狐の見張り
その夜。
空き家群には、静かな風が通っていた。
住み家の中では、リゼが紙を布に包んだまま眠っている。
今日一日、記録と建物の確認で疲れたのだろう。
長い耳が、寝息に合わせて少しだけ動いていた。
碧も横になっていた。
だが、なかなか眠れなかった。
仮倉庫一号。
バルトロが言った言葉。
グレーテが見ていた壁。
マルタが歩いて確かめた人の通り道。
リゼが掛けた木札。
その全部が、頭の中でまだ動いていた。
「……倉庫まで作ることになるとはな」
小さく呟く。
その時だった。
かたり。
外から、小さな音がした。
碧は目を開ける。
風かもしれない。
でも、ただの風にしては近い。
碧はゆっくり身体を起こした。
リゼは眠ったままだ。
竈の火も落ちている。
碧は上着を羽織り、音を立てないように外へ出た。
◇
仮倉庫一号の扉は、少しだけ開いていた。
中は暗い。
月明かりが、割れた窓の隙間から細く差し込んでいる。
木札が揺れていた。
種用。
籾。
食べる分。
道具。
空袋。
記録。
そして、奥の梁の下。
種用の穂を吊るす予定の場所に、ルカが座っていた。
膝を抱え、じっと上を見ている。
「……何してるんだ」
碧が声をかけると、ルカの耳がぴくりと動いた。
けれど、驚いた様子はなかった。
「見てる」
「見張ってるのか」
「うん」
「寒くない?」
「平気」
そう言ったわりに、ルカの尾は身体に巻きついていた。
碧は少し迷ってから、隣へ座った。
床は冷たい。
昼間、バルトロが踏むなと言った場所を避けて、柱の近くに腰を下ろす。
ルカが横目で見る。
「怒らないの?」
「怒る理由ないだろ」
「勝手に入った」
「でも、ここ半分ルカの場所みたいなもんだし」
ルカは少しだけ目を丸くした。
「私の?」
「種用の穂、ずっと気にしてるだろ」
「……なくなったら困る」
「うん」
「食べるためだから」
「そうだな」
碧は笑わなかった。
いつもなら少しからかったかもしれない。
でも、今はそうしなかった。
◇
しばらく、二人は黙っていた。
外の風が、空き家の壁を撫でる。
かたり、と木札が鳴る。
種用。
その二文字が、月明かりの中で小さく揺れている。
「本当はさ」
碧が静かに言った。
「食べたいんだろ」
ルカはすぐには答えなかった。
上を見たまま、膝を抱える腕に少しだけ力を入れる。
それから、短く言った。
「食べたい」
「だよな」
「でも、これ食べたら終わる」
碧はルカを見る。
ルカは木札を見上げたまま続けた。
「残したら、あとで増えるかもしれない」
「うん」
「だから見てる」
短い言葉だった。
でも、碧にはそれで十分だった。
ルカはただ食いしん坊なだけではない。
食べたい。
でも食べない。
今なくしたら、次がない。
それを、ルカはちゃんと分かっている。
「……すごいな、ルカ」
「何が」
「ちゃんと先のこと考えてる」
「食べたいから」
「それでもすごいよ」
ルカは少しだけ耳を伏せた。
「変なの」
「俺が?」
「うん」
「またかよ」
「だって、食べたいのに食べないの、碧が始めた」
「まあ、そうだな」
「でも、碧はたまに忘れそう」
「俺が?」
「うん。米の顔してる時、周り見てない」
「米の顔って何だよ」
「米の顔」
「説明になってない」
ルカは少しだけ笑った。
本当に少しだけだった。
でも、碧はそれを見逃さなかった。
◇
「俺のいたところだとさ」
碧は木札を見上げたまま言った。
「米は、当たり前にあったんだ」
「当たり前?」
「うん。袋で買えて、洗って、炊けば食べられた」
「袋で?」
「袋で」
「いっぱい?」
「たぶん、いっぱい」
「なくならないの?」
碧は答えに詰まった。
なくならない。
そう思っていた。
米も、パンも、肉も、野菜も。
店へ行けばある。
金を払えば買える。
炊飯器に入れれば炊ける。
その前に、誰がどうやって育てて、刈って、運んで、しまっていたのか。
ほとんど考えていなかった。
