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ごはん革命  作者: Sen
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裏メニュー

 翌日。


 昼営業が始まる前のオステリアで、リゼは木板を見つめていた。


 炭でつけられた印が、細かく並んでいる。


 吊るした束。


 処理した束。


 籾のまま残した分。


 白い粒にした分。


 碧はその横から覗き込む。


「どれくらい使えそう?」


 リゼは少し考えてから答えた。


「今日、料理に使える白い粒は……三皿分くらいだと思います」


「三皿」


「はい。少しずつなら、です」


 碧は黙った。


 昨日は、ずいぶん増えた気がしていた。


 けれど、料理として出せる量にすると、たった三皿。


 米はまだ、それくらいしかない。


 ジーノは鍋を火にかけながら言った。


「十分だろ」


「十分ですか?」


「品書きに載せるなら足りねぇ。だが、試すだけなら多いくらいだ」


 碧は顔を上げる。


「本当に出すんですか?」


「値段は考えるって言っただろ」


「でも、まだ量が」


「だから表には出さねぇ」


 ジーノは当然のように言った。


「品書きには書かない。ある時だけ、分かってるやつにだけ出す」


「裏メニューみたいな……」


「何だそれ」


「あ、品書きにない料理ってことです」


「なら最初からそう言え」


 ジーノは木匙で鍋を混ぜた。


「今日は三皿。なくなったら終わり。それ以上は出さねぇ」


 ルカが棚の上から言った。


「少ない」


「少ないから三皿なんだよ」


「もっと出す」


「出したら明日がない」


 ジーノが短く言うと、ルカは不満そうに尾を揺らした。


     ◇


 値段を決める話は、思ったより難しかった。


 碧は、あまり高くしたくなかった。


 もともとは、自分が食べたかっただけの米だ。


 それを珍しいからと高く売るのは、少し違う気がした。


 けれど、ジーノは首を横に振った。


「安くするな」


「でも、まだ試しみたいなものですよ」


「試しでも、手間はかかってる」


 ジーノは指を折った。


「刈る。運ぶ。干す。落とす。擦る。選る。煮る。これを安く出したら、手伝ったやつらの手間まで安く見ることになる」


 碧は言葉に詰まった。


 マルタが入口近くで腕を組んでいた。


 今日は大鍋屋の仕込みの合間に顔を出したらしい。


「ジーノの言う通りだね」


「マルタさんも?」


「安けりゃ優しいってもんじゃないよ。足りないものを安く出したら、早く食い尽くされるだけさ」


 マルタは木板を見る。


「それに、文句だけ言う客に食わせるには、まだ早い」


「文句だけ言う客」


「いるだろ、どこの店にも」


 ジーノが頷く。


「だから常連だけだ」


「常連だけ?」


「あぁ。まだ試しだと分かってるやつ。殻が少し残っていても騒がねぇやつ。なくなったと言えば引くやつ」


 碧は少し納得した。


 誰にでも出すには、まだ早い。


 けれど、食べたいと言ってくれる人はいる。


 なら、分かってくれる人にだけ、少しずつ出す。


 それが今の米には合っている気がした。


     ◇


 昼営業が終わる少し前。


 セレナがやって来た。


 いつものように軽い足取りで店へ入り、カウンターに肘をつく。


「白い粒のやつ、ある?」


 碧は思わずジーノを見る。


 ジーノは顔色一つ変えずに言った。


「あるが、今日は三皿だけだ」


「じゃあ一皿」


「酒代とは別だぞ」


「払うし」


 セレナはすぐに銅貨を置いた。


 それを見た瞬間、碧の胸が小さく跳ねた。


 まかないではない。


 手伝いの報酬でもない。


 客が、金を置いて、米を食べようとしている。


「本当に買うんですか?」


「買うよ」


 セレナは少し不思議そうに碧を見た。


「だって、食べたいもん」


 その言い方は、あまりにも軽かった。


 でも、碧には重かった。


 ジーノは銅貨を取ると、碧に顎で鍋を示した。


「作れ」


「はい」


     ◇


 鍋に豆のスープを入れる。


 鳥出汁を少し足す。


 玉ねぎを加える。


 白い粒を入れる。


 三皿分。


 それ以上はない。


 碧はいつもより慎重に木匙を動かした。


 少しでも焦げたらもったいない。


 少しでも水が多すぎれば薄くなる。


 少しでも火が強すぎれば、粒が崩れすぎる。


 ルカが横に来て、鍋の匂いを嗅いだ。


「まだ」


「まだか」


「うん。もう少し」


 碧は火を少し弱めた。


 ルカは鍋を見ている。


「そこ、混ぜる」


「底?」


「うん」


 碧が木匙を入れると、底に少しだけ粒が寄っていた。


「……助かった」


「食べるから」


