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ごはん革命  作者: Sen
34/36

次の一歩

 翌朝。


 リゼは、いつもより少し早く目を覚ました。


 隣を見る。


 碧がいなかった。


「……あれ、碧さん?」


 最初は、竈の方へ行ったのだと思った。


 けれど、家の中に碧の姿はない。


 リゼは布を肩に掛け、外へ出た。


 朝の空き家群には、まだ薄い霧のような冷たさが残っている。


 ふと、仮倉庫一号の扉が少しだけ開いているのが見えた。


「……碧さん?」


 リゼが近づいた時だった。


 中で、小さな音がした。


 かさり。


 乾いた稲穂が、ほんの少しだけ揺れる音。


 リゼは足を止めた。


「……?」


 風だろうか。


 けれど、朝の空気はほとんど動いていない。


 もう一度耳を澄ませたが、それきり何も聞こえなかった。


 誰かがいたような気がした。


 でも、扉の隙間から見える倉庫の中に、人影はない。


 リゼは少しだけ首を傾げてから、そっと扉を押した。


     ◇


 仮倉庫一号の中は薄暗かった。


 奥の梁の下で、種用の木札が小さく揺れている。


 その下で、碧が柱にもたれて眠っていた。


 肩には、上着が掛けられている。


 けれど、袖は通していない。


 ただ、誰かが上からそっと掛けたように、少しずれて肩に残っていた。


「えっ、碧さん?」


 リゼが声をかける。


 碧はゆっくり目を開けた。


「……ん」


「こんなところで寝ていたんですか?」


「……あれ、朝?」


「あ、朝です」


 碧はぼんやりと周囲を見回した。


 そして、自分の肩に掛かった上着に気づく。


 昨日、ルカに貸した上着だった。


 碧はそれを見下ろし、少しだけ黙った。


「上着もちゃんと着ないで……風邪ひきますよ」


 リゼは呆れたように言った。


「いや、これは……」


 碧は言いかけて、口を閉じた。


 倉庫の中に、ルカの姿はない。


 ただ、奥の梁の下で、種用の木札がかたりと鳴った。


「……返すって言ってたもんな」


「え?」


「いや。なんでもない」


 碧は上着をそっと握った。


 上着には、ほんの少しだけ、昨夜の冷たい空気と稲穂の匂いが残っていた。


     ◇


 その日の昼前。


 オステリア・ジーノの厨房では、玉ねぎを炒める甘い匂いが広がっていた。


 碧は鍋の前に立っていたが、目の下に少し疲れが残っている。


 ジーノはそれを一目見て言った。


「眠そうだな」


「ちょっと寝る場所を間違えてしまって……倉庫で寝ちゃって」


「家と倉庫の区別もつかねぇのか」


「返す言葉がないです」


 碧が苦笑すると、ジーノは鍋を混ぜながら鼻で笑った。


「で、今日は何だ」


「低地のことなんですが」


 碧は棚の上に置かれた紙を見た。


 リゼがまとめ直した記録だ。


 低地の場所。


 四つの試験区画。


 稲が多かった場所。


 水が残っていた場所。


 川の近くの柔らかい土。


 仮倉庫一号。


 種用の穂。


 それぞれが、紙の上に丁寧に並んでいる。


「そろそろ、ちゃんと許可を取りに行った方がいいと思うんです」


「何の許可だ」


「水の畑……田んぼを作るための」


 ジーノはすぐに言った。


「田んぼは役場じゃ通じねぇ」


「分かってます」


「水の畑も、たぶん変な顔をされる」


「ですよね」


「外では、水鳥草の試験区画だな」


 ジーノは鍋から目を離さずに言った。


「前に出したのは調査届だ。草を見て、採って、記録するだけの話だろ」


「はい」


「土地を使う話になるなら別だ」


 碧は頷いた。


 その違いは、少し分かるようになっていた。


 見るだけ。


 採るだけ。


 印をつけるだけ。


 そこから一歩進んで、育てる場所にする。


 それは、ただの好奇心では済まない。


「今すぐ種をまくわけじゃありません」


 碧は言った。


「まだ十一月の頭ですし、春までは動かせないと思います」


「なら、冬の間に何をする」