「……なくなるって、あんまり考えてなかった」
碧が言うと、ルカは不思議そうにした。
「変なの」
「うん。今思うと変だな」
「食べ物は、なくなる」
「そうだな」
「だから、ある時に食べる」
「うん」
「でも、全部食べたら、なくなる」
「うん」
「難しい」
「本当に難しいな」
碧は小さく息を吐いた。
米は懐かしいだけのものではなくなっていた。
食べたいもの。
残すもの。
守るもの。
増やすもの。
その全部を、ここで初めて考えている。
◇
月明かりが少し角度を変えた。
その光が、ルカの首元に当たる。
服の隙間から、琥珀色の飾りが見えた。
古びたネックレス。
稲穂によく似た形。
碧は少しだけ迷ってから言った。
「それ、やっぱり稲穂に似てるな」
ルカはすぐにネックレスを押さえた。
「わかんない」
「そっか」
碧はそれ以上、踏み込まなかった。
ルカは、しばらく黙っていた。
指先で、飾りを押さえたまま。
やがて、小さな声で言った。
「でも、なくしたくない」
碧はルカを見る。
「誰にもらったかは、覚えてない」
「うん」
「でも、なくしたら、だめな気がする」
ルカの声は低かった。
いつものように素っ気ない。
でも、その奥に少しだけ、不安があった。
碧は静かに頷いた。
「じゃあ、それも大事なやつだな」
「たぶん」
「種用の穂と同じ?」
ルカは少し考えた。
「似てる」
「そっか」
「食べられないけど」
「そこは違うな」
「うん」
ルカはネックレスから手を離した。
そして、ほんの少しだけ飾りを持ち上げ、碧に見えるようにした。
碧は少しだけ胸が温かくなった気がした。
◇
風が入ってきた。
ルカの肩が、わずかに震える。
碧は上着を脱ぎ、ルカの肩にかけた。
「平気って言ってたけどやっぱり寒いだろ」
「平気」
「じゃあ、これは俺が暑いから貸す」
「寒くないの?」
「いいから使え」
ルカは少しだけ迷った。
それから、上着の端を掴んだ。
逃げなかった。
碧の隣に、そのまま座っていた。
肩が触れるほどではない。
でも、さっきより少し近い。
「碧」
「ん?」
「これ、あったかい」
「そりゃよかった」
「返す?」
「今はいいよ」
「じゃあ、あとで返す」
「うん」
そのやり取りのあと、また沈黙が落ちた。
けれど、さっきより静かだった。
空っぽの沈黙ではなかった。
◇
「なあ、ルカ」
「なに」
「稲穂の見張り、任せてもいいか」
ルカは碧を見た。
「任せる?」
「うん」
「私に?」
「うん」
碧は木札を指した。
「食べるために、食べない穂を守る係」
「係」
「狐の見張り」
ルカは瞬きをした。
それから、木札を見た。
種用。
まだ穂は多くない。
むしろ少ない。
こんなものを守ってどうなるのか、他の人には分からないかもしれない。
でも、ルカには分かる。
碧にも分かる。
それは、今食べないものだ。
後で食べるために、なくしてはいけないものだ。
「やる」
ルカは短く言った。
「本当に?」
「やる」
「じゃあ頼んだ」
「うん」
ルカは少しだけ背筋を伸ばした。
「碧の分も、見てる」
「俺の分?」
「碧、ぼーっとするから」
「またそれか」
「米の顔してる時は、見てないとだめ」
「俺、そんなに危なっかしい?」
「うん」
「即答かよ」
碧が苦笑すると、ルカは少しだけ口元を緩めた。
◇
その夜、仮倉庫一号には、まだ大したものはなかった。
少しの穂。
木札。
古い紐。
棚予定地。
床につけられた印。
それだけだ。
米はまだ増えていない。
倉庫もまだ仮のままだ。
けれど、そこには見張りがいた。
食べるために、食べない穂を守る狐の少女がいた。
碧はその隣に座り、しばらく何も言わなかった。
ルカも何も言わなかった。
ただ、上着の端を小さく握っていた。
夜風が通るたび、種用の木札がかたりと鳴る。
碧はその音を聞きながら思った。
米はまだ増えていない。
それでも、米を守る仲間は増えていた。