「今日はセレナさんの分だぞ」


「少し残る?」


「残らないと思う」


 ルカは露骨に不満そうな顔をした。


 碧は少し笑いそうになったが、我慢した。


 ジーノがセレナのチーズを少し削り入れる。


 最後に香草。


 白粒の煮込みができた。


 碧は器によそう。


 いつものまかないより、ほんの少しだけ丁寧に。


     ◇


 セレナは器を受け取ると、にっと笑った。


「これ、あたしが最初?」


「客としては、たぶん」


「じゃあ、ちゃんと味わう」


「いつも味わってくださいよ」


「味わってるって」


 セレナは木匙で一口すくい、口へ入れた。


 黙る。


 豆の旨味。


 玉ねぎの甘み。


 チーズの塩気。


 香草の匂い。


 そして、白い粒のとろりとした重さ。


 セレナはゆっくり飲み込んだ。


「……うん」


 碧は少し緊張する。


「どうですか?」


「前より、料理っぽい」


「料理っぽい」


「うん。まかないじゃなくて、ちゃんとお金払って食べる感じがする」


 碧はほっと息を吐いた。


 セレナはさらに食べ進める。


「でも、もっと粒があった方がいい」


「それは、俺も思います」


「あと、もうちょっとチーズあってもいい」


 ジーノが低く言う。


「高くなるぞ」


「じゃあ今日はこのままでいい」


「現金だな」


 セレナは笑った。


     ◇


 二皿目は、いつもの常連の犬人に出された。


 市場の荷運び帰りに、よくスープを飲みに来る男だった。


 名前は知らない。


 けれど、ジーノは顔を知っているらしい。


「白い粒、あるんだろ」


「誰から聞いた」


「セレナ」


「やっぱりか」


 ジーノは面倒そうに言ったが、断らなかった。


「今日はあと二皿だ。文句言うなら出さねぇ」


「言わねぇよ」


 犬人の男は銅貨を置いた。


 そして、器を受け取る。


 一口食べる。


 眉を少し上げた。


「……腹に来るな」


「重いですか?」


 碧が聞く。


「いや、いい意味で。スープだけより残る」


 男はもう一口食べた。


「朝から荷を運ぶ日に、これがあるといい」


 碧はその言葉を覚えた。


 朝から荷を運ぶ日。


 働く前の食事。


 働いた後の一皿。


 米は、そういう人たちに合うのかもしれない。


     ◇


 三皿目は、ブルーノに出された。


 彼はちょうど、荷の相談でオステリアへ来ていた。


 カーロは外で荷車を見ている。


「本当に私がいただいても?」


 ブルーノが聞く。


「今日は三皿って決めてる。これで最後だ」


 ジーノが言う。


「なら、ありがたく」


 ブルーノは丁寧に銅貨を置いた。


 器を受け取る。


 ゆっくり食べる。


 前と同じように、しばらく黙った。


「……やはり、街道で食べられたら助かりますね」


 碧は昨日の言葉を思い出す。


「荷を見ながら休める場所、ですか」


「はい。雨の日や寒い日は、特に」


 ブルーノは器を見つめる。


「温かいものがあるだけで、足の戻りが違います」


「足の戻り」


「歩き出せる、という意味です」


 碧は頷いた。


 街道。


 雨。


 荷車。


 犬人たちの脚。


 その先に、温かい白粒の煮込み。


 まだ輪郭はぼんやりしている。


 でも、確かに何かが頭の中に残った。


     ◇


 その後、何人かの客が聞いてきた。


「白い粒のやつ、まだある?」


「今日は終わりだ」


 ジーノが即答する。


「もう?」


「三皿だけだ」


「じゃあ明日は?」


「分からん」


「分からんって」


「分からんものは分からん」


 客は少し不満そうだったが、ジーノの顔を見て引き下がった。


 セレナはそれを見ながら、にやにやしている。


「ほら、人気出てる」


「お前が広めたからだろ」


「でも食べたい人がいるのは本当でしょ?」


「だから困ってんだよ」


 ジーノは空になった小鍋を見た。


「出せばなくなる。出さなきゃ欲しがる。飯屋で一番面倒な状態だ」


 マルタが笑う。


「それ、売れるものが出た時の顔だね」


「うるせぇ」


「嬉しくないのかい?」


「嬉しいだけで鍋は満たせねぇよ」


 ジーノは真顔で言った。


 冗談のようで、たぶん本気だった。


     ◇


 夜。


 営業が終わったあと、リゼは木板を見ていた。


 碧も横に座る。


 ルカは少し離れたところで、空になった器を見つめている。


「もうないぞ」


「見てるだけ」


「その目は食べたい目だ」


「食べたい」


「正直だな」


 リゼは小さく笑ってから、木板を碧に見せた。


「今日、三皿出しました」


「うん」


「使った白い粒は、昨日処理した分のほとんどです」


「ほとんど……」


「籾のまま残している分を使えば、まだ作れます。でも、この調子で出すと、一月も持たないと思います」


