水の畑
翌日。
昼営業を終えたオステリア・ジーノの厨房では、空になった鍋が静かに竈の上に置かれていた。
碧は、その前で腕を組んでいた。
昨夜、自分で口にした言葉が、頭の中に残っている。
田んぼ。
米を育てる場所。
水の畑。
言った。
言ってしまった。
けれど。
「で」
ジーノが、棚から豆の袋を下ろしながら言った。
「その水の畑ってのは、何をどうする場所なんだ」
「……水を張って、稲を育てる場所です」
「そこまでは昨日聞いた」
「はい」
「どう作る」
「……」
碧は黙った。
ジーノがこちらを見る。
碧は少しだけ視線を逸らした。
「ちゃんとは、分かりません」
「分からねぇのか」
「米は食べてました。でも、田んぼを作ったことはないです」
「食ってたやつが、作れるとは限らねぇか」
ジーノは真顔で頷いた。
「じゃあ、お前は味見係だな」
「それだけだと何も進まないです」
「分かってるなら見てこい」
ジーノは豆袋を台に置いた。
「掘るのはそのあとだ。分からねぇ場所をいきなり掘るやつは、飯屋より穴掘りの才能がある」
「褒めてないですよね」
「褒めてねぇ」
即答だった。
リゼが木板を抱えて、そっと言う。
「では、今日は低地の様子を見に行きましょうか」
「うん。どこに水が残ってるか、どこに稲が多かったか、ちゃんと見ておきたい」
棚の上で丸くなっていたルカが、顔だけを上げた。
「行く」
「今日は食べるためじゃないぞ」
「残すやつ、見る」
「残すやつ?」
碧が聞き返すと、ルカは当然みたいに言った。
「食べたら、なくなる」
その言葉に、碧は少しだけ黙った。
食べたら、なくなる。
当たり前のことだった。
けれど、米を増やそうとするなら、その当たり前を越えなければならない。
食べるために、食べない粒を残す。
「……種にする穂か」
「たぶん」
「お前、そういうところ鋭いな」
「食べたいから」
ルカはそう言って、棚からひらりと降りた。
◇
碧たちは空き家群に寄ってから街道へ向かった。
リゼは木板と炭を持っている。
碧は小さな杭と紐。
ルカは小袋を二つ。
一つは、残す穂を入れるため。
もう一つは、ルカが「念のため」と言って持った袋だった。
「念のためって何だよ」
「いいのがあったら入れる」
「食べる用?」
「残す用」
「本当に今日は真面目だな」
「いつも真面目」
「そうだったか?」
ルカは碧の足を軽く蹴った。
痛くはない。
でも、抗議の意思はよく伝わった。
◇
フェルメリアの東側の街道へ出ると、背後から車輪の音が聞こえた。
碧たちが振り向くと、街の方から一台のけん車がゆっくり進んでくる。
革紐を肩に掛けて引いているのは、カーロだった。
荷台には、空き箱や布袋、金具の入った小箱が積まれている。
その横を、ブルーノが歩いていた。
「碧さん」
ブルーノが気づいて、丁寧に頭を下げる。
「ブルーノさん。カーロも。もう出るんですか?」
「はい。これからカンポリアへ向かいます」
カーロが少し誇らしげに胸を張った。
「帰りは荷が多くなります。カンポリアの作物を積む予定です」
「作物?」
「玉ねぎや豆です。フェルメリアへ持ってくるものです」
碧は、カンポリア産の玉ねぎを思い出した。
ズッパ。
甘く煮えた玉ねぎ。
米入りの煮込みにも合う味。
「どれくらいで戻るんですか?」
「天気が良ければ一週間くらいです」
ブルーノが答える。
「雨が続けば、もう少しかかります。道がぬかるみますので」
カーロが荷台をちらりと見る。
「車輪が沈むと、荷が傾いたり動かなくなったりするんです」
「雨だと大変なんですね」
「はい。荷が濡れますし、休める場所も限られます」
その言葉に、碧は昨日のことを思い出した。
街道で、温かいものを、荷を見ながら食べられる場所は少ない。
ブルーノが言った言葉。
碧はけん車を見る。
荷台。
車輪。
それを引くカーロの脚。
そして、その先へ続く街道。
けれど、今はまだ、そこまで考えを広げる余裕はなかった。
今日は、低地を見る日だ。
「気をつけてください」
「ありがとうございます」
ブルーノが頷く。
カーロも少しだけ耳を動かした。
「戻ったら、またオステリアに伺います」
「ありがとうございます」
けん車は、ゆっくりと東へ進んでいった。
碧はしばらくそれを見送った。
カンポリアへ向かう道。
作物が戻ってくる道。
米を見つけた低地も、その道のそばにある。
街道と米は、もう少しずつつながり始めていた。
◇
低地に着くと、秋の風が少し冷たかった。
数日前よりも、穂は減っている。
