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ごはん革命  作者: Sen
30/36

最初の支度

 翌日。


 オステリア・ジーノの裏手には、朝から小さな荷が並んでいた。


 杭。


 紐。


 木板。


 袋。


 小鎌。


 それから、グレーテが持ってきた、先に鉄の輪をつけた長い棒。


「これは?」


 碧が聞くと、グレーテは短く答えた。


「測る棒だ」


「測る?」


「十歩だの二十歩だの言っていると、人によって長さが変わる。棒なら変わらん」


「なるほど……」


 碧は素直に感心した。


 グレーテは鼻を鳴らす。


「感心するほどの道具じゃない。長さを決めた棒だ」


「でも、助かります」


「なら、なくすなよ」


「はい」


 グレーテはさらに、小さな木札を四枚出した。


 そこには、まだ何も書かれていない。


「区画を分けるなら、札を立てろ。あとでどれがどれか分からなくなる」


 リゼがすぐに頷いた。


「第一、第二、第三、第四と書きます」


「それと、やり方も書け」


「やり方?」


 碧が聞き返す。


 ジーノが横から言った。


「苗を作るやつと、種をそのまままくやつだろ」


「あ、はい」


 碧は少しだけ気まずく頷いた。


 米は知っている。


 田んぼも、見たことはある。


 けれど、どう作るのかは曖昧だった。


 たしか、苗を育ててから植える。


 けれど、種をそのまままいても育つのかもしれない。


 どちらが正しいのか分からない。


 だから、昨日の夜、ジーノに言われた。


「分からねぇなら両方やれ」


 あまりに簡単に言われたので、碧は一瞬黙ってしまった。


 でも、リゼが紙に書いた。


 苗を育ててから植える区画、二つ。


 種を直接まく区画、二つ。


 それぞれ十歩四方。


 四区画。


 小さいようで、かなり広い。


 碧はその数字を見ただけで、少し胃が重くなっていた。


     ◇


  今日の作業日と人数は、朝のうちにリゼが紙にまとめ、ジーノが役場へ出していた。


 作業者は七人。


 子供同行なし。


 土と川には触れない。


 それだけを書いた紙でも、出す前と出した後では、同じ低地へ行くのに少し重さが違った。


 出発前、ノーラが店の裏へやって来た。


 市場の子供たちのうち、今日来たのはノーラだけだった。


 小さな袋を抱え、当然のような顔をしている。


「行く」


「今日はだめ」


 碧が言うと、ノーラはすぐに眉を寄せた。


「なんで」


「役場で、調査のうちは子供は連れて行くなって言われた」


「役場ってだれ」


「面倒な大人たち」


 セレナが横から言った。


 ジーノが即座に続ける。


「今回は、その面倒な大人たちが正しい」


 ノーラは不満そうに頬を膨らませた。


「数えるのに」


「数える仕事はあります」


 リゼが優しく言った。


「今日は、店に残る袋と木皿の数を見ていてくれませんか。戻ってきたら、どれを使ったか合わせます」


「低地には行けないの?」


「まだ危ないんです。川も近いですし、土も柔らかいので」


 ノーラはしばらくリゼを見ていた。


 それから、しぶしぶ頷いた。


「じゃあ、ちゃんと数える」


「お願いします」


「そのかわり、あとで白いやつ」


「それは碧さんに」


 ノーラはすぐ碧を見た。


 碧は額を押さえた。


「働き次第な」


「言ったね」


「言ったけど、米がある時だぞ」


「わかった」


 ノーラは袋を抱えて、オステリアの裏手へ座り込んだ。


 行けないことにはまだ納得していない顔だったが、仕事は始めている。


 碧は少しだけほっとした。


     ◇


 低地へ向かう人数は、前より少なかった。


 碧。


 リゼ。


 ルカ。


 マルタ。


 ダリオ。


 ミーナ。


 グレーテも、杭や札の使い方を確認するために同行するという。


 ジーノは店に残った。


「俺が行ったら、誰が店を開ける」


「ですよね」


「店の名前は貸してる。現場で動くのはお前だ」


