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ごはん革命  作者: Sen
32/36

しまう場所

 翌朝。


 オステリア・ジーノの厨房では、まだ火の入っていない鍋が竈の上に置かれていた。


 リゼは昨日の紙を広げ、最後の方に書いた文字を見つめていた。


 倉庫。


 その二文字だけが、妙に重く見える。


「……本当に、今日は空き家を見るんですね」


 碧が言うと、ジーノは豆の袋を棚へ戻しながら答えた。


「書いたなら見ろ」


「まだ取れるかも分からないんですけど」


「取れてから考えるやつは、だいたい置き場がなくて腐らせる」


「昨日も聞きました」


「大事だからな」


 ジーノは真顔だった。


「四つも試すんだろ。育てる場所を決めたなら、しまう場所も決めとけ」


 碧は紙の上の「倉庫」をもう一度見た。


 まだ米は増えていない。


 昨日決めたのは、低地に張った紐と杭だけだ。


 それでも、ジーノの言う通りだった。


 もし育ったら。


 もし収穫できたら。


 もし今年よりずっと多い稲束が手元に来たら。


 それをどこに置くのか。


 考えなければならない。


「そろそろ、見に行きましょうか」


 リゼが静かに言った。


「今使っている家だけでは、食べる分と種にする分が近すぎます。道具も増えてきましたし」


「そうだな」


 碧が頷く。


 ジーノは厨房の奥から古い紐束を投げて寄越した。


「使えそうなら使え」


「いいんですか?」


「古い。切れるかもしれねぇから、重いものは吊るすな」


「それ、使って大丈夫なんですか」


「見て決めろ」


 それから、ジーノは思い出したように言った。


「あと、建物はグレーテに聞いても意味ないからな」


「え?」


「棚だの金具だの箱だのはグレーテでいい。だが、床や梁や屋根は別だ、あいつの仕事じゃねぇ」


「別……」


「建築屋を呼んだ」


 碧は思わず目を丸くした。


「え、建築屋ですか?」


「ああ。バルトロって男だ。うちの店を始める時にも、床と竈まわりを見てもらった」


「そんな人がいるなら、もっと早く言ってくださいよ」


「聞かれなかった」


「そういう問題ですかね」


「そういう問題だ」


 ジーノは当然のように言った。


     ◇


 空き家群には、朝の冷たい風が通っていた。


 碧たちが住んでいる一軒の隣には、これまで稲束を一時的に置いていた空き家がある。


 屋根は残っている。


 壁も、半分は直してある。


 ただ、倉庫と呼ぶには頼りなかった。


 床はところどころ浮いている。


 窓枠には隙間がある。


 奥の壁には小さな穴が空いていた。


 リゼは入口で足を止め、木板を抱え直した。


「まずはここを見ましょう」


「もう少し綺麗な家の方がよくないか?」


 碧が言うと、リゼは首を振った。


「住む家と、しまう場所は分けた方がいいと思います」


「確かに」


「あと、ここは道から近いです。袋を運ぶなら楽です」


 言われて、碧は周囲を見る。


 たしかに、住んでいる家より少し入口が広い。


 稲束や袋を運ぶなら、こちらの方が使いやすそうだった。


     ◇


 少し遅れて、グレーテが来た。


 肩に道具袋を掛け、片手には細い鉄棒を持っている。


「どこだ」


「ここです」


 碧が案内すると、グレーテは空き家の中を一目見て、眉を寄せた。


「床が悪いな」


「そうなんですよね」


「直さないと何も始まらんな」


 グレーテは床板を鉄棒で軽く叩いた。


 こん。


 こん。


 べこ。


「ここはだめだ。重いものを置くな」


「簡単に抜けそうですか?」


「音が違う」


 グレーテは奥へ進み、梁を見上げた。


 そして、すぐに碧を見た。


「先に言っておく」


「はい」


「棚なら作れる。金具も打てる。箱も作れる。だが、家そのものは私の仕事じゃない」


「あ……」


「梁が持つか。屋根をどう直すか。床にどれだけ積めるか。そこまで私に聞くな」


 碧は少し気まずくなった。


「すみません。なんでもグレーテさんに聞きすぎました」


「まあいいが…」


 グレーテは短く答えた。


「建物を見るなら、建築屋だ」


「ジーノさんが呼んでくれたみたいです」


「なら、その男が来てから決めろ。私は棚と金具を見る」


