、水鳥草の調査届を出された件ですね」
「はい」
「街道管理係へ回します。少々お待ちください」
碧は少し息を吐いた。
前よりは、話が通じる。
それだけで少し楽だった。
リゼは紙を抱えている。
指先に力が入っていた。
「緊張してる?」
碧が小さく聞くと、リゼは少しだけ頷いた。
「はい。でも、前よりは……何を見せればいいか分かります」
「頼もしいな」
「紙があるので」
リゼはそう言った。
その声は静かだったが、前より強かった。
◇
しばらくして、クラウスが現れた。
きっちり撫でつけた髪。
整えられた袖口。
相変わらず、役場の紙の匂いがするような男だった。
「オステリア・ジーノですね」
「はい」
碧が頭を下げる。
クラウスは二人を小机へ案内した。
「前回の調査届について、何か変更ですか」
「変更というか、次の相談です」
碧は一度息を吸った。
「壁外東街道脇の低地にある水鳥草を、食材として試験的に扱っています」
「そこまでは前回聞きました」
「はい。今回は、その水鳥草を春以降に育てられるか、試すための準備をしたいです」
クラウスの目が、少しだけ細くなった。
「育てる」
「はい」
「調査と、土地を使うことは違います」
碧は黙って頷いた。
予想していた言葉だった。
「分かっています。なので、今日は許可なく土を動かすために来たわけではありません」
リゼが紙を机に広げた。
「これまでの調査記録です」
クラウスは視線を紙へ落とす。
リゼは順番に指で示した。
「水鳥草が多く残っていた場所。水が残る場所。土が柔らかい場所。鳥の足跡が多い場所。杭と紐で印をつけた四つの区画です」
「なるほど」
クラウスは紙を読み進めた。
碧は黙って待った。
◇
「四つの区画」
クラウスが言った。
「はい」
「十歩四方が四つ」
「はい。まだ紐で囲っただけです」
「春以降、二つは苗を育ててから移す。二つは種を直接まく予定、と」
碧は少し驚いた。
そこまで読んでいる。
「はい。ただ、まだ詳しい方法は分かっていません」
「分からないのに申請するのですか」
「分からないので、今のうちに記録して、許可を取って、春までに準備したいんです」
クラウスはしばらく碧を見た。
責めるような目ではない。
ただ、役場の人間として、言葉の穴を探しているような目だった。
「今すぐ種をまく予定は」
「ありません」
「川の流れを変える予定は」
「ありません」
「川から水を引く予定は」
「まだありません。許可なしにはしません」
「土を盛る予定は」
「大きくはしません。必要が出た場合は、先に相談します」
「水の逃げ道を塞ぐ予定は」
「ありません」
「街道に荷を広げる予定は」
「ありません」
「子供の同行は」
「しません」
クラウスは一つずつ頷き、手元の紙へ書きつけた。
「では、今申請したいのは、水鳥草試験区画の準備作業、という扱いになります」
「準備作業」
碧が繰り返す。
「正式な土地利用許可ではありません」
クラウスははっきり言った。
「春以降、本当に栽培するなら、改めて現地確認が必要です。街道管理係だけではなく、警備係にも共有します。水に関わる場合は、場合によっては別の確認も必要になります」
「はい」
「ただし、冬の間の準備として、区画の維持、草の整理、雨の後の水の動きの記録、杭と紐の補修までは、届け出の上で認められます」
碧は息を止めた。
完全な許可ではない。
田んぼを作っていいと言われたわけではない。
でも、止められたわけでもなかった。
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うところではありませんよ」
クラウスは淡々と言った。
「条件があります」
◇
クラウスは紙へ条件を書いていった。
一つ。
作業日は事前に届けること。
一つ。
人数を記録すること。
一つ。
日没前に終えること。
一つ。
川の流れを変えないこと。
一つ。
水をせき止めないこと。
一つ。
大きく土を盛らないこと。
一つ。
街道に荷を広げないこと。
一つ。
子供を同行させないこと。
一つ。
雨の後は、水の残り方を記録すること。
一つ。
春前に現地確認を受けること。
リゼはそれを、一つずつ別の紙へ写していった。
その手は少し緊張していたが、止まらなかった。
「それから」
クラウスは碧を見た。
「水鳥草を採ることと、育てることは違います。育てると言うなら、そこに責任が生まれます」
「責任」
「勝手に増えている草を取るだけなら、問題は少ない。しかし、区画を作り、管理し、食材として扱うなら、誰が責任を持つかが必要です」
碧は頷いた。
「オステリア・ジーノです」
「店としてですね」
「はい」
「前回と同じく?」
「はい」
クラウスは紙に記した。
オステリア・ジーノ。
その文字が、また役場の紙に残る。
碧はそれを見るたびに、少し背筋が伸びる気がした。
◇
「それから」
クラウスは紙を整えながら言った。
「採取した水鳥草や、作業に使う道具を、低地や街道脇に残す予定はありますか」
「ありません」
碧は答えた。
「作業後は、すべて持ち帰ります」
「持ち帰ったものは?」
「オステリア・ジーノ側で保管します」
リゼが紙を示した。
「食材として使う分と、試験用に残す分は分けて記録しています。現場には残しません」
クラウスは頷いた。
「それなら結構です。街道脇に積んだままにされたり、低地に袋や道具を置かれたりすると困りますので」
「しません」
「では、その点も条件に入れます」
クラウスは紙に書き足した。
作業後、採取物および道具を現場に残さないこと。
碧は、仮倉庫一号の奥に掛けた種用の木札を思い出した。
けれど、それをここで詳しく話す必要はない。
役場が知りたいのは、低地に何を残すか、街道の邪魔をしないか、誰が責任を持つか。
その先の、食べない穂を誰が見ているかまでは、碧たちの側の話だった。
◇
届出の控えとして、クラウスは薄い紙片を一枚渡した。
「水鳥草試験区画、冬期準備作業の届出控えです」
リゼが両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「春以降の作業は、これとは別です。種をまく、苗を移す、水を溜める、土をならす。そうした作業を始める前に、必ず改めて相談してください」
「分かりました」
碧も頭を下げた。
「あと」
クラウスは少しだけ声を低くした。
「低地は冬の雨で様子が変わります。今見ている場所が、春にも同じとは限りません」
「はい」
「記録してください。思い込みで進めないように」
リゼがすぐに頷いた。
「記録します」
その声には、少しだけ誇りがあった。
◇
役場を出ると、昼の市場通りはいつも通り騒がしかった。
荷車の音。
露店の声。
焼いたパンの匂い。
碧は手の中の紙片を見た。
「許可、取れた……って言っていいのかな」
「準備作業の届出です」
リゼがすぐ訂正した。
「ですよね」
「でも、止められませんでした」
「それは大きいな」
「はい」
リゼは紙片を大事そうに抱えた。
「春までに、もっと記録を増やさないといけませんね」
「雨の後の水の残り方か」
「はい。あと、杭と紐の状態。鳥の足跡。土が沈む場所」
「やること増えたな」
「増えました」
リゼは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、碧も小さく笑った。
田んぼはまだない。
種もまだ蒔けない。
川の水も動かせない。
けれど、春へ向けて低地へ通う理由ができた。
役場の紙に、細い道が引かれた。
◇
オステリアへ戻ると、ジーノはカウンターで皿を拭いていた。
「どうだった」
「準備作業の届出として受けてもらえました」
碧が答える。
「本許可じゃねぇな」
「はい」
「だろうな」
ジーノは皿を棚へ戻した。
「何をしていい」
「区画の維持、草の整理、雨の後の水の記録、杭と紐の補修です」
「何をしちゃいけねぇ」
「川を変えない。水をせき止めない。大きく土を盛らない。街道に荷を広げない。子供を連れて行かない」
「覚えたな」
「何回も言われましたから」
「役場は同じことを言うのが仕事みてぇなもんだ」
ジーノはそう言って、少しだけ口元を緩めた。
「春までに、見ろ」
「はい」
「冬の低地を見てないやつが、春に水を扱えるわけねぇ」
「……そうですね」
碧は素直に頷いた。
米を増やすには、米だけ見ていてもだめだ。
土を見る。
水を見る。
道を見る。
倉庫を見る。
人を見る。
その一つ一つが、全部つながっている。
◇
夕方。
空き家群へ戻ると、リゼはさっそく紙を広げた。
水鳥草試験区画。
冬期準備作業。
川を変えない。
水をせき止めない。
土を大きく盛らない。
雨後の水を記録。
春前に現地確認。
その文字が、新しい紙に並んでいく。
碧はその横で、仮倉庫一号の方をちらりと見た。
「少し見てくる」
「倉庫ですか?」
「うん」
「また寝ないでくださいね」
「今日は寝ない」
碧がそう言うと、リゼは少し疑わしそうに見た。
「本当ですか?」
「本当」
碧は苦笑しながら、仮倉庫一号へ向かった。
◇
中は静かだった。
朝と同じように、種用の木札が奥の梁の下に掛かっている。
だが、碧はすぐに気づいた。
木札が、少しだけまっすぐになっている。
昨日よりも。
朝よりも。
ほんの少しだけ。
吊るしていた穂も、ばらけていた端が整えられていた。
誰かが直したのだ。
誰が直したのかは、聞くまでもなかった。
碧は小さく笑った。
「……見てるんだな」
返事はない。
窓の外にも、梁の上にも、ルカの姿はない。
けれど、空っぽではなかった。
そこには、紙には書かれていない気配があった。
種用の穂が、かさりと小さく鳴る。
碧はその音を聞きながら、役場の紙片を握った。
種は、まだ土へ戻さない。
今はまだ、食べない穂として守る。
けれど、その穂をいつか土へ戻すための道は、役場の紙の上に細く引かれた。
水の畑は、まだない。
でも、その許しを得るための一歩は、確かに始まっていた。