「責任重大ですね」


「今さら気づいたのか」


 ジーノはそう言って、碧の肩を軽く叩いた。


「土を盛るな。川を変えるな。子供を連れて行くな。作業日は記録する。役場に言われたことを忘れるな」


「はい」


「あと、無理なら戻れ」


 碧は少しだけ顔を上げた。


「いいんですか?」


「戻って考え直すのも仕事だ」


 ジーノは真顔だった。


「失敗してから戻るよりましだ」


 碧は頷いた。


「行ってきます」


「ああ」


     ◇


 低地に着くと、風が強かった。


 秋の空は高く、雲が薄く流れている。


 川の水は昨日より少し少ない。


 だが、岸辺の土はまだ柔らかく、踏むと靴の底に泥がついた。


 リゼは紙ではなく、木板を取り出した。


「紙は出さないのか?」


 ダリオが聞く。


「ここでは風で飛びますし、泥がついたら困ります。現場では木板に印をつけて、帰ってから紙に写します」


「なるほど」


 碧は感心した。


「紙があれば全部便利ってわけじゃないんだな」


「はい。紙は大事な記録に使います。ここでは、まず見える形で」


 リゼは木板に今日の日付と人数を書いた。


 第一回。


 白粒の支度。


 作業者。


 碧。


 リゼ。


 ルカ。


 マルタ。


 ダリオ。


 ミーナ。


 グレーテ。


 子供同行なし。


 土を盛らない。


 川を変えない。


 街道に荷を広げない。


 日没前に終える。


 その最後のあたりを見て、ダリオが苦笑した。


「役場の声が聞こえるみたいだな」


「忘れたら困りますから」


 リゼは真面目に答えた。


 碧も頷いた。


 役場に言われたことを、ちゃんと守っている。


 それだけで、今日の作業の重さが変わる気がした。


     ◇


 まず、前に刺した杭を確認した。


 一本は残っていた。


 もう一本は斜めになっていた。


 紐は風で緩んでいる。


「これ、田んぼって言うには頼りないですね」


 碧が呟くと、グレーテが即座に言った。


「その田んぼとやら以前の問題だ。まだ印だ」


「はい」


「印が頼りないなら、何を作るにしても崩れる」


「厳しい……」


「事実だ」


 グレーテは杭を抜き、もう少し深く刺し直した。


「深く刺すだけなら土を盛っていない。だが、あまり乱すな。役場の言葉を忘れるな」


「グレーテさんも役場みたいなこと言いますね」


「役場に怒られる道具は作りたくない」


 それは、とても現実的な理由だった。


     ◇


 四つの区画を決めるのは、思ったより難しかった。


 街道に近すぎると、人目につくし、荷の邪魔になる。


 川に近すぎると、土が沈む。


 奥へ行きすぎると、鳥の足跡が多い。


 風通しの良い場所は乾きやすそうだが、水が足りなくなるかもしれない。


 碧は測る棒を持って、低地を歩いた。


 十歩四方。


 言葉にすると簡単だ。


 けれど、実際に紐を張ると広い。


「これが一つ……」


 碧は思わず呟いた。


 杭を四隅に打ち、紐で囲っただけなのに、そこには小さな庭くらいの広さがあった。


「これを四つか」


 ダリオが腰に手を当てる。


「草刈りどころじゃないな」


「今日は土を動かしません」


 リゼがすぐ言った。


「区画を決めるだけです」


「分かってるけどさ」


 ダリオは笑った。


「決めただけで疲れる広さだな」


 マルタが腕を組む。


「人を呼ぶなら、この広さを見てからだね。口で言っても伝わらないよ」


「そうですね」


 碧は頷いた。


 十歩四方。


 四区画。


 数字では分かっていた。


 でも、目の前に紐で囲われると、急に大きくなる。


     ◇


 リゼは木板に区画の印をつけた。


 第一の区画。


 苗を育ててから植える。


 第二の区画。


 苗を育ててから植える。


 第三の区画。


 種を直接まく。


 第四の区画。


 種を直接まく。


 ミーナがそれを見て、少し首を傾げた。


「同じやり方を二つずつするんですか?」


「はい」


 リゼが答える。