 グレーテはそう言って、壁際にしゃがみ込んだ。


 米のことではなく、棚を置ける壁かどうかを見ている。


 それが、グレーテの仕事なのだと分かった。


     ◇


 建築屋のバルトロが来たのは、それから少ししてだった。


 がっしりした体格の中年男だった。


 髪は短く、顎には無精髭。


 腰には墨壺のような小さな道具と、折り畳みの物差しを下げている。


 服には土と石灰の白い跡がついていた。


「ここか」


 第一声は、それだった。


「バルトロさんですか?」


 碧が聞くと、男は碧を上から下まで見る。


「お前が碧か」


「はい」


「また変なことを始めたな、ジーノは」


「ジーノさんが?」


「ジーノの店の名前でやってるなら、半分はあいつの面倒だ」


 バルトロはそう言って笑った。


 声が大きい。


 けれど、嫌な圧はなかった。


 空き家の入口で腕を組み、中を眺める。


「住むには貧乏くさいが、倉庫にするにはまだ贅沢だな」


「褒めてます?」


「半分な。残り半分は、直すところが多いって意味だ」


 碧は返事に困った。


 リゼは木板を持ったまま、少しだけ頭を下げる。


「リゼです。記録をしています」


「記録係か。いいな。建物も記録が残ると揉めにくい」


 バルトロはすぐに頷いた。


「で、何を置く」


 碧が答えようとして、少し詰まった。


 米。


 稲束。


 籾。


 白い粒。


 どこから説明すればいいのか迷った。


 リゼが先に言った。


「水鳥草から取れる白い粒です。今はまだ少ないですが、来年に向けて増やすための試験をしています」


「水鳥草ねぇ」


 バルトロは深くは聞かなかった。


「食い物か」


「はい」


「なら、湿気と鳥と小動物を入れるな。建物としてはそこだ」


 実に早かった。


 米の正体には踏み込まない。


 食べ物を置く建物として、何が必要かを見ている。


     ◇


 バルトロは空き家へ入ると、床を踏んだ。


 ぎし。


 ぎし。


 足音が重い。


 わざと強く踏んでいるようだった。


「ここは沈むな」


 床板を指す。


「この下の根太が弱い。袋を積むなら避けたほうがいい」


「ねだ?」


 碧が聞き返す。


「床板を支える横木だ。床は板だけで持ってるんじゃないんだよ」


「なるほど……」


「重いものは、壁際ならいいってもんでもない。柱に近いところへ重さを逃がすんだ」


 バルトロは柱を叩く。


 こん、と鈍い音。


「この柱はまだ生きてる。だが、こっちはだめだな」


 別の柱を叩く。


 音が軽く、どこか空っぽだった。


「虫が入ってる」


「えっ」


 リゼの耳が跳ねる。


「今すぐ倒れるわけじゃない。だが、重いものは寄せるなよ」


 バルトロは天井を見上げた。


「梁に吊るすなら軽いものだけだ。乾いた草束くらいならいける。袋は吊るさないほうがいい」


「種用の穂を吊るす予定です」


 リゼが言う。


「それなら、奥の真ん中の梁だな。風も通る」


 ルカがその梁の下へ行き、鼻をひくつかせる。


「そこは大丈夫」


「分かるのか」


 バルトロが少し面白そうに言う。


「湿った匂い、しない」


「いい鼻だ」


 ルカは少しだけ得意げにした。


「え……ルカ、いつの間に来てたの?」


「ずっと前からいたけど?」


「いなかっただろ」


 相変わらずルカはいつに間にか近くにきているらしい。


     ◇


 グレーテは壁際から口を挟んだ。


「棚を置くなら、この柱とこの柱の間だ」


「そこは床が弱い」


 バルトロがすぐに返す。


「じゃあ床を浮かせる」


「支えを柱に寄せろ。床板に荷を預けるな」


「分かった」


 二人の会話は早かった。


 碧はついていくのに少し苦労した。


 グレーテは棚と金具を見る。


 バルトロは床と柱を見る。


 同じ建物を見ているのに、見ている場所が違う。


「……役割、違うんですね」


 碧が呟くと、マルタがいつの間にか横に立っていた。


「そりゃそうだよ」


「マルタさん、いつから」


「さっき」


「みんな急に現れますね」


「あんたが周りを見てないだけだよ」


 マルタは空き家の中を見回す。


「あたしは人の動きを見る。あの二人は物と建物を見る。あんたは白い粒を見る。全部一人で見ようとするから、頭がいっぱいになるんだよ」


