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ごはん革命  作者: Sen
28/36

オステリア・ジーノの仕事

 翌日。


 昼営業のオステリア・ジーノは、いつも通り忙しかった。


 豆のスープ。


 玉ねぎのズッパ。


 香草チーズ。


 固いパンを浸して食べる客。


 エールを飲みながら大声で話す常連。


 厨房では、碧が皿を運び、鍋を見て、パンを切っていた。


 いつもと同じ仕事。


 同じはずだった。


「碧」


「はい」


「それは塩じゃねぇ」


 ジーノの声が飛んだ。


 碧は手元を見る。


 つまんでいたのは、塩ではなく、乾いた香草だった。


「……すみません」


「二度目だぞ」


「はい」


「低地でも見えてんのか」


 碧は言葉に詰まった。


 ジーノは鍋を混ぜながら、こちらを見もしない。


「図星か」


「……すみません」


 碧は小さく答えた。


 昨日、低地に打った小さな杭。


 リゼが木板に残した印。


 ルカが大事そうに抱えていた種用の穂。


 ロルフに言われた、勝手に掘るなという言葉。


 それが、ずっと頭の中にあった。


 米を食べるために。


 米を来年も出すために。


 何から始めればいいのか。


 考えれば考えるほど、鍋の前に立っていても、心だけが低地へ行ってしまう。


「店にいても、頭は水の畑だな」


 ジーノが言った。


「そんなにぼーっとしてますかね」


「してる」


「どんな顔ですか」


「飯屋の顔じゃねぇ」


 真顔だった。


 冗談なのか本気なのか、分からない。


 たぶん、どちらでもある。


     ◇


 昼営業が終わると、店の中は少し静かになった。


 客の去った卓。


 空になった皿。


 底に少しだけ残ったスープ。


 セレナはカウンターの端で、まだエールを飲んでいた。


「今日も白い粒ないのー?」


「ない」


 ジーノが即答する。


「聞く前から冷たい」


「昨日から聞かれると思ってた」


「じゃあ用意してよ」


「用意できたら苦労しねぇ」


 セレナは頬を膨らませたが、反論はしなかった。


 ジーノは手を拭き、碧を見た。


「碧」


「はい」


「お前、その米とやらの準備に専念してみたらどうだ」


 碧は一瞬、意味が分からなかった。


「え?」


「聞こえなかったか」


「聞こえました。でも……店は?」


「勘違いするな。休ませるんじゃねぇ」


 ジーノは当然のように言った。


「働く場所を変えるだけだ」


「働く場所……」


「忙しい時は店に入れ。だが、それ以外は低地でも空き家でも役場でも行ってこい」


 碧は思わず黙った。


 リゼも、木板を抱えたまま目を少し開いている。


 ルカは棚の上で耳を立てた。


「白い粒の煮込みは売れる」


 ジーノが言った。


 その声は、いつもより少し低かった。


「だが、今のままじゃ売れねぇ。量が足りねぇ。粒も安定しねぇ。来年も出せるか分からねぇ」


「……はい」


「店で出すなら、来年も出せるようにしろ」


 碧は息を呑んだ。


 それは、ただの応援ではなかった。


 期待でもあり、命令でもあり、商売の判断だった。


 米はもう、碧が懐かしむだけのものではない。


 オステリア・ジーノで出す料理になりかけている。


「でも、俺にできますかね」


「知らん」


「そこは励ましてくださいよ」


「できるかどうかは知らん。だが、やらなきゃできねぇ」


 ジーノは真顔で言った。


「あと、味見係よりは役に立つだろ」


「さっきの話、引っ張りますね」


「大事だからな」


     ◇


 ジーノは店の奥へ行き、棚の下から薄い包みを取り出した。


 布をほどく。


 中から出てきたのは、紙だった。


 少し黄みがかっていて、厚みも不揃いだ。


 けれど、木板ではない。


 ちゃんとした紙だった。


 碧は思わず声を漏らした。


「紙、あるんですか」


「ある」


「高いんじゃ」


「前はな。最近は少し安くなった」


 ジーノは紙を数枚、卓の上に置いた。


「シュトロームラントの紙だ。向こうで水車を使って、まとめて作る工房が増えたらしい」


「水車で紙を?」


「詳しくは知らん。布くずや草の繊維を叩いて、薄くするんだとよ」


 ジーノは紙を指で叩いた。


「役場や商人どもが使い始めてる。うちでも帳面くらいには使える」


 リゼは、紙を前にして少し固まっていた。


「使っていいんですか?」


「使うために出した」


「でも……」


「無駄にするなよ。間違えたら裏も使え」


「はい」


 リゼは両手で紙を受け取った。


 木板を持つ時とは違う、少し緊張した手つきだった。


 ジーノは碧を見る。


「店の名前を使うなら、店の帳面をつけろ」


「店の名前?」


「役場に話すなら、碧が水の畑を作りたい、じゃ通らねぇ」


 ジーノは当然のように言った。