「一つだけだと、うまくいった理由も、だめだった理由も分からないと思うので」


「なるほど」


「場所の違いもあるかもしれませんから」


 ミーナは少し感心したように頷いた。


「リゼさん、すごいですね」


「いえ、紙に書いていたら、そうした方がいい気がして」


「それがすごいんですよ」


 リゼは少しだけ耳を伏せた。


 その時、街道の方に警備係の外套が見えた。


 灰色の毛並み。


 ロルフだった。


 彼は低地の中までは降りてこなかった。


 街道側から、杭と紐、作業する者たち、そして子供がいないことを確かめるように眺めている。


 リゼが軽く頭を下げると、ロルフも短く頷いた。


 それだけだった。


 ロルフは何も言わず、街道沿いの巡回へ戻っていった。


 リゼの耳が、ほんの少しだけ揺れた。


     ◇


 ルカは、四つの区画を順に歩いていた。


 正確には、紐の外側を歩いている。


 足元の土を踏み、匂いを嗅ぎ、時々しゃがみ込む。


「ここ、重い」


「土が?」


「うん。水、残る」


 第一の区画だった。


 碧は木板を見た。


「苗を育ててから植える方にしてる場所だな」


「こっちは軽い」


 ルカが第二の区画を指す。


「乾きやすい?」


「たぶん」


「ルカまでたぶんって言うようになったな」


「分からないから」


「まあそうだよな」


 リゼが少し笑いながら書き足した。


 第一の区画。


 土が重い。


 水が残りやすいかもしれない。


 第二の区画。


 やや乾く。


 第三の区画。


 鳥の足跡が多い。


 第四の区画。


 街道から近め。荷置き不可。


 書いているだけで、問題が増えていく。


 碧は頭を押さえた。


「まだ何もできてないのに問題ばっかりだなあ」


 マルタが笑った。


「飯を出すってのは、鍋の前だけじゃ済まないんだよ」


「こんなに大変だとは思ってませんでした」


「今さらかい」


 その言葉に、碧は苦笑した。


     ◇


 昼を少し過ぎた頃、四つの区画の仮決めが終わった。


 杭は深く刺しすぎない。


 紐は風で緩まないように結ぶ。


 木札には番号と方法を書く。


 第一、苗。


 第二、苗。


 第三、直まき。


 第四、直まき。


 碧は木札を見つめた。


「直まきって、通じますかね」


「外の人には通じないでしょうね」


 リゼが答える。


「役場に出す紙には、種を直接まく、と書きます」


「その方がいいな」


 グレーテは木札の結び目を確認しながら言った。


「札の文字は短くていい。紙には詳しく書け」


「現場と帳面で分けるんですね」


「全部を現場に書いたら札だらけになる」


「確かに」


 グレーテは測る棒を碧に返した。


「これ以上は、許可を取ってからだな」


「はい」


「次に必要なのは、土をならす道具と、種を育てる箱か」


「苗代用ですね」


「なえしろ?」


 グレーテが眉を寄せた。


「あ、苗を育てる場所です。小さいところで芽を出して、あとで植える……はずです」


「はずか」


「はずです」


「曖昧な注文は嫌いだ」


「すみません」


 グレーテは少し考えた。


「浅い木箱なら作れる。水を持ちすぎると腐る。抜けすぎると乾く。底をどうするか考えろ」


「そこも問題か……」


「道具は考えるほど増える」


 グレーテは淡々と言った。


     ◇


 帰る前、リゼが低地を見渡した。


「荷を置く場所も決めないといけませんね」


「荷?」


「収穫できた時です。稲束をどこに置くか、どこでまとめるか」


 碧は四つの区画を見た。


 まだ何も植えていない。


 ただ紐で囲っただけだ。


 それなのに、収穫した後の場所を考える必要がある。


「気が早くないか?」


 ダリオが言うと、マルタが首を横に振った。


「遅いくらいだよ」


「まだ育つかも分からないのに?」


「育ってから置き場がないって騒ぐ方が馬鹿だね」


 その言葉は、ジーノが言いそうだった。


 碧は思わず笑った。


「ジーノさんと同じこと言いますね」


「やめとくれ」


