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ごはん革命  作者: Sen
24/36

軒下の琥珀

 翌朝。


 オステリア・ジーノの裏手は、草の匂いでいっぱいだった。


 昨日運び込んだ稲束が、壁際にずらりと並んでいる。


 琥珀色の穂。


 乾いた葉。


 ところどころに残る土の匂い。


 それは、碧にとっては嬉しい光景だった。


 だが、ジーノは裏口に立ったまま、ひどく渋い顔をしていた。


「……店の裏が草まみれなんだが」


「米です」


「まだ草だろ」


「いずれ米になります」


「今は草だ」


 ジーノは短く言った。


 碧は言い返せなかった。


 確かに、まだ食べ物ではない。


 刈っただけ。


 束ねただけ。


 ここから乾かして、穂から粒を落として、殻を外して、ようやく食べられる。


 昨日は、人が集まった。


 稲束も増えた。


 でも、その先をまだ何も考えていなかった。


「……これ、置きっぱなしはだめですよね」


「当たり前だ」


 ジーノは稲束を指差す。


「薪が取れねぇ。水桶が置けねぇ。裏口が通れねぇ。あと、鳥が来る」


「鳥」


「鳥餌だと思われてたんだろ」


「……そうでした」


 碧は稲束を見る。


 初めてまとまった量が手に入った。


 それなのに、今度は置く場所がない。


 米は、まだ遠かった。


     ◇


「積みっぱなしにしたら、蒸れるよ」


 そう言ったのは、マルタだった。


 いつの間にか裏手に回ってきて、稲束を見ている。


 セレナも一緒だった。


 まだ眠そうに目をこすっている。


「おはよー……」


「昨日あれだけ騒いでたからだ」


 マルタが言う。


「働いたから疲れたの」


「口もよく働いてたね」


「ひどい」


 マルタはセレナを軽く流して、稲束を一つ持ち上げた。


「これは、まだ湿り気があるね」


「乾いてるように見えますけど」


「表はね。中に湿気が残ってる。束ねたまま地面に置いておけば、匂いが変わるよ」


「匂いが変わると、だめですか?」


「食べ物にするつもりなら、だめだね」


 マルタは当然のように言った。


「飯は、鍋に入れる前から飯なんだよ。食べる前の扱いが悪けりゃ、鍋でどうにかしても限界がある」


 碧は稲束を見た。


 飯は、鍋に入れる前から飯。


 その言葉は、少しだけ重かった。


「干す場所が必要ですね」


「そうだね。雨に濡れない。風が通る。地面につかない。火に近すぎない。鳥が入りにくい。そういう場所」


「条件が多い……」


「食べ物だからね」


 マルタはあっさり言った。


     ◇


 碧たちは、稲束を空き家群へ運ぶことにした。


 碧とリゼが暮らしている家の周りには、まだ誰も住んでいない空き家がいくつかある。


 一か月近く、碧とリゼは少しずつ家を直してきた。


 屋根の穴を塞いだ。


 床板を替えた。


 竈の周りを片づけた。


 雨の入る窓を布で覆った。


 だから、物を置ける場所はある。


 あるにはある。


 だが。


「……足りないな」


 稲束を運び込んで、碧はすぐにそう思った。


 土間に置けば、通れない。


 竈の近くに置けば、火が危ない。


 寝る部屋に置けば、籾殻が落ちる。


 棚の上には少ししか乗らない。


 軒下は使えそうだが、全部を吊るすには短すぎる。


 隣の空き家は、屋根が半分抜けている。


 さらに奥の家は壁が崩れていて、鳥が入りそうだった。


「場所はあるのに……」


 碧は呟く。


「米を置ける場所は少ないんですね」


 リゼが静かに言った。


 その通りだった。


 ただの空き家ならある。


 けれど、食べ物になる前の稲を守れる場所は、思ったより少ない。


     ◇


 ルカは、空き家群の中をするすると歩いていった。


「あそこ、雨漏る」


 短く言う。


「こっちは?」


「鳥が入る」


「じゃあ、あの奥の家は?」


「床、抜ける」


「詳しいな」


「寝たことあるから」


 ルカは何でもないことのように言った。


 碧は少しだけ黙る。


 リゼも、そっとルカを見た。


 ルカは二人の視線に気づいたのか、少しだけ尾を揺らす。


「でも、こっちは使える」


 そう言って、家と家の間にある細い軒下を指差した。


 そこは風が通る。


 屋根もまだ残っている。


 壁も崩れていない。


「ここ、鳥あんまり来ない」


「どうして?」


「狭い。飛びにくい」


「なるほど……」


 碧は軒下を見上げた。


 確かに、稲束を吊るすにはよさそうだった。


 ただ、横木が足りない。


 紐を掛ける場所も少ない。


 リゼが周囲を見ながら言う。


「ここに紐を渡せば、少し干せます。あちらの梁にも掛けられるかもしれません」


「じゃあ、ここは使おう」


「はい。ただ、全部は無理です」


「だよな」


 碧は稲束の山を振り返った。


 嬉しいはずの量が、今は少し怖い。


     ◇


 リゼは帳面代わりの板を持ってきた。


 正確には、薄い木板だ。


 そこに炭で印をつける。


「数を記録します」


「ロルフさんに言われたやつ?」


「はい」


 リゼは稲束を一つずつ数えていく。


 軒下に吊るしたもの。


 土間に仮置きしたもの。


 隣の空き家へ運ぶ予定のもの。


 乾きのよさそうなもの。


 まだ湿り気の残るもの。


 それぞれを分けて、印をつける。


「リゼ、細かいな」


「あとで分からなくなると困ります」


「それはそう」


「それに、疑われやすいと言われましたから」


 リゼは少しだけ視線を落とした。


 ロルフの言葉を、ちゃんと覚えている。


