集まる手
翌朝。
オステリア・ジーノの戸口を叩いたのは、セレナだった。
その隣には、丸い籠を腕に下げた中年の女が立っている。
「おはよー、碧」
「……嫌な予感がします」
「当たり」
中年の女が、セレナの頭を軽く小突いた。
「この子が、市場で妙な話を広げてね」
「妙な話じゃないよ。美味しい話」
「そういうところだよ」
女は碧を見る。
「あたしはマルタ。市場の端で大鍋屋をやってる」
「大鍋屋?」
「働いてる連中に、煮込みとかスープとか、腹に溜まるものを出す店さ」
セレナが横から言う。
「マルタおばさんはね、市場で働いてる人なら、だいたい一回はこの人の煮込み食べてるよ」
「余計な説明しなくていい」
「でも本当じゃん」
マルタはため息をついた。
「この子が市場の端から端まで走り回ってた頃から知ってるよ」
「そんな昔の話しなくていいし」
「今も似たようなもんだろ」
「ねえひどい」
店の奥で、ジーノが小さく呻いた。
「面倒なのが二人になったな」
「聞こえてるよ、ジーノ」
「聞こえるように言ったんだ」
ジーノは鍋を混ぜながら、面倒そうに答えた。
◇
「で、草を刈る手がいるんだって?」
マルタが言った。
碧は少し困る。
「まだ、そんな大げさな話じゃ……」
「飯と銅貨が出るなら、人は来るよ。ただし、誰でもいいってわけじゃない」
マルタは店の中をちらりと見た。
「昼の店先に人を溜めたら営業の邪魔だね。来させるのは昼営業が終わってから。店の前に集める。それでいいかい?」
ジーノは頷いた。
「店の中には入れるな」
「分かってるよ。外で並ばせる」
「条件は?」
「セレナから聞いた」
「不安だな」
「だから確認に来たんだよ」
マルタは指を折った。
「飯は出す。銅貨も少し。刃物を持つのは大人か、扱える若いのだけ。子供は拾うだけ。水辺には近づけない。日が落ちる前に終わる。街道に荷を広げない」
ジーノは少しだけ目を細めた。
「分かってるじゃねぇか」
「大鍋屋を何年やってると思ってるんだい」
マルタは鼻で笑った。
「人を動かすなら、先に飯と段取りだよ」
碧は思わず感心してしまう。
「すごいですね……」
「すごくない。揉める前に潰してるだけさ」
「ジーノさんみたいなこと言う」
「似てねぇよ」
「似てない」
ジーノとマルタが同時に言った。
セレナは楽しそうに笑っている。
「じゃ、昼終わったら連れてくるね。あたしも行くから」
「セレナさんも?」
「噂を流した本人が行かないと、みんな不安でしょ?」
マルタが腕を組む。
「あんたが広めたんだから、ちゃんと働きな」
「働くってばー」
「あんたは口を動かした分だけ、手も動かしな」
「はーい」
「返事だけは昔からいいんだよ」
◇
昼営業が終わる頃。
オステリアの前には、いつもとは違う人だかりができていた。
市場の荷運び見習い。
仕事の空いた若者。
獣人の労働者。
そして、ルカが連れてきた市場の子供たち。
「……どこから連れてきたんだ」
「なんかいた」
「なんかいたのか……」
店の戸口では、マルタが腕を組んで立っていた。
碧が店から出ると、マルタは集まった人たちを顎で示した。
「こんなところだね。刃物を持たせてよさそうなのと、運ぶだけにした方がいいのは分けてある」
「もうそこまで?」
「見ればだいたい分かるよ」
「すごいな……」
「感心してる暇があったら、説明しな」
碧は慌てて頷いた。
その横で、セレナが集まった人たちに手を振っている。
「はいはい、ちゃんと聞いてねー。ジーノが話すから。聞かない人は白い粒なしねー」
ざわついていた声が、少し静かになった。
ジーノは店の前に立ち、集まった者たちを見回した。
「飯は出す。銅貨も少しだ。ただし、遊びじゃねぇ」
空気が少し締まる。
「刃物を持つやつは、碧の言うことを聞け。子供は刃物禁止。水辺に近づくな。街道に荷を広げるな。日が落ちる前に終える」
ジーノは少し間を置いた。
「それが守れねぇやつには、飯も銅貨も出さねぇ」
誰も文句を言わなかった。
セレナが小さく拍手する。
「はい、そういうこと。ちゃんと働けば食べられるよ。昨日あたしが食べたやつ、本当においしかったから」
「本当に腹に溜まるのか?」
誰かが聞いた。
「溜まる溜まる。酒のあとにもいい」
「酒のあと基準なんですか……」
碧が呟くと、セレナは笑った。
◇
集まった人たちの中には、名前を聞いておいた方がよさそうな者が何人かいた。
市場で荷運びをしているという若い男。
名前はダリオ。
手足が長く、よく動きそうだったが、小鎌を見た瞬間に少し目を輝かせたので、碧は不安になった。
「刃物、振り回さないでくださいね」
「分かってるって」
「その返事が一番怖いんです」
獣人たちの中には、猫人の若い女がいた。
名前はミーナ。
細い指をしていて、リゼが紐を渡すと、すぐに結び目を確かめた。
「これ、強く縛りすぎるとだめなんですよね?」
「はい。乾きにくくなるので、少し余裕を持たせてください」
「分かりました。じゃあ、こっちの子たちにもそう言っておきます」
ミーナはリゼの説明を一度聞いただけで、他の獣人たちへ同じことを伝え始めた。
リゼは少し驚いたように、それを見ていた。
そして、ルカの周りには子供たちがいた。
五人。
いや、後ろからさらに三人出てきた。
全部で八人。
「さっきよりも増えてない?」
「いた」
「いた、じゃなくてさ……」
子供たちの中で、一番前にいた小柄な少女が、碧をじっと見上げた。
「本当に白いやつ食べられるの?」
「手伝ってくれたら、少しだけ」
「少しってどれくらい?」
「それ交渉するの?」
「大事でしょ」
ルカが横から言った。
「ノーラは数えるのうまい」
「へぇ」
碧が見ると、ノーラと呼ばれた少女は少し得意げに胸を張った。
「袋の数とか、束の数なら数えられるよ」
「助かるかも」
「じゃあ多めに食べていい?」
「働き次第かな」
「大人みたいなこと言う」
「……大人なので」
ノーラはじっと碧を見てから、ふんと鼻を鳴らした。
「じゃあ数える」
ルカは子供たちを見回して、短く言った。
「刃物はだめ。水もだめ。拾う。選ぶ。食べる」
「最後はまだ」
碧が言うと、ルカは不満そうに尾を揺らした。
◇
低地には、今日も琥珀色の穂が揺れていた。
水はほとんど引いている。
けれど、足元はまだ柔らかい。
碧は人間の若者たちを集めた。
ダリオもそこにいる。
「小鎌はこう持ってください。穂を握る手を刃の前に出さない。絶対に。根元をまとめて、軽く引きながら切る感じです」
「こう?」
ダリオがすぐに刃を入れようとする。
「待って、手が近いです」
「え、これくらい?」
「危ない。もう少し離して」
「細かいな」
「指が飛ぶよりいいです」
ダリオは少し笑ったが、言われた通りに持ち直した。
碧自身、まだ熟練者ではない。
それでも、昨日まで失敗した分だけ、危ない場所は分かるようになっていた。
◇
少し離れたところでは、リゼが獣人たちに束ね方を教えていた。
「穂の向きを揃えてください。あとで粒を外す時に楽になります。強く縛りすぎると乾きにくいので、ここは少し余裕を持たせて」
「これでいいか?」
犬人の男が束を差し出す。
「はい。綺麗です」
リゼに褒められた犬人の男が、少し照れたように笑った。
ミーナはその横で、別の獣人たちに同じことを伝えている。
「向き、逆。リゼさんが言ってたでしょ。穂をこっちに揃えるの」
「こうか?」
「そう。それだとあとが楽なんだって」
リゼはその様子を見て、少しだけ耳を揺らした。
自分が教えたことが、誰かの口からまた別の誰かへ伝わっている。
それが、少し不思議だった。
◇
さらに向こうでは、ルカが子供たちを従えていた。
「これは軽い。だめ」
「なんで分かるの?」
「持つ」
ルカは子供の手に穂を乗せる。
「軽い」
「あ、ほんとだ」
「こっちは?」
「重い」
「食べるやつ」
子供たちは真剣に頷いていた。
ノーラは小袋を抱えながら、ぶつぶつ数を数えている。
「こっちが四つ。あっちが七つ。ルカ、その袋は数えた?」
「知らない」
「知らないじゃないでしょ。あとで分からなくなる」
「ノーラが数える」
「数えるけど、増えたら言って」
ルカは少し面倒そうにしたが、逆らわなかった。
碧はその光景を見て、思わず立ち止まった。
ルカが、子供たちに教えている。
言葉は短い。
説明も雑だ。
けれど、子供たちはちゃんとついていっている。
しかも、ノーラには少しだけ押されていた。
◇
作業は、思ったより進んだ。
誰かが刈る。
誰かが束ねる。
誰かが落ちた籾を拾う。
誰かが街道側へ運ぶ。
セレナも、稲束を抱えて何度も往復していた。
「これ、こっちでいい?」
「街道側へお願いします」
「了解ー」
「セレナ、雑に置くんじゃないよ。あとで崩れる」
マルタの声が飛ぶ。
「はーい」
「返事だけ軽いね」
「ちゃんとやってるってば」
マルタは腕を組み、全体の流れを見ていた。
誰が刈りすぎているか。
どこに束が溜まっているか。
子供たちが水辺に近づいていないか。
まるで市場の大鍋を回す時と同じように、人の動きを見ている。
低地の中に、少しずつ流れができていった。
◇
その時、街道から車輪の音が聞こえた。
ブルーノだった。
今日は荷のないけん車を引いている。
その横には、若い犬人が一人いた。
ブルーノより少し小柄で、まだ動きに落ち着きがない。
「碧さん」
「あ、ブルーノさん」
「今日は、ずいぶん増えましたね」
「セレナさんのせいです」
「噂は聞きました」
「もうですか」
「街道にも届いております。白い粒のまかない、と」
碧は思わずため息をついた。
「本当に早いな……」
ブルーノの横の若い犬人が、稲束を見て首を傾げた。
「これを全部載せるんですか?」
「載せられる分だけです」
ブルーノが答える。
「彼はカーロです。けん車の見習いです」
「カーロです」
カーロは丁寧に頭を下げた。
それから、すぐに荷台を見た。
「束は横向きに積むと落ちます。縦に寄せて、紐で押さえた方がいいです」
「詳しいですね」
「荷崩れすると怒られるので」
カーロは真面目な顔で言った。
ブルーノが少しだけ笑う。
「まだ一人前ではありませんが、荷台を見る目はあります」
「助かります」
碧が言うと、カーロは少し嬉しそうに耳を動かした。
◇
ブルーノのけん車へ、稲束が積まれていく。
カーロは何度も束の向きを直した。
「これは端に置くと落ちます」
「こっちは?」
「軽いので上です。重い束は下に」
ダリオが稲束を持ってきて、カーロに言われるまま置き直す。
「荷運びって、ただ積むだけじゃないんだな」
「崩れたら積んだ意味がありません」
「真面目だな」
「荷は真面目に扱うものです」
ダリオは少し笑った。
カーロは笑わなかった。
でも、少しだけ得意げだった。
◇
しばらくして。
低い声が響いた。
「街道脇に人が集まっていると聞いた」
作業の手が、少し止まる。
碧が振り向くと、灰色の毛並みをした狼人の男が立っていた。
革鎧の上に、フェルメリア警備隊の短い外套。
腰には剣。
だが、手は柄にかかっていない。
周囲の獣人たちが、小さくざわついた。
「狼兵だ」
「面倒になるか?」
「でも人間兵じゃない」
その最後の声が、碧の耳に残った。
狼人の男は、低地の様子を静かに見回す。
小鎌を持つ人間。
束ねる獣人。
籾を拾う子供たち。
そして、けん車。
「責任者は誰だ」
碧は慌てて小鎌を下ろした。
「あ、俺です。碧と言います」
「何をしている」
「えっと、この草を集めています。食べ物にするために」
「食べ物?」
狼人の眉が少し動いた。
だが、それ以上は深く聞かなかった。
彼の視線が、リゼへ移る。
「獣人側を見ているのは、あなたか」
リゼは少し耳を伏せた。
けれど、すぐに姿勢を正す。
「はい。束ねる作業と、子供たちが刃物に近づかないように見ています」
「子供には刃物を持たせていないな」
「はい。落ちた粒を拾う仕事だけです」
「その奥には川があるだろう」
「近づけさせません。ルカさんが見ています」
ルカは遠くで子供の手首を掴み、川の方へ行こうとした子供を連れ戻していた。
「そっちはだめ」
「ちょっとだけ」
「だめ」
狼人の男は、それを見て短く頷いた。
「気をつけているようだな」
リゼは少しだけ目を丸くした。
「はい」
「名は」
「リゼです」
「ロルフ。フェルメリア警備隊だ」
ロルフは街道側へ目を向けた。
「街道に束を積みすぎるな。車輪が避けられなくなる。日が落ちる前に終えること。子供を水辺に近づけないこと。それを守るなら続けていい」
リゼは深く頷いた。
「分かりました。私が見ます」
ロルフは一瞬、リゼを見た。
「任せる」
その短い一言に、リゼの耳が少しだけ揺れた。
◇
ロルフはしばらくその場に残った。
監視というほどではない。
だが、完全に去るわけでもない。
碧が近づくと、ロルフは低い声で言った。
「人を集めるなら、先に警備隊へ知らせておけ」
「すみません」
「揉め事が起きてから呼ばれるよりは、その方がいい」
「次から気をつけます」
ロルフは頷いた。
その視線が、リゼの方へ戻る。
リゼは獣人たちに束の置き方を指示していた。
「……あの兎人は、よく見ている」
「リゼですか?」
「ああ」
「リゼは丁寧なので」
「丁寧な者が一人いるだけで、現場は荒れにくい」
碧は少し意外だった。
ロルフの言い方は硬い。
でも、リゼをちゃんと見ている。
「警備兵って、獣人の人もいるんですね」
碧が言うと、ロルフは碧を見た。
「ああ」
それだけだった。
だが、その一言には何か重さがあった。
◇
夕方が近づく頃。
低地の一部は、はっきりと刈り取られていた。
稲束は、ブルーノのけん車へ積まれていく。
カーロが荷台を確認し、ブルーノが紐を締める。
人間の若者たちは疲れた顔をしていた。
ダリオは腰に手を当てて、息を吐く。
「草刈りって、思ったよりきついな」
「だから飯が出るんです」
碧が言うと、ダリオは笑った。
「白いやつ、多めに頼む」
「それは働き次第です」
「厳しいな」
獣人たちも、腕や腰を伸ばしている。
ミーナはリゼの横で、最後の束をまとめていた。
「リゼさん、こっちの束は数えました?」
「まだです」
「じゃあ、ノーラさんに聞きます」
ノーラは子供たちの真ん中で、小袋を抱えていた。
「こっちが十二。あっちは九。カーロが載せたのが二十一」
カーロが振り向く。
「よく見てますね」
「数えたから」
「すごいな」
「すごいなら、白いやつ多めだね」
「それは碧さんに言ってください」
子供たちは得意げだった。
◇
日が落ちる前に、作業は終わった。
ロルフの指示通り、街道には束を残さない。
水辺に子供も残さない。
ブルーノのけん車は、稲束を積んでフェルメリアへ向かった。
帰り際、ロルフがリゼに声をかけた。
「リゼ」
「はい」
「次に同じことをするなら、作業する場所を先に決めておけ。子供の立ち入り場所も分けた方がいい」
「分かりました」
「それから、束の数を記録しろ。市場を通さない荷は、量が分からないと疑われやすい」
リゼは少し驚いた顔をした。
「記録、ですか」
「守るためだ」
ロルフは短く言った。
「記録がなければ、好きに疑われる」
リゼはしばらく黙った。
それから、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
ロルフは何も答えず、街道の方へ歩いていった。
◇
その夜。
オステリアの裏手には、これまでで一番多い稲束が並んでいた。
ジーノはそれを見て、少しだけ眉を上げた。
「……増えたな」
「増えました」
碧は疲れきった声で答えた。
リゼも座り込んでいる。
ルカは子供たちから集めた籾袋を抱えて、満足そうだった。
手伝いに来た人たちには、ジーノのスープが配られた。
セレナは稲束を運び終えたあと、なぜか一番疲れた顔で椅子に座っていた。
「働いた……」
マルタが即座に言う。
「口の方が多かったのに、よく言うねえ」
「ひどい」
米入りのまかないは、少しずつ。
それでも、みんな不思議そうに器を覗き込み、口に入れると黙った。
「……変な味じゃないな」
「腹に残る」
「もう少し欲しい」
その声を聞いて、セレナが得意げに笑う。
「ほらね」
ジーノは鬱陶しそうに言った。
「お前は黙って飲んでろ」
「やだ」
少し離れたところで、ノーラが木片に何かを刻んでいた。
リゼが覗き込む。
「何を書いているんですか?」
「束の数。何個あったか書いとけって、警備隊の狼人が言ってたでしょ?」
リゼは目を少し見開いた。
それから、柔らかく笑った。
「さっきの話聞いてたんですね」
「ありがとうございます」
「白いやつ、多めね」
「それは碧さんに聞いてください」
ノーラは不満そうに頬を膨らませた。
◇
碧は、並んだ稲束を見た。
自分が白いごはんを食べたかっただけだった。
でも今日は、人間が刈り、獣人が束ね、子供たちが拾い、ブルーノとカーロが運び、ロルフが見守った。
マルタは人々をまとめ、ミーナはリゼを助け、ノーラは数を記