 マルタは本気で嫌そうな顔をした。


 その様子に、ミーナが少し笑った。


     ◇


 作業を終え、オステリアへ戻る頃には、足は泥だらけだった。


 ノーラが裏手で待っていた。


「遅い」


「低地には連れて行けないって言っただろ」


「それは聞いた。袋、数えた」


 ノーラは木皿と袋を指差す。


「袋が七。木皿が十。戻ってきた袋は?」


「今日は使ってない」


「じゃあ七のまま」


「助かる」


「白いやつは?」


「まだない」


「いつもない」


「ごめん」


 ノーラは不満そうだったが、数の木片をリゼに渡した。


 リゼは受け取って、丁寧に言った。


「ありがとうございます」


「次は連れてって」


「安全になったら」


「いつ」


「苗を植える頃かもしれません」


「苗?」


 ノーラが首を傾げる。


 碧も少しだけ苦笑した。


「まだ先だよ」


     ◇


 夜。


 オステリアの卓に紙が広げられた。


 リゼは、木板の記録を紙に写していく。


 第一回 白粒の支度。


 作業場所。


 壁外カンポリア街道脇低地。


 作業者。


 碧。


 リゼ。


 ルカ。


 マルタ。


 ダリオ。


 ミーナ。


 グレーテ。


 警備係へ共有済み。


 巡回確認あり。


 子供同行なし。


 土・川には触れず。


 試験区画四つ。


 第一、苗を育ててから植える。


 第二、苗を育ててから植える。


 第三、種を直接まく。


 第四、種を直接まく。


 必要なもの。


 浅い木箱。


 土をならす道具。


 鳥よけ。


 荷置き場。


 倉庫。


 最後の文字を見て、碧は顔を上げた。


「倉庫?」


 リゼは頷いた。


「四つの区画がうまくいったら、今の空き家だけでは足りないかもしれません」


「まだ取れるかも分からないのに」


 ジーノが皿を拭きながら言った。


「取れてから考えるやつは、だいたい置き場がなくて腐らせる」


「マルタさんと同じこと言ってます」


「嫌なことを言うな」


 碧は思わず笑った。


 ジーノは気にせず続ける。


「まずは空き家の一つを、ちゃんと米用にしろ。食べる分、種にする分、籾のまま残す分、道具。全部同じ場所に積むな」


「はい」


「床に直置きしないことだね。湿気る。棚がいる。吊るす場所もいる。雨漏りも見る」


 グレーテが横から言った。


「梁も見ろ。腐った梁に吊るしたら、全部落ちる」


「やること増えた……」


 碧が呟くと、ルカが言った。


「でも食べる」


「そうだな」


 碧は紙を見た。


 田んぼはまだない。


 苗もない。


 土も動かしていない。


 けれど、紙の上には、四つの区画と、倉庫の文字があった。


 育てる場所。


 残す場所。


 置く場所。


 それらを同時に考えなければ、米は来年へ続かない。


     ◇


 その夜、空き家群に戻ると、碧たちは種用の穂を確認した。


 ルカはまだ、吊るされた穂をじっと見ている。


「今日、なくならなかった」


「うん」


 リゼは紙を大事に畳み、布に包んだ。


「明日は、空き家の中を見直しましょう」


「倉庫の準備か」


「はい。今ある場所で、どこまで分けられるか見たいです」


「分かった」


 碧は軒下から夜の空を見た。


 米は一粒も増えていない。


 水の畑も、まだ紐で囲っただけだ。


 倉庫も、まだ空き家でしかない。


 それでも、今日は確かに始まった。


 勝手な草刈りではなく。


 届け出のある作業として。


 オステリア・ジーノの仕事として。


 四つの小さな区画が、壁外の低地に刻まれた。


 そして、米をしまう場所のことまで、考え始めていた。


 碧は小さく息を吐いた。


「本当に、準備だけで大変だな」


 隣でルカが言う。


「でも、食べる」


「うん」


 碧は笑った。


「食べるためだからな」


 夜風に、吊るされた穂がかさりと鳴った。

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