「水がどう残るかを見ます。雨の後、どこに溜まるか。どこが乾くか。あと、区画の草を整理して、春に使えるか確認したいです」


「川は?」


「変えません」


「土は?」


「大きくは動かしません」


「子供は?」


「連れて行きません」


 ジーノはそこで、ようやく碧を見た。


「なら、それを言え」


「はい」


「やりたいことだけ言うな。やらないことも言え」


 リゼが横で紙へ書き足した。


 やること。


 やらないこと。


 その二つの欄ができた。


「リゼ」


 ジーノが言う。


「はい」


「役場には紙を持っていけ。木板もだ。あいつらは、口だけより紙を見る」


「分かりました」


「あと、妙に大きく言うな。米を増やすだの、新しい畑を作るだの言うと面倒になる」


 碧は少し口を閉じた。


 言いたくなる言葉だった。


 けれど、今はまだ早い。


「水鳥草を、オステリア・ジーノの食材として試験的に扱う。そのための準備作業をしたい。そう言え」


「……はい」


 ジーノは短く頷いた。


「行ってこい」


     ◇


 フェルメリア役場は、今日も人の出入りが多かった。


 市場管理係の前では露店主らしい男が声を荒らげている。


 税務係の前では、けん車引きが荷札を握って待っていた。


 警備係の方には、外套を着た者たちが何人か出入りしている。


 碧とリゼは、街道管理係の札の前で受付に声をかけた。


「オステリア・ジーノです。街道脇の低地について、追加の相談があります」


 受付の男は、二人を見てから手元の板をめくった。


「以前、水鳥草の調査届を出された件ですね」


「はい」


「街道管理係へ回します。少々お待ちください」


 碧は少し息を吐いた。


 前よりは、話が通じる。


 それだけで少し楽だった。


 リゼは紙を抱えている。


 指先に力が入っていた。


「緊張してる?」


 碧が小さく聞くと、リゼは少しだけ頷いた。


「はい。でも、前よりは……何を見せればいいか分かります」


「頼もしいな」


「紙があるので」


 リゼはそう言った。


 その声は静かだったが、前より強かった。


     ◇


 しばらくして、クラウスが現れた。


 きっちり撫でつけた髪。


 整えられた袖口。


 相変わらず、役場の紙の匂いがするような男だった。


「オステリア・ジーノですね」


「はい」


 碧が頭を下げる。


 クラウスは二人を小机へ案内した。


「前回の調査届について、何か変更ですか」


「変更というか、次の相談です」


 碧は一度息を吸った。


「壁外東街道脇の低地にある水鳥草を、食材として試験的に扱っています」


「そこまでは前回聞きました」


「はい。今回は、その水鳥草を春以降に育てられるか、試すための準備をしたいです」


 クラウスの目が、少しだけ細くなった。


「育てる」


「はい」


「調査と、土地を使うことは違います」


 碧は黙って頷いた。


 予想していた言葉だった。


「分かっています。なので、今日は許可なく土を動かすために来たわけではありません」


 リゼが紙を机に広げた。


「これまでの調査記録です」


 クラウスは視線を紙へ落とす。


 リゼは順番に指で示した。


「水鳥草が多く残っていた場所。水が残る場所。土が柔らかい場所。鳥の足跡が多い場所。杭と紐で印をつけた四つの区画です」


「なるほど」


 クラウスは紙を読み進めた。


 碧は黙って待った。


     ◇


「四つの区画」


 クラウスが言った。


「はい」


「十歩四方が四つ」


「はい。まだ紐で囲っただけです」


「春以降、二つは苗を育ててから移す。二つは種を直接まく予定、と」


 碧は少し驚いた。


 そこまで読んでいる。


「はい。ただ、まだ詳しい方法は分かっていません」


「分からないのに申請するのですか」


「分からないので、今のうちに記録して、許可を取って、春までに準備したいんです」


 クラウスはしばらく碧を見た。


 責めるような目ではない。


 ただ、役場の人間として、言葉の穴を探しているような目だった。


「今すぐ種をまく予定は」


「ありません」


「川の流れを変える予定は」


