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ごはん革命  作者: Sen
29/36

店の名前

 翌日。


 昼営業が終わると、碧は紙を布に包んだ。


 昨日、リゼが書いたものだ。


 上には、丁寧な字でこう書かれている。


 オステリア・ジーノ。


 白粒の支度。


 その下には、低地の場所、杭を打った場所、種用に残した穂、まだ分からないことが並んでいた。


 碧はそれを持つだけで、少し背筋が伸びる気がした。


「そんなに固く持つと、紙がしわになるぞ」


 ジーノが言った。


「あ、はい」


「紙一枚でそんな顔するな」


「でも、役場に持っていくんですよね」


「そうだ」


「緊張します」


「緊張するなら、変なことを言う前に息を吸え」


「それ、助言ですか?」


「かなり親切な助言だ」


 ジーノは真顔で言った。


 リゼは紙とは別に、木板の記録も抱えている。


 紙だけでは足りないと思ったらしい。


 ルカは空き家群に残ることになった。


「ルカも来るか?」


 碧が聞くと、ルカは種用の穂を見上げたまま首を横に振った。


「行かない」


「珍しいな」


「これ、見てる」


「見張り?」


「なくなったら嫌だから」


 ルカは当然のように言った。


「食べたい」


 碧は少し笑った。


「あとでな」


「うん」


 ルカは短く返事をして、種用の穂の下に座り込んだ。


 まるで宝物の番をするみたいに。


     ◇


 フェルメリア役場は、市場から少し先にあった。


 派手な建物ではない。


 けれど、人の出入りは多い。


 荷札を持った商人。


 何かを言い合っている露店主。


 通行札らしき木札を握るけん車引き。


 警備係の外套を着た人間。


 壁には、四つの札が掛けられていた。


 街道管理係。


 市場管理係。


 税務係。


 警備係。


 碧はそれを見上げた。


 フェルメリアは、人の出入りが激しい街だ。


 旅人も、商人も、けん車引きも、獣人の労働者も、毎日のように入っては出ていく。


 だからこの街で重く見られるのは、誰がどこから来たかよりも、どの店が責任を持つか、どの荷がどこを通るか、どこで商うか、そして揉め事を誰が収めるか、ということらしい。