 碧は黙った。


 一月も持たない。


 それは、分かっていたはずだった。


 でも、客に出して、銅貨を受け取って、空になった器を見た後だと、その言葉は前より重かった。


「……刈るだけじゃ、足りないんだな」


 碧が呟く。


 ジーノは皿を拭きながら言った。


「今さらか」


「厳しい」


「草を料理にしたら、次は草を増やす話になるに決まってるだろ」


「簡単に言いますね」


「簡単じゃねぇから言ってる」


 ジーノは皿を棚へ戻した。


「売るってのは、明日も出せるか考えることだ」


 碧は木板の印を見る。


 今ある米。


 使った米。


 残す米。


 まだ白い粒になっていない米。


 そして、これから必要になる米。


 その全部が、急に目の前に並んだ気がした。


     ◇


「置き場は、今は足りています」


 リゼが言った。


「でも、次に同じだけ取ったら、たぶん足りません」


「空き家、まだ使えるところあるよな」


「あります。でも、食べ物を置けるようにするには、直さないといけません。雨漏りや鳥の穴もあります」


 マルタが頷く。


「本格的な倉庫じゃなくてもいいさ。まずは、米を置く場所として整えることだね」


「米を置く場所……」


「地面に直置きしない。湿気を避ける。火から離す。稲束、籾、白い粒を混ぜない。それだけでも違う」


 グレーテが、いつの間にか店の入口に立っていた。


 改良道具の様子を見に来たらしい。


「棚と金具なら作れる」


「来てたんですか」


「来たら、また困っていた」


「毎回すみません」


「謝るな。払え」


 ジーノが少しだけ笑った。


「こいつにも言われるようになったな」


「ジーノさんと同じこと言いますね」


「同じじゃねえよ」


「同じじゃねえ」


 今度はジーノとグレーテが同時に言った。


 マルタが楽しそうに笑った。


     ◇


 碧は、木板の印をじっと見た。


 米を料理にするだけでは足りない。


 米を残す場所がいる。


 そして、米を増やす場所がいる。


 頭の中に、街道脇の低地が浮かんだ。


 夕暮れに琥珀色の穂が揺れていた場所。


 最初に、碧が稲だと気づいた場所。


 今は、勝手に生えているだけの草。


 でも、もし。


 そこを、米のための場所にできるなら。


「……田んぼ」


 碧は小さく呟いた。


 ジーノが振り向く。


「なんだそれ」


「米を育てる場所です」


「畑か?」


「畑というか、水の畑です」


 ジーノは少しだけ眉を上げた。


「また変な言葉が出たな」


「俺も、作れるか分かりません」


 碧は正直に言った。


「田んぼの作り方なんて、ちゃんと知ってるわけじゃないです。でも、今みたいに生えているものを刈るだけだと、足りない」


 リゼが静かに木板を抱えた。


 ルカは顔を上げる。


「作ると、増える?」


「うまくいけば」


「じゃあ作る」


「簡単に言うな」


「でも食べる」


 碧は少し笑った。


 セレナも、ブルーノも、常連客も食べた。


 そして、また食べたいと言った。


 なら、もう碧だけの食べ物ではない。


 ジーノはしばらく黙っていた。


 それから、真顔で言った。


「水の畑ねぇ」


「はい」


「今度は草を育てるのか」


「そうなります」


「お前が来てから、うちは飯屋なのか何なのか分からなくなってきたな」


「すみません」


「謝るな」


 ジーノは皿を棚に戻す。


「面白そうだからな」


 碧は少しだけ目を丸くした。


 ジーノは何事もなかったように背を向ける。


「ただし、店を草置き場にするなよ」


「そこは気をつけます」


「できればな」


「信用されてない……」


 ルカが横で言う。


「でも食べる」


「分かってるよ」


     ◇


 その夜。


 オステリアの灯りの下で、木板に新しい印が足された。


 食べる分。


 残す分。


 売った分。


 そして、まだ何も書かれていない空白。


 そこに、リゼは小さく線を引いた。


「これは?」


 碧が聞く。


「これから考える分です」


「これから」


「はい。米を増やす場所と、置く場所」


 リゼは少しだけ微笑んだ。


 碧はその空白を見た。


 まだ何もない。


 田んぼもない。


 倉庫もない。


 十分な道具もない。


 けれど、白粒の煮込みは、今日初めて客の皿に乗った。


 品書きには載っていない。


 店先にも書いていない。


 いつでも出せるわけでもない。


 それでも、その一皿は確かに売れた。


 碧が食べたかっただけの米は、ほんの少しだけ、オステリアの料理になった。


 そしてその分だけ、明日のことを考えなければならなくなった。

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