「オステリア・ジーノが、新しい料理に使う材料を調べている。そう言え」


 碧は目を見開いた。


「名前、使っていいんですか」


「勝手に使ったら殴る」


「今は?」


「俺が使えと言ってる」


 ジーノは真顔だった。


「ただし、店の看板で馬鹿はするな。誰が来たか、何をしたか、何を持ち帰ったか、全部残せ。あとで聞かれて答えられねぇ仕事はするな」


 リゼは紙を見つめたまま、小さく頷いた。


「記録します」


 その声は、静かだった。


 でも、はっきりしていた。


     ◇


 しばらくして、マルタがやって来た。


 ジーノが呼んだらしい。


「あたしを便利に使うんじゃないよ」


 マルタは開口一番、そう言った。


 ジーノは水を飲みながら返す。


「便利だから呼んだ」


「開き直るんじゃないよ」


「人を動かす話なら、お前の方が早い」


 マルタは鼻を鳴らした。


「それは否定しないけどね」


 少し遅れて、グレーテも顔を出した。


 改良した籾摺り道具の様子を見に来たらしい。


 店に入るなり、卓の上の紙に目を止める。


「紙か」


「シュトロームラントのだ」


「最近よく見るな」


「道具屋にも来るんですか?」


 碧が聞くと、グレーテは頷いた。


「注文の寸法を書くやつが増えた。口で言われるよりはましだ」


「便利なんですね」


「便利だが、紙に書けば正しくなるわけじゃない」


「厳しい」


「間違った寸法を紙に書けば、間違った道具ができるだけだ」


 それは、とてもグレーテらしい言葉だった。


     ◇


 卓の上に、紙が一枚広げられた。


 リゼが、先を細く削った木炭を持った。


 最初の一行を書く前に、少しだけ迷う。


「何と書けばいいでしょうか」


 碧が考えるより早く、ジーノが答えた。


「オステリア・ジーノ」


 リゼはその名を書いた。


 丁寧な字だった。


 その下に、少し間を空けて書く。


「白粒の支度」


 セレナが覗き込む。


「白粒の支度? そのまんまだね」


「名前で腹は膨れねぇ」


 ジーノが言う。


「でも、ちょっと地味じゃない?」


「地味でいい。派手な名前をつけるほど中身がない」


 グレーテが横から言った。


 セレナは不満そうにしたが、マルタが笑った。


「最初はそんなもんだよ。鍋も、最初はただの鍋さ」


 リゼは紙に新しい欄を作った。


 食べる分。


 売る分。


 残す分。


 種にする分。


 低地の記録。


 役場へ聞くこと。


 作業に来た人。


 道具。


 紙の上に、これまで木板に散らばっていた印が、少しずつ言葉になっていく。


 碧はそれを見て、不思議な気持ちになった。


 木板に炭でつけた印は、どこかその場しのぎだった。


 でも紙に書かれると、急に仕事の形を持つ。


 米が、逃げ場のないものになっていく。


     ◇


「で、まず何を決めるんだい」


 マルタが言った。


 碧が口を開きかけると、ジーノが先に言う。


「毎回その場で考えるな。決める日を作れ」


「決める日?」


「白粒の支度をする日だ。集まるやつを決めて、やることを決める」


 マルタが頷く。


「それがいいね。人を呼ぶなら、飯の数も先に決める。刃物を持たせる人間も分ける。子供を呼ぶなら、場所を分ける」


「子供も?」


 碧が聞く。


「呼ぶならね。呼ばないなら呼ばないって決める。曖昧にすると勝手に来るよ」


 セレナが目を逸らした。


 マルタはすかさず言う。


「特に、誰かさんが言いふらすとね」


「うち?」


「他に誰がいる」


「ひどい」


 ジーノはセレナを見る。


「人を呼ぶなら、毎回お前に叫ばせるわけにはいかねぇ」


「叫んでないし」


「似たようなもんだ」


「うちは火をつけるのが得意なだけ」


「消すのが下手くそなんだよ」


 マルタが即座に言った。


 セレナは黙った。


 珍しく、反論が遅れた。


     ◇


 役割も決めることになった。


 碧は米担当。


 低地を見る。


 田んぼにできるか考える。


 米を煮込みに使える形までつなげる。


 リゼは記録。


 紙の帳面をつける。


 種用の穂、籾、白い粒、売った皿数、作業に来た人。


 すべてを残す。


 ルカは選別。


 良い穂。


 軽い穂。


 乾いた束。


 音と匂いで分ける。


 本人は少し不満そうだった。


「食べる係は?」


「ない」


 ジーノが即答した。


「でも大事」


「大事だが、係じゃねぇ」


「でも食べる」


「働いたらな」


 ルカはしぶしぶ頷いた。


 グレーテは道具。


 籾摺り道具。


 干し具。


 杭。


 紐を掛ける金具。


 棚。


「道具は急に増えん」


 グレーテは言った。


「欲しいなら早めに言え。あと、寸法を書け」


 リゼはすぐに紙へ「寸法」と書き足した。


 マルタは人の段取り。


 作業日。


 飯。


 人の配置。


 終わりの時間。