 ジーノが受付に声をかけた。


「オステリア・ジーノだ。街道管理係に話がある」


 受付の男は、手元の板に何かを書きつけながら顔を上げた。


「ご用件は」


「街道脇の低地についてだ。新しい料理に使う材料の調査をしたい」


「低地の利用ですか」


「利用ってほどじゃねぇ。まだ調査だ」


 受付の男は、碧とリゼを一度見た。


「責任者は」


「オステリア・ジーノ、俺の店だ」


 ジーノが答える。


 受付の男は頷き、奥へ声をかけた。


「街道管理係へ、街道脇の土地の、調査の相談です」


     ◇


 しばらくして、一人の男が出てきた。


 細身で、髪をきっちり後ろに撫でつけている。


 年はジーノより少し若いくらいだろうか。


 服に派手さはないが、袖口はきれいに整えられていた。


「街道管理係のクラウスです」


 男はそう名乗った。


「オステリア・ジーノだ」


 ジーノが短く返す。


「酒樽の置き場所で揉めた店ですね」


「今は置けてる」


「置かせた覚えはありませんよ。見逃してるだけです」


「似たようなもんだ」


 碧は、やっぱり深く聞かない方がいいと思った。


     ◇


 小さな机に案内された。


 クラウスの前には、すでに何枚かの紙が置かれている。


 紙は役場でも使われ始めているらしい。


 ただ、どの紙も端まできっちり使われていて、まだ貴重品であることは分かった。


「それで」


 クラウスは碧を見た。


「低地の調査と聞きました」


 碧は一度息を吸った。


 ジーノの言葉を思い出す。


 変なことを、変なまま言うな。


 分かる言葉にして持っていけ。


「はい」


 碧は紙を机に置いた。


「オステリア・ジーノで使う、新しい料理の材料調査です」


 クラウスは表情を変えない。


「それで」


「街道脇の低地にある水鳥草から、白い粒が取れます。それを料理に使えるか試しています」


「白い粒」


「はい。今は、杭と紐で場所を記録しているだけです。土は盛っていません。川の流れも変えていません」


 クラウスの目が少しだけ細くなった。


「川の流れは変えていない」


「はい」


「土を動かしてもいない」


「はい」


 クラウスは、手元の札束を一枚めくった。


「ああ、そういえば警備係から似た報告が上がっていました。壁外の低地で草を集めている者がいる、と」


 碧は思わず姿勢を正した。


「すみません」


「謝る話かどうかは、まだ分からないですよ」


 クラウスは淡々と言った。


「現場を見た警備係の者は」


 碧が答えようとした時、リゼが一歩前に出た。


「ロルフさんです」


 声は小さかったが、はっきりしていた。


「警備係の狼人の方です。前の収穫の時と、低地の確認の時に見ています」


 クラウスは札を見た。


「ロルフ……警備係、警務部、獣人警務課のロルフか」


 リゼの耳が少しだけ動いた。


「はい」


「なら、その報告ですね」


 クラウスはリゼを見た。


「記録はあなたが?」


「はい」


「見せてもらっても?」


 リゼは紙を差し出した。


 その動きは少し緊張していた。


 でも、逃げるような動きではなかった。


     ◇


 クラウスは紙をじっと見た。


 オステリア・ジーノ。


 白粒の支度。


 低地の記録。


 種にする穂。


 水が残る場所。


 土が沈む場所。


 川に近い場所。


 分からないこと。


 そして、まだしていないこと。


 土を盛っていない。


 川の流れを変えていない。


 街道に荷を広げていない。


 クラウスはしばらく黙った。


 碧はその沈黙が少し怖かった。


 やがて、クラウスが言う。


「とても読みやすいですね」


 リゼの耳がぴくっと動いた。


「ありがとうございます」


「木板の写しもあるんですか」


「はい。最初の記録は木板です」


「見せていただいても?」


 リゼは木板も差し出した。


 クラウスは、紙と木板を見比べた。


「印だけでは分かりにくいですが、紙に移してあるなら扱えますね」


 リゼは小さく頷いた。


 その顔は、少しだけ誇らしそうだった。


 碧はそれを見て、胸の奥が温かくなった。


     ◇


「調査としてなら、届け出は受けられます」


 クラウスが言った。


 碧は思わず顔を上げた。


「いいんですか?」


「調査だけなら」


 すぐに釘を刺された。


「はい」


「水鳥草の調査ですよ。杭と紐で場所を記録する、採取する、紙に残す、それだけです」


「分かりました」


「土を盛ったり、川の流れを変えたり、低地の水の逃げ道を塞いだりしないでくださいね」


 クラウスの声は淡々としている。


 だが、一つ一つが重かった。


「雨が降れば、低地の水は街道へ上がることがあります。勝手に土を積めば、水が逃げず、街道がぬかるみ、それによってけん車が止まれば、街の荷も止まります」


 碧は黙って頷いた。


「街道に荷を広げるのもご遠慮ください」


「はい」


「人を集める作業日は、事前に届けること。人数も書くこと。日没前に終えること」


「分かりました」


「あと、子供は連れて行かないでくださいね」


 碧は少しだけ目を開いた。


 ノーラたちの顔が浮かんだ。


 けれど、すぐに納得した。


 川が近い。


 土も柔らかい。


 作業範囲もまだ決まっていない。


 危ないのは確かだった。


「分かりました。子供は連れて行きません」


「警備係にも作業予定を回してください。獣人が関わるなら、獣人警務課にも伝えます」


 リゼは小さく頷いた。


「はい」


「それから」


 クラウスはジーノを見た。


「けん車を定期的に使って運ぶなら、それは税務係の扱いになります」