「うーん確かに」


 マルタは入口から奥まで歩き、何度も向きを変えた。


「入口に道具を置くんじゃないよ。袋を持った人間がつまずく」


「はい」


「作業する場所と、しまう場所も分けな。ここで粒を選るなら、袋の置き場は奥。道具は壁際。記録は入口近くの明るいところ」


「置くだけじゃないんですね」


 碧が呟くと、マルタは鼻で笑った。


「しまう前に運ぶ。運べばこぼす。こぼせば拾う。拾うなら場所がいる」


 その言葉に、碧は黙って頷いた。


     ◇


 リゼは木板に新しい区分を書いていった。


 種用。


 籾のまま残す分。


 食べる分。


 白粒にした分。


 割れた粒。


 殻が残った粒。


 道具。


 空袋。


 木札。


 記録。


 碧はその文字を見て、少し目を丸くした。


「割れた粒も分けるの?」


「はい」


「食べられなくはないけど」


「食べるかどうかとは別に、なぜ割れたのか後で見るために残した方がいいと思います」


 リゼは少し恥ずかしそうに耳を揺らした。


「失敗したものも、記録しておいた方がいいと思って」


 グレーテは壁を測っていたが、こちらを見ずに言った。


「失敗したものを捨てるな。失敗した理由が分からなくなる」


「はい」


 リゼは素直に頷いた。


 バルトロも笑った。


「建物も同じだ。雨漏りした跡を隠すやつほど、次も同じところから漏らすんだ」


「隠す人いるんですか?」


 碧が聞くと、バルトロは真顔で答えた。


「あぁそれが山ほどいる」


「嫌な現実ですね」


「現実はだいたい湿ってるんだ」


「建築屋っぽい冗談ですね」


「半分は本気だから困るよな」


     ◇


 リゼは木札を一枚ずつ並べた。


 種用。


 籾。


 食べる分。


 道具。


 空袋。


 記録。


 まだ何も置かれていないのに、札だけが先に場所を作っていく。


「札だけ見ると、もう倉庫みたいですね」


 碧が言うと、リゼは少しだけ耳を揺らした。


「先に名前をつけておかないと、あとで混ざりますから」


「混ざると困る?」


「はい。食べる分と、残す分と、種にする分は、絶対に混ぜてはいけないと思います」


 その声は静かだったが、はっきりしていた。


 ルカは、種用の木札をじっと見ている。


「これ、食べないやつ」


「そう」


 碧が答える。


「でも、あとでいっぱい食べるためのやつ」


「うん」


 ルカは納得したように頷いた。


「じゃあ、そこ。湿ってないところ」


 ルカが指したのは、奥の真ん中の梁の下だった。


 バルトロも確認し、短く頷く。


「軽いものなら吊れる」


 グレーテも梁の位置を見て言った。


「金具を打つなら、ここだな」


 リゼはそこへ木札を掛けた。


 種用。


 その二文字が、空き家の中で小さく揺れた。


     ◇


 昼過ぎまでかけて、空き家の中は少しずつ形を変えていった。


 まず、湿った壁際には何も置かない。


 奥の乾いた梁にだけ紐を張る。


 そこに、種用の穂を吊るす予定の場所を作る。


 床板の弱いところには印をつける。


 バルトロが炭で床に大きく丸をつけた。


「ここは踏むな。踏むなら直してからだ」


「はい」


「屋根は、春までに見る。今すぐ大きく直すほどじゃないが、雨が続けば中まで湿る」


「春までですか」


「本気で増やすならな」


 バルトロは空き家の奥を見た。


「今の量なら、ここで足りる。少し増えたくらいでも、棚を作れば入る」


「じゃあ、しばらくは大丈夫ですか?」


「しばらくはな」


 その言い方に、碧は少し引っかかった。


「その先は?」


「その先は、別の倉庫を考えろ」


 バルトロはあっさり言った。


「この家は仮だ。仮は仮のまま使え。無理に本物にしようとすると、金だけ食う」


 碧は黙った。


 別の倉庫。


 その言葉が、急に現実味を持った。


     ◇


 グレーテは棚予定地を測っていた。


「棚は二段でいい。三段にすると上が使いにくい」


「三段の方がたくさん入りませんか?」


 碧が聞くと、グレーテは即答した。


「使いづらい棚はあってもないのと同じだ」


「なるほど」


「空袋は箱でいい。道具は壁掛け。金具を打つ。ただし、壁だけに預けるな。裏に木を通す」


 バルトロが頷いた。