「人を集めるなら、終わらせ方も決めるんだよ」


 マルタは言った。


「始めるだけなら誰でもできる。終わらせられない仕事は、だいたい揉める」


 ジーノは短く頷いた。


「その通りだ」


「珍しく素直だね」


「事実だからな」


     ◇


 次に、役場へ話す内容を考えた。


 碧は「田んぼ」と言いかけたが、ジーノに止められた。


「その言葉は通じねぇ」


「ですよね」


「米ってのも、たぶん通じねぇ」


「はい」


「外では白粒と水鳥草だな」


 ジーノは指を一本立てた。


「オステリア・ジーノが、新しい料理に使う白粒の材料調査をしたい。街道脇の低地にある水鳥草を、食材として扱えるか試している。今は杭と紐で場所を記録するだけで、川の流れを変えたり、土を盛って水をせき止めたりはしない。作業を進める前に、街道管理役へ相談したい」


 碧は少し驚いてジーノを見た。


「すごいですね」


「店は言い方で潰れることもある」


 ジーノは淡々と言った。


「変なことを変なまま言うな。変なことを、分かる言葉にして持っていけ」


 マルタも頷く。


「役場の人間は、分からないものを嫌うからね」


「でも、嘘はだめですよね」


 リゼが言った。


「もちろんだよ」


 マルタはリゼを見る。


「嘘をつくんじゃない。分かる順番で言うんだ」


 リゼは少し考えてから、紙へ書いた。


 水鳥草。


 白粒。


 材料調査。


 低地。


 土を動かす前に相談。


 その文字を見て、碧は少しだけ息を吐いた。


 田んぼという言葉は、紙にはまだ書かれなかった。


 でも、その奥にあるものは、確かに同じだった。


     ◇


「ロルフさんにも知らせた方がいいですよね」


 碧が言うと、リゼの耳が少し動いた。


 ジーノはそれに気づいたのか、気づいていないのか、一言尋ねた。


「ロルフ?」


「あぁ、警備隊の狼人の人で、稲を取りに行った時からお世話になってるんです」


「そうなのか、まあ警備隊には話を通した方がいいな。そのロルフってやつなら、少なくとも何をしているか分かってるだろ」


「街道の管理役は?」


「名前は知ってる」


「会ったことあるんですか?」


「何度か。店を始めた時に、酒樽と荷車の置き場所で揉めた」


「揉めたんですか」


「勝った」


「そこ、言い切るんですね」


「今、酒樽は置けてる」


 ジーノは真顔だった。


 碧は、たぶん深く聞かない方がいいと思った。


「紹介はする。だが、話すのはお前だ」


「俺が?」


「水の畑だか田んぼだかを説明できるのは、お前しかいねぇ」


「ちゃんと説明できる自信はないです」


「だからリゼが記録を持つ」


 ジーノはリゼを見る。


「紙を持っていけ。何をしたいか、何をしてないか、何を聞きたいか。それを見せろ」


「はい」


 リゼは紙を大事そうに押さえた。


     ◇


 話し合いが終わる頃には、紙の上にびっしりと文字が並んでいた。


 木板の印だけではなかった。


 言葉。


 役割。


 日付。


 場所。


 聞くこと。


 残すもの。


 まだ分からないこと。


 リゼはそれを見つめていた。


「すごいですね」


 碧が言う。


「何がですか?」


「木板の印だったものが、仕事みたいになってる」


「仕事、なのではないですか」


 リゼは静かに言った。


 碧は言葉に詰まった。


 そうだ。


 もう、仕事なのだ。


 ジーノが時間を与えた。


 店の名前を使っていいと言った。


 紙の帳面を出した。


 マルタが人の段取りを考えた。


 グレーテが道具を考えた。


 セレナは人を呼ぶ役目を持った。


 ただし、少しだけ制限つきで。


 ルカは、食べるために食べない穂を選ぶ。


 米は、碧だけの願いではなくなっている。


     ◇


 夕方。


 空き家群へ戻ると、リゼは種用の穂を別の場所へ吊るした。


 食べる分とは別。


 籾にする分とも別。


 来年のための穂。


 ルカはその下に座り、じっと見上げている。


「見張ってるのか?」


 碧が聞く。


「なくさない」


「頼もしいな」


「食べるためだから」


「うん」


 リゼは紙に書いた内容を、木板の記録と照らし合わせていた。


 紙はまだ一枚だけだ。


 でも、その一枚には、これからやることが詰まっている。


 碧は軒下の琥珀色を見上げた。


 まだ田んぼはない。


 ちゃんとした倉庫もない。


 十分な米もない。


 役場に話も通していない。


 水をどう扱えばいいのかも分からない。


 それでも。


 その日から、碧には米のための時間が与えられた。


 食べるために食べない穂を守る。


 来年も出すために、今年のうちに動く。


 それはもう、碧だけの懐かしさではなかった。


 オステリア・ジーノの仕事だった。

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