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ごはん革命  作者: Sen
33/36

狐の見張り

 その夜。


 空き家群には、静かな風が通っていた。


 住み家の中では、リゼが紙を布に包んだまま眠っている。


 今日一日、記録と建物の確認で疲れたのだろう。


 長い耳が、寝息に合わせて少しだけ動いていた。


 碧も横になっていた。


 だが、なかなか眠れなかった。


 仮倉庫一号。


 バルトロが言った言葉。


 グレーテが見ていた壁。


 マルタが歩いて確かめた人の通り道。


 リゼが掛けた木札。


 その全部が、頭の中でまだ動いていた。


「……倉庫まで作ることになるとはな」


 小さく呟く。


 その時だった。


 かたり。


 外から、小さな音がした。


 碧は目を開ける。


 風かもしれない。


 でも、ただの風にしては近い。


 碧はゆっくり身体を起こした。


 リゼは眠ったままだ。


 竈の火も落ちている。


 碧は上着を羽織り、音を立てないように外へ出た。


     ◇


 仮倉庫一号の扉は、少しだけ開いていた。


 中は暗い。


 月明かりが、割れた窓の隙間から細く差し込んでいる。


 木札が揺れていた。


 種用。


 籾。


 食べる分。


 道具。


 空袋。


 記録。


 そして、奥の梁の下。


 種用の穂を吊るす予定の場所に、ルカが座っていた。


 膝を抱え、じっと上を見ている。


「……何してるんだ」


 碧が声をかけると、ルカの耳がぴくりと動いた。


 けれど、驚いた様子はなかった。


「見てる」


「見張ってるのか」


「うん」


「寒くない?」


「平気」


 そう言ったわりに、ルカの尾は身体に巻きついていた。


 碧は少し迷ってから、隣へ座った。


 床は冷たい。


 昼間、バルトロが踏むなと言った場所を避けて、柱の近くに腰を下ろす。


 ルカが横目で見る。


「怒らないの?」


「怒る理由ないだろ」


「勝手に入った」


「でも、ここ半分ルカの場所みたいなもんだし」


 ルカは少しだけ目を丸くした。


「私の?」


「種用の穂、ずっと気にしてるだろ」


「……なくなったら困る」


「うん」


「食べるためだから」


「そうだな」


 碧は笑わなかった。


 いつもなら少しからかったかもしれない。


 でも、今はそうしなかった。


     ◇


 しばらく、二人は黙っていた。


 外の風が、空き家の壁を撫でる。


 かたり、と木札が鳴る。


 種用。


 その二文字が、月明かりの中で小さく揺れている。


「本当はさ」


 碧が静かに言った。


「食べたいんだろ」


 ルカはすぐには答えなかった。


 上を見たまま、膝を抱える腕に少しだけ力を入れる。


 それから、短く言った。


「食べたい」


「だよな」


「でも、これ食べたら終わる」


 碧はルカを見る。


 ルカは木札を見上げたまま続けた。


「残したら、あとで増えるかもしれない」


「うん」


「だから見てる」


 短い言葉だった。


 でも、碧にはそれで十分だった。


 ルカはただ食いしん坊なだけではない。


 食べたい。


 でも食べない。


 今なくしたら、次がない。


 それを、ルカはちゃんと分かっている。


「……すごいな、ルカ」


「何が」


「ちゃんと先のこと考えてる」


「食べたいから」


「それでもすごいよ」


 ルカは少しだけ耳を伏せた。


「変なの」


「俺が?」


「うん」


「またかよ」


「だって、食べたいのに食べないの、碧が始めた」


「まあ、そうだな」


「でも、碧はたまに忘れそう」


「俺が?」


「うん。米の顔してる時、周り見てない」


「米の顔って何だよ」


「米の顔」


「説明になってない」


 ルカは少しだけ笑った。


 本当に少しだけだった。


 でも、碧はそれを見逃さなかった。


     ◇


「俺のいたところだとさ」


 碧は木札を見上げたまま言った。


「米は、当たり前にあったんだ」


「当たり前?」


「うん。袋で買えて、洗って、炊けば食べられた」


「袋で?」


「袋で」


「いっぱい?」


「たぶん、いっぱい」


「なくならないの?」


 碧は答えに詰まった。


 なくならない。


 そう思っていた。


 米も、パンも、肉も、野菜も。


 店へ行けばある。


 金を払えば買える。


 炊飯器に入れれば炊ける。


 その前に、誰がどうやって育てて、刈って、運んで、しまっていたのか。