「ありません」


「川から水を引く予定は」


「まだありません。許可なしにはしません」


「土を盛る予定は」


「大きくはしません。必要が出た場合は、先に相談します」


「水の逃げ道を塞ぐ予定は」


「ありません」


「街道に荷を広げる予定は」


「ありません」


「子供の同行は」


「しません」


 クラウスは一つずつ頷き、手元の紙へ書きつけた。


「では、今申請したいのは、水鳥草試験区画の準備作業、という扱いになります」


「準備作業」


 碧が繰り返す。


「正式な土地利用許可ではありません」


 クラウスははっきり言った。


「春以降、本当に栽培するなら、改めて現地確認が必要です。街道管理係だけではなく、警備係にも共有します。水に関わる場合は、場合によっては別の確認も必要になります」


「はい」


「ただし、冬の間の準備として、区画の維持、草の整理、雨の後の水の動きの記録、杭と紐の補修までは、届け出の上で認められます」


 碧は息を止めた。


 完全な許可ではない。


 田んぼを作っていいと言われたわけではない。


 でも、止められたわけでもなかった。


「ありがとうございます」


「まだ礼を言うところではありませんよ」


 クラウスは淡々と言った。


「条件があります」


     ◇


 クラウスは紙へ条件を書いていった。


 一つ。


 作業日は事前に届けること。


 一つ。


 人数を記録すること。


 一つ。


 日没前に終えること。


 一つ。


 川の流れを変えないこと。


 一つ。


 水をせき止めないこと。


 一つ。


 大きく土を盛らないこと。


 一つ。


 街道に荷を広げないこと。


 一つ。


 子供を同行させないこと。


 一つ。


 雨の後は、水の残り方を記録すること。


 一つ。


 春前に現地確認を受けること。


 リゼはそれを、一つずつ別の紙へ写していった。


 その手は少し緊張していたが、止まらなかった。


「それから」


 クラウスは碧を見た。


「水鳥草を採ることと、育てることは違います。育てると言うなら、そこに責任が生まれます」


「責任」


「勝手に増えている草を取るだけなら、問題は少ない。しかし、区画を作り、管理し、食材として扱うなら、誰が責任を持つかが必要です」


 碧は頷いた。


「オステリア・ジーノです」


「店としてですね」


「はい」


「前回と同じく?」


「はい」


 クラウスは紙に記した。


 オステリア・ジーノ。


 その文字が、また役場の紙に残る。


 碧はそれを見るたびに、少し背筋が伸びる気がした。


     ◇


「それから」


 クラウスは紙を整えながら言った。


「採取した水鳥草や、作業に使う道具を、低地や街道脇に残す予定はありますか」


「ありません」


 碧は答えた。


「作業後は、すべて持ち帰ります」


「持ち帰ったものは?」


「オステリア・ジーノ側で保管します」


 リゼが紙を示した。


「食材として使う分と、試験用に残す分は分けて記録しています。現場には残しません」


 クラウスは頷いた。


「それなら結構です。街道脇に積んだままにされたり、低地に袋や道具を置かれたりすると困りますので」


「しません」


「では、その点も条件に入れます」


 クラウスは紙に書き足した。


 作業後、採取物および道具を現場に残さないこと。


 碧は、仮倉庫一号の奥に掛けた種用の木札を思い出した。


 けれど、それをここで詳しく話す必要はない。


 役場が知りたいのは、低地に何を残すか、街道の邪魔をしないか、誰が責任を持つか。


 その先の、食べない穂を誰が見ているかまでは、碧たちの側の話だった。


     ◇


 届出の控えとして、クラウスは薄い紙片を一枚渡した。


「水鳥草試験区画、冬期準備作業の届出控えです」


 リゼが両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「春以降の作業は、これとは別です。種をまく、苗を移す、水を溜める、土をならす。そうした作業を始める前に、必ず改めて相談してください」