自分たちで刈ったからだ。
それでも、まだ残っている稲がある。
琥珀色の穂。
鳥に食べられた穂。
水辺に倒れた茎。
固くなった地面。
ところどころに残る水たまり。
碧は、低地を見渡した。
「ここを田んぼにする……」
口に出してみる。
でも、すぐに分かった。
どこでもいいわけではない。
稲が生えている場所と、育てやすい場所は、たぶん違う。
「まず、稲が多かった場所を見ましょう」
リゼが木板を持って言った。
「あと、水が残っている場所と、乾いている場所も分けて書きます」
「頼む」
碧は頷いた。
リゼは炭で木板に小さな線を引いた。
低地の形を、簡単に写すように。
街道。
川。
水たまり。
稲が多い場所。
そこへ印をつけていく。
ルカはもう先に歩いていた。
穂に触れ、匂いを嗅ぎ、時々首を傾げる。
「これは食べる」
「これは?」
「軽い。だめ」
「こっちは?」
ルカはしばらく穂を見てから、小袋を開いた。
「残す」
碧は近づいた。
「残すって、種にするやつ?」
「たぶん」
「なんでこれ?」
「重い。匂いもいい」
ルカは穂を軽く振った。
中にしっかり粒が入っているのか、音が少し鈍い。
「食べたら、なくなる」
碧はその穂を見つめた。
食べたい。
ルカなら、なおさらそう思うはずだ。
それでも、ルカはそれを食べる袋ではなく、残す袋へ入れた。
「……そうだな」
碧は小さく頷いた。
「食べるために、食べない粒がいるんだ」
リゼがその言葉を聞いて、木板に新しい印をつける。
「では、種にする穂として記録します」
「食べる分、残す分、育てる分」
碧が呟く。
「分けないといけませんね」
リゼが静かに続けた。
その声は、もう迷っていなかった。
◇
三人は、低地を歩いた。
街道に近い場所は、地面が少し硬い。
けん車が近づきやすそうだが、人目にもつきやすい。
川に近い場所は、水が多い。
稲はよく生えているが、足を取られやすい。
奥の方は風が通る。
だが、鳥の足跡が多かった。
「ここ、鳥が来る」
ルカが言う。
「鳥、多そうだな」
「粒、食べる」
「だよな」
碧は眉を寄せた。
水があるだけではだめだ。
稲が生えているだけでもだめだ。
鳥に食われる。
水が多すぎる。
乾きすぎる。
運べない。
街道に近すぎる。
考えなければならないことが多すぎた。
「田んぼって、ただ水を張ればいいわけじゃないんだな……」
「そうなのですか?」
「たぶん」
「たぶん」
リゼが少し笑った。
「碧さん、最近たぶんが多いです」
「俺も思ってる」
碧は苦笑する。
「でも、分からないことを分からないまま進めたら、もっと失敗する気がする」
「はい」
リゼは木板を見る。
「なら、今日は分からないことも書いておきましょう」
「分からないことも?」
「はい。分からないまま掘ったり、水を動かしたりしないために」
碧は少しだけ黙った。
分からないことを、誰かに聞ければいい。
そう簡単に言えれば楽だった。
けれど、この世界で米を知っている人とはまだ出会えていない。
稲は、水鳥の草だった。
白い粒になることも。
炊けば甘い匂いがすることも。
鍋に入れれば腹に残ることも。
それを知っているのは、今のところ碧たちだけだ。
だから今は、見たことを残すしかない。
水が残る場所。
土が沈む場所。
穂が重い場所。
鳥に食われた場所。
何が良くて、何が悪いのかはまだ分からない。
それでも、分からないものを分からないまま残しておくことはできる。
「……そうだな」
碧は頷いた。
「分からないことも、ちゃんと書いておこう」
リゼは木板に、新しい印を足した。
◇
川に近い場所で、ルカが立ち止まった。
足元には、稲がまとまって残っている。
他の場所より少し背が高い。
穂も重そうだった。
「ここ、いい」
「稲が?」
「うん。でも、足、沈む」
ルカが一歩踏むと、土が柔らかく沈んだ。
「水が多いのか」
碧はしゃがんで土を見る。
田んぼには水が必要だ。
でも、どれくらい必要なのか分からない。
水が多すぎたら根が腐るのか。
少なすぎたら育たないのか。
そもそも、この世界の稲がどんな水を好むのか。
「分からないことだらけだな」
碧が呟くと、ルカが言った。
「でも、ここ、生えてる」
「それは確かだな」
「だから、ここ少し残す」
ルカは良さそうな穂を二本、小袋に入れた。
リゼが木板に印をつける。
「川近く。稲多い。土柔らかい。種用の穂、二本」
「すごい記録だな」
「あとで見ても分かるようにしないと」
「助かる」
碧は本当にそう思った。