 ほとんど考えていなかった。


「……なくなるって、あんまり考えてなかった」


 碧が言うと、ルカは不思議そうにした。


「変なの」


「うん。今思うと変だな」


「食べ物は、なくなる」


「そうだな」


「だから、ある時に食べる」


「うん」


「でも、全部食べたら、なくなる」


「うん」


「難しい」


「本当に難しいな」


 碧は小さく息を吐いた。


 米は懐かしいだけのものではなくなっていた。


 食べたいもの。


 残すもの。


 守るもの。


 増やすもの。


 その全部を、ここで初めて考えている。


     ◇


 月明かりが少し角度を変えた。


 その光が、ルカの首元に当たる。


 服の隙間から、琥珀色の飾りが見えた。


 古びたネックレス。


 稲穂によく似た形。


 碧は少しだけ迷ってから言った。


「それ、やっぱり稲穂に似てるな」


 ルカはすぐにネックレスを押さえた。


「わかんない」


「そっか」


 碧はそれ以上、踏み込まなかった。


 ルカは、しばらく黙っていた。


 指先で、飾りを押さえたまま。


 やがて、小さな声で言った。


「でも、なくしたくない」


 碧はルカを見る。


「誰にもらったかは、覚えてない」


「うん」


「でも、なくしたら、だめな気がする」


 ルカの声は低かった。


 いつものように素っ気ない。


 でも、その奥に少しだけ、不安があった。


 碧は静かに頷いた。


「じゃあ、それも大事なやつだな」


「たぶん」


「種用の穂と同じ?」


 ルカは少し考えた。


「似てる」


「そっか」


「食べられないけど」


「そこは違うな」


「うん」


 ルカはネックレスから手を離した。


 そして、ほんの少しだけ飾りを持ち上げ、碧に見えるようにした。


 碧は少しだけ胸が温かくなった気がした。


     ◇


 風が入ってきた。


 ルカの肩が、わずかに震える。


 碧は上着を脱ぎ、ルカの肩にかけた。


「平気って言ってたけどやっぱり寒いだろ」


「平気」


「じゃあ、これは俺が暑いから貸す」


「寒くないの?」


「いいから使え」


 ルカは少しだけ迷った。


 それから、上着の端を掴んだ。


 逃げなかった。


 碧の隣に、そのまま座っていた。


 肩が触れるほどではない。


 でも、さっきより少し近い。


「碧」


「ん?」


「これ、あったかい」


「そりゃよかった」


「返す?」


「今はいいよ」


「じゃあ、あとで返す」


「うん」


 そのやり取りのあと、また沈黙が落ちた。


 けれど、さっきより静かだった。


 空っぽの沈黙ではなかった。


     ◇


「なあ、ルカ」


「なに」


「稲穂の見張り、任せてもいいか」


 ルカは碧を見た。


「任せる?」


「うん」


「私に?」


「うん」


 碧は木札を指した。


「食べるために、食べない穂を守る係」


「係」


「狐の見張り」


 ルカは瞬きをした。


 それから、木札を見た。


 種用。


 まだ穂は多くない。


 むしろ少ない。


 こんなものを守ってどうなるのか、他の人には分からないかもしれない。


 でも、ルカには分かる。


 碧にも分かる。


 それは、今食べないものだ。


 後で食べるために、なくしてはいけないものだ。


「やる」


 ルカは短く言った。


「本当に?」


「やる」


「じゃあ頼んだ」


「うん」


 ルカは少しだけ背筋を伸ばした。


「碧の分も、見てる」


「俺の分?」


「碧、ぼーっとするから」


「またそれか」


「米の顔してる時は、見てないとだめ」


「俺、そんなに危なっかしい?」


「うん」


「即答かよ」


 碧が苦笑すると、ルカは少しだけ口元を緩めた。


     ◇


 その夜、仮倉庫一号には、まだ大したものはなかった。


 少しの穂。


 木札。


 古い紐。


 棚予定地。


 床につけられた印。


 それだけだ。


 米はまだ増えていない。


 倉庫もまだ仮のままだ。


 けれど、そこには見張りがいた。


 食べるために、食べない穂を守る狐の少女がいた。


 碧はその隣に座り、しばらく何も言わなかった。


 ルカも何も言わなかった。


 ただ、上着の端を小さく握っていた。


 夜風が通るたび、種用の木札がかたりと鳴る。


 碧はその音を聞きながら思った。


 米はまだ増えていない。


 それでも、米を守る仲間は増えていた。

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