 碧は少し首を傾げた。


 ジーノの目が細くなる。


「けん車は税務係か」


「運行と荷の記録は税務係です。街道そのものはこちらで見ますが、けん車便を扱うなら税務係に届けることになります」


「おう、覚えておく」


 ジーノは短く言った。


 その声に、碧は少しだけ引っかかった。


 今はまだ、ただ低地の調査の話だ。


 けれど、ジーノはもう少し先を見ている気がした。


     ◇


 クラウスは新しい紙を一枚取り出した。


 端の少し欠けた紙だった。


 それでも、役場の正式な紙なのだろう。


 細い筆のようなもので、淡々と文字を書いていく。


 オステリア・ジーノ。


 白粒材料調査。


 壁外東街道脇低地。


 水鳥草。


 調査のみ。


 土を盛らない。


 川の流れを変えない。


 作業日は事前届け。


 子供の同行禁止。


 警備係へ共有。


 碧は、その文字をじっと見た。


 自分が食べたかっただけの米。


 昨日まで、木板と紙の上で身内だけが見ていた白い粒。


 それが、今、役場の紙に書かれている。


 しかも、自分の名前ではなく。


 オステリア・ジーノの名前で。


「責任者は」


 クラウスが聞いた。


 碧が口を開きかける前に、ジーノが答えた。


「オステリア・ジーノだ」


「店としてでよろしいですか?」


「ああ」


 クラウスはジーノを見た。


「店の名前を使うなら、作業で揉めた場合も店の責任になりますけど」


「分かってる」


「ほんとですか?」


「俺は分かってる」


 ジーノは真顔だった。


 クラウスは少しだけ頷き、紙に記した。


 碧はその横顔を見た。


 ジーノは、ただ名前を貸してくれているのではない。


 責任を引き受けている。


 その重さが、今になってようやく腹に落ちた。


     ◇


 届出の控えとして、クラウスは薄い紙片を一枚渡した。


「こちらが控えです。作業に行く時はこれを持って行ってください。警備係に聞かれたら見せてください」


 リゼが受け取った。


「分かりました」


「記録は続けてくださいね」


 クラウスはリゼに言った。


「はい」


「次に来る時は、作業日、人数、場所を紙にして持ってきてください」


「はい」


 リゼはもう一度頷いた。


 その声は、来た時より少しだけ強くなっていた。


 クラウスは最後に碧を見る。


「街道を塞がず、川を変えず、責任者が明確なら、調査は止めることはありません」


「ありがとうございます」


     ◇


 役場を出ると、夕方の市場通りはまだ人が多かった。


 商人の声。


 荷車の音。


 香草の匂い。


 遠くから、けん車の車輪の音も聞こえる。


 碧は少し息を吐いた。


「なんか……すごいことになってきましたね」


 ジーノは隣を歩きながら言った。


「まだ何も始まってねぇ」


「え」


「勝手に土を盛るな、川を変えるな、子供を連れて行くな。そう紙で言われただけだ」


「そう言われると、何も進んでない気がします」


「進んではいる」


 ジーノは前を見たまま言った。


「門前払いはされなかった」


 碧は少し黙った。


 確かにそうだった。


 田んぼはまだない。


 土も動かせない。


 川にも触れない。


 でも、調査は止められなかった。


 オステリア・ジーノの名前で、低地のことを役場に話せた。


 それは、小さいけれど確かな一歩だった。


「次は、作業日と人数ですね」


 リゼが紙片を大事そうに抱えながら言った。


「あと、警備係への連絡も」


「ロルフさんにも伝わるかな」


 碧が言う。


 リゼは少しだけ耳を揺らした。


「伝わると思います。獣人警務課にも回ると言っていましたから」


 ジーノがちらりとリゼを見る。


「詳しくなったな」


「紙に書いてありました」


「なら忘れねぇな」


「はい」


 リゼは小さく頷いた。


     ◇


 オステリアへ戻ると、セレナがまだいた。


「どうだった?」


「調査は届け出として受けてもらえました」


 碧が答える。


「じゃあ田んぼ作れるの?」


「まだ無理です」


「えー」


「土を盛るな、川を変えるな、子供を連れて行くな、作業する前に届け出ろって言われました」


「めんどくさ」


「店の名前を使うってのは、そういうことだ」

 

 ジーノが即座に言った。

 

 セレナは少しだけ黙った。


 それから、控えの紙片を見て言う。


「でも、紙に残ったんだ」


「はい」


「じゃあ、ちょっと本物っぽいね」


 碧は紙片を見た。


 オステリア・ジーノ。


 白粒材料調査。


 その文字は、まだ小さい。


 けれど、確かに役場の紙に残っている。


     ◇


 その夜。


 リゼは新しい紙に、今日のことを書き足した。


 街道管理係。


 クラウス。


 調査届。


 土を盛らない。


 川を変えない。


 子供は連れて行かない。


 作業日と人数を届ける。


 警備係へ共有。


 けん車の定期運行は税務係。


 碧はそれを横から見ていた。


「本当に仕事になってきたな」


 ぽつりと呟く。


 ジーノは皿を拭きながら言った。


「昨日からそう言ってるだろ」


「はい」


「覚えが悪いな」


「すみません」


 リゼが少しだけ笑った。


 その日、米は一粒も増えなかった。


 田んぼも、まだできていない。


 土も動いていない。


 川の水も、そのままだった。


 けれど、オステリア・ジーノの名前は、役場の紙に残った。


 米を来年へつなげるための、最初の外向きの一歩だった。

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