碧の頭の中だけなら、きっとすぐ混ざる。
でも、リゼが書けば残る。
ルカが選べば、良い穂が残る。
三人でなら、少しずつ分からないものに近づける気がした。
◇
碧が小さな杭を打とうとした時だった。
「何をしている」
低い声がした。
振り向くと、ロルフが立っていた。
フェルメリア警備隊の短い外套。
灰色の毛並み。
腰には剣。
前と同じように、手は柄に掛かっていない。
「ロルフさん」
リゼが少しだけ背筋を伸ばす。
ロルフは低地を見回した。
刈り残した稲。
木板を持つリゼ。
小袋を抱えたルカ。
杭を持った碧。
「今度は何をしている」
「田んぼ……水の畑にできそうな場所を見ています」
碧が答える。
ロルフは眉を少し動かした。
「水の畑」
「米を育てる場所です。まだ、できるかどうかも分かりません」
「掘るのか」
「今日は掘りません。印をつけるだけです」
ロルフは、碧の持っている杭を見た。
「杭で印をつける程度なら、今は止めない」
「ありがとうございます」
「だが、勝手に土を掘るな。土手を作ったり、川の流れを変えるのもだめだ」
ロルフの声は硬かった。
「街道脇の低地でも、誰のものでもないとは限らない。水の流れを変えれば、下流で困る者が出ることもある」
碧は息を飲んだ。
そこまで考えていなかった。
水を張る。
田んぼにする。
それは、碧の中では米のための作業だった。
でも、この世界では水は道にも、畑にも、街にもつながっている。
「すみません。そこまで考えてませんでした」
「考える前に掘らなかったなら、まだいい」
ロルフは少しだけ視線をリゼへ向けた。
「記録はしているのか」
「はい」
リゼは木板を差し出した。
「稲が多い場所、水が残る場所、種にする穂を取った場所を印にしています。分からないことも、残しています」
ロルフは木板を見る。
しばらく黙る。
「……もう記録しているのか」
「言われたので」
リゼは静かに答えた。
ロルフは一瞬だけリゼを見る。
「なら、続けろ」
「はい」
「記録があれば、説明できる。説明できれば、疑われにくい」
リゼの耳が少しだけ揺れた。
「分かりました」
ロルフは碧を見る。
「土を動かす前に、街道の管理役へ話を通せ。警備隊にも知らせろ」
「はい」
「それから、日が落ちる前に戻れ。このあたりは夜に鳥だけが来るとは限らん」
「鳥以外も来るんですか」
「人も来る」
短い言葉だった。
でも、それだけで十分だった。
◇
ロルフが少し離れたあと、碧は杭を見下ろした。
打っていい。
でも、掘ってはいけない。
水路を変えてはいけない。
土手を作ってはいけない。
田んぼは、ただ自分たちの米のためだけには作れない。
「難しいな」
「はい」
リゼが頷く。
「でも、先に知れてよかったです」
「そうだな」
碧は杭を一本、そっと地面に刺した。
深くは打たない。
ただ、印として。
そこから紐を張り、小さな四角を作る。
田んぼというには、あまりに小さい。
畑というにも、まだ何もない。
ただの低地の一角。
それでも、リゼは木板に印をつけた。
「試しの場所」
小さく書く。
ルカは、その横で種用の穂を小袋に入れていた。
「これは残す」
「うん」
「食べない」
「うん」
「でも、あとでいっぱい食べる」
「うまくいけばな」
「うまくいく」
ルカは迷いなく言った。
碧は少しだけ笑った。
「そうだといいな」
◇
夕方が近づいていた。
低地の風が、残った穂を揺らしている。
街道の向こうには、もうブルーノたちのけん車は見えない。
けれど、車輪の跡はまだ土の上に残っていた。
カンポリアへ向かった道。
作物が戻ってくる道。
そして、いつか米や人や温かい料理が行き交うかもしれない道。
碧は、低地に刺した小さな杭を見た。
そこはまだ田んぼではない。
水辺の草が残り、鳥の足跡があり、ところどころ土がぬかるむだけの場所だった。
けれど、リゼの木板には印がついた。
試しの場所。
種にする穂。
水が残る場所。
勝手に掘ってはいけない場所。
分からないこと。
碧は、ルカが抱えた小袋を見る。
そこには、食べるために食べないと決めた穂が入っている。
米は、明日だけではなく、来年にも続いていくのかもしれない。
そう思った瞬間、碧の胸の奥に、少しだけ温かいものが残った。
「帰ろう」
碧が言う。
「はい」
リゼが木板を抱える。
ルカは小袋を大事そうに持った。
「これ、なくさない」
「頼もしいな」
「食べるためだから」
「そうだな」
三人は、夕暮れの低地を後にした。
背後で、琥珀色の穂がかさりと鳴った。