 記録がなければ、好きに疑われる。


 それは、ただの注意ではなかった。


 リゼには、きっと碧より深く届いている。


「じゃあ、これはリゼに任せていい?」


 碧が言うと、リゼは少し驚いた。


「私にですか?」


「俺がやるより正確そうだし」


「……分かりました」


 リゼは木板を両手で持ち直した。


「では、私が見ます」


 その声は小さい。


 でも、昨日より少しだけ強かった。


     ◇


 昼過ぎ。


 碧はグレーテの店へ向かった。


 用件を聞くなり、グレーテは眉間に皺を寄せた。


「今度は草を吊るす道具か」


「はい」


「次から次へと、よく困るな」


「俺もそう思います」


「思うだけなら誰でもできる」


 グレーテは作業台に木炭で線を引いた。


「地面に置くな。浮かせろ。風を通せ」


「マルタさんにも言われました」


「なら聞け」


「聞いてます」


「聞いてる顔じゃない」


「そんな顔あります?」


 グレーテは無視して、簡単な枠を描いた。


 木の柱。


 横に渡す棒。


 そこへ稲束を吊るす。


 下は地面から少し浮かせる。


 雨が吹き込まないよう、壁側に寄せる。


「大きいものは今すぐ無理だ。だが、軒下に渡す横木と、紐を掛ける金具なら作れる」


「助かります」


「助かるなら金を出せ」


「ですよね」


「それと」


 グレーテは木炭を置いた。


「同じ形で作れるようにしておく。干す場所が増えるなら、枠も増えるからな」


「そこまで考えてくれるんですか」


「違う。毎回違うものを作るのが面倒なだけだ」


「それでも助かります」


「変な感謝をするな」


 碧は少し笑った。


 米を白い粒にする道具。


 穂を刈る小鎌。


 そして今度は、稲を干すための横木と金具。


 料理から、どんどん離れているようで。


 でも、全部が食べるためにつながっていた。


     ◇


 夕方までに、使えそうな場所へ稲束を分けた。


 ルカが場所を選ぶ。


 リゼが数をつける。


 碧が吊るす。


 セレナも途中で来て、重い束を運ぶのを手伝った。


 マルタは、吊るした稲束の間に手を入れて、風の通りを確かめている。


「詰めすぎだね」


「もっと空けますか?」


「そう。乾かすんだろ。飾るんじゃない」


「はい」


「セレナ、そこに置かない。下が湿ってる」


「はーい」


「返事だけは本当にいいね」


「働いてるもん」


「働いてるなら、次はあっち」


「えー」


「えーじゃない」


 セレナは文句を言いながらも、ちゃんと運んだ。


 軒下に、琥珀色の稲束が少しずつ並んでいく。


 かさ、と風に鳴る。


 その音は、昨日の低地で聞いた音とは少し違っていた。


 水辺の草の音ではない。


 食べ物になるのを待つ音だった。


     ◇


「ここで、二十四」


 リゼが木板に印をつける。


「隣の軒下が、十八。土間に仮置きが、十二。まだ吊るせていないのが……」


 リゼは一度、稲束の山を見た。


「多いですね」


「多いな」


「でも、全部は入りません」


「……だよな」


 碧は頭をかいた。


 昨日は、あれだけ収穫できて嬉しかった。


 でも、今日になると分かる。


 収穫できた分だけ、管理しなければならない。


 刈る手が増えれば、干す場所も必要になる。


 運ぶけん車があれば、置く場所も必要になる。


 食べ続けるには、続けるための場所がいる。


「今ある場所で、ぎりぎりですね」


 リゼが言う。


「次に同じだけ取ったら?」


「入りません」


 即答だった。


 碧は苦笑した。


「分かりやすい」


「でも、少しずつ直せば、使える空き家は増えると思います」


 リゼは空き家群を見た。


「屋根を塞いで、鳥が入る穴をふさいで、風が通るようにして……時間はかかりますけど」


「じゃあ、家の修理も続けないとな」


「はい」


 ルカが横から言う。


「あっちの家、夜寒い」


「使うなら直すか」


「直す」


「お前も手伝うんだぞ」


「食べるなら」


「そればっかりだな」


     ◇


 日が傾く頃。


 空き家群の軒下には、琥珀色の稲束がずらりと吊るされていた。


 全部ではない。


 入りきらなかった分は、仮置きして、明日また場所を作ることになった。


 完全ではない。


 でも、昨日よりはずっと良かった。


 地面から浮いている。


 風が通る。


 雨も、少しなら避けられる。


 リゼは木板を見ながら、もう一度数を確かめている。


 ルカは稲束の下で、落ちた粒を拾っていた。


 碧は、その光景をしばらく眺めていた。


 昨日まで、これは街道脇の雑草だった。


 鳥の餌。


 水辺の草。


 誰も食べ物だと思っていなかったもの。


 それが今、軒下に吊るされている。


 明日も残すために。


 冬まで守るために。


 少しずつ食べるために。


「碧」


 ルカが言う。


「ん?」


「これ、全部食べる?」


「一気には食べない」


「じゃあ、少しずつ?」


「そう。少しずつ」


「毎日?」


「毎日は……どうかな」


 ルカは不満そうに尾を揺らした。


「毎日がいい」


「俺もできればそうしたいよ」


 リゼが木板を抱えたまま、静かに笑った。


「そのためには、もっと場所が必要ですね」


「だな」


 碧は軒下の稲束を見上げる。


 米は、初めて「明日もあるもの」になった。


 けれど、明日もあるものにするには、明日の場所も必要だった。


 風が吹く。


 軒下の琥珀色が、かさりと鳴った。

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