「分かりました」


 碧も頭を下げた。


「あと」


 クラウスは少しだけ声を低くした。


「低地は冬の雨で様子が変わります。今見ている場所が、春にも同じとは限りません」


「はい」


「記録してください。思い込みで進めないように」


 リゼがすぐに頷いた。


「記録します」


 その声には、少しだけ誇りがあった。


     ◇


 役場を出ると、昼の市場通りはいつも通り騒がしかった。


 荷車の音。


 露店の声。


 焼いたパンの匂い。


 碧は手の中の紙片を見た。


「許可、取れた……って言っていいのかな」


「準備作業の届出です」


 リゼがすぐ訂正した。


「ですよね」


「でも、止められませんでした」


「それは大きいな」


「はい」


 リゼは紙片を大事そうに抱えた。


「春までに、もっと記録を増やさないといけませんね」


「雨の後の水の残り方か」


「はい。あと、杭と紐の状態。鳥の足跡。土が沈む場所」


「やること増えたな」


「増えました」


 リゼは少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、碧も小さく笑った。


 田んぼはまだない。


 種もまだ蒔けない。


 川の水も動かせない。


 けれど、春へ向けて低地へ通う理由ができた。


 役場の紙に、細い道が引かれた。


     ◇


 オステリアへ戻ると、ジーノはカウンターで皿を拭いていた。


「どうだった」


「準備作業の届出として受けてもらえました」


 碧が答える。


「本許可じゃねぇな」


「はい」


「だろうな」


 ジーノは皿を棚へ戻した。


「何をしていい」


「区画の維持、草の整理、雨の後の水の記録、杭と紐の補修です」


「何をしちゃいけねぇ」


「川を変えない。水をせき止めない。大きく土を盛らない。街道に荷を広げない。子供を連れて行かない」


「覚えたな」


「何回も言われましたから」


「役場は同じことを言うのが仕事みてぇなもんだ」


 ジーノはそう言って、少しだけ口元を緩めた。


「春までに、見ろ」


「はい」


「冬の低地を見てないやつが、春に水を扱えるわけねぇ」


「……そうですね」


 碧は素直に頷いた。


 米を増やすには、米だけ見ていてもだめだ。


 土を見る。


 水を見る。


 道を見る。


 倉庫を見る。


 人を見る。


 その一つ一つが、全部つながっている。


     ◇


 夕方。


 空き家群へ戻ると、リゼはさっそく紙を広げた。


 水鳥草試験区画。


 冬期準備作業。


 川を変えない。


 水をせき止めない。


 土を大きく盛らない。


 雨後の水を記録。


 春前に現地確認。


 その文字が、新しい紙に並んでいく。


 碧はその横で、仮倉庫一号の方をちらりと見た。


「少し見てくる」


「倉庫ですか?」


「うん」


「また寝ないでくださいね」


「今日は寝ない」


 碧がそう言うと、リゼは少し疑わしそうに見た。


「本当ですか?」


「本当」


 碧は苦笑しながら、仮倉庫一号へ向かった。


     ◇


 中は静かだった。


 朝と同じように、種用の木札が奥の梁の下に掛かっている。


 だが、碧はすぐに気づいた。


 木札が、少しだけまっすぐになっている。


 昨日よりも。


 朝よりも。


 ほんの少しだけ。


 吊るしていた穂も、ばらけていた端が整えられていた。


 誰かが直したのだ。


 誰が直したのかは、聞くまでもなかった。


 碧は小さく笑った。


「……見てるんだな」


 返事はない。


 窓の外にも、梁の上にも、ルカの姿はない。


 けれど、空っぽではなかった。


 そこには、紙には書かれていない気配があった。


 種用の穂が、かさりと小さく鳴る。


 碧はその音を聞きながら、役場の紙片を握った。


 種は、まだ土へ戻さない。


 今はまだ、食べない穂として守る。


 けれど、その穂をいつか土へ戻すための道は、役場の紙の上に細く引かれた。


 水の畑は、まだない。


 でも、その許しを得るための一歩は、確かに始まっていた。

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