「その壁なら持つ。だが、こっちはやめときな」


「ああ、わかった」


 二人のやり取りは短い。


 互いに言葉を飾らない。


 でも、ちゃんと噛み合っていた。


 碧はその様子を見て、少しだけ安心した。


 自分だけでは見えないものを、見える人がいる。


 それは、とても大きい。


     ◇


 夕方近く。


 空き家の中には、まだほとんど何もない。


 それでも、朝とは違っていた。


 梁には紐が張られた。


 壁には木札が掛かった。


 床の弱い場所には印がついた。


 入口近くには記録用の小さな板台が置かれた。


 奥には、籾袋を置くための棚予定地が決められた。


 まだ棚はない。


 まだ本当の倉庫とも呼べない。


 でも、ただの空き家ではなくなっていた。


 リゼは木板を見ながら、最後に大きく書いた。


 仮倉庫 一号。


 碧はそれを見て、少し笑った。


「一号ってことは、二号もあるの?」


 リゼは少し困ったように耳を揺らした。


「増えたら、必要になるかもしれません」


「増えるかな」


「増やすんですよね?」


 リゼは静かに言った。


 碧は返事に詰まった。


 そうだ。


 増やすつもりで、昨日四つの区画を決めた。


 増やすつもりで、今日しまう場所を作った。


 まだ何も育っていないのに。


 もう、増えた後のことを考えている。


     ◇


 片づけを終え、オステリアへ戻る頃には、空は赤くなっていた。


 店では、ジーノが夜営業の仕込みを終えたところだった。


「どうだった」


 短く聞かれる。


 リゼは木板と紙を広げた。


「空き家群東側の一軒を、仮倉庫にします」


「仮倉庫か」


 ジーノは少しだけ眉を上げた。


「バルトロは何て言った」


「仮倉庫にはできるそうです。ただし、袋を積みすぎないこと。屋根は春までに見ること。本気で増やすなら、いずれ別の倉庫を考えること」


 ジーノは短く頷いた。


「だろうな」


「分かってたんですか?」


 碧が聞くと、ジーノは鍋を混ぜながら言った。


「空き家は空き家だ。都合よく倉庫にはできねぇ」


「でも、使えるんですよね」


「仮ならな」


 ジーノは碧を見る。


「仮を仮のまま使えるやつは強い。仮を本物だと思い込むやつは、だいたい潰す」


「建物を?」


「建物も、店もな」


 碧は少し黙った。


 ジーノの言葉は、いつも少し雑で、でも後から効いてくる。


「棚は?」


「グレーテさんが寸法を見ます」


「金具は?」


「壁掛けで。ただ、壁だけに預けないようにするそうです」


「ならあいつに任せるだけだな」


 ジーノはそう言って、また鍋へ視線を戻した。


「増やすつもりでやれ」


 碧は顔を上げる。


「本当に増えますかね」


「知らん」


「そこは励ましてくださいよ」


「増えなきゃ困る。増えたらもっと困る。だから先に困っとけ」


「難しいこと言いますね」


「商売はだいたいそうだ」


 ジーノは当然のように言った。


     ◇


 その夜。


 空き家群へ戻ると、碧は仮倉庫一号の入口に立った。


 中は暗い。


 でも、木札だけが小さく揺れている。


 種用。


 籾。


 食べる分。


 道具。


 空袋。


 記録。


 まだ中身は少ない。


 米も増えていない。


 試験区画も、低地に紐を張っただけだ。


 けれど、米を迎える場所だけが、少し先に形を持った。


 ルカが隣で、種用の札を見上げている。


「ここ、食べるための場所」


「そうだな」


「食べないやつもある」


「食べるために、食べないやつな」


「うん」


 リゼは紙を布に包み、大事そうに抱えた。


「明日は、棚の寸法を書きます」


「またやること増えたな」


「はい」


 リゼは少し笑った。


「でも、分ける場所があると、安心します」


 碧は倉庫の中をもう一度見た。


 昨日までの空き家。


 今日からの仮倉庫。


 その違いは、たぶん他の人には分からない。


 でも、碧にははっきり分かった。


 米はまだ一粒も増えていない。


 それでも、来年へ続くための場所ができ始めていた。


 夜風が通り抜ける。


 木札が、かたりと小さく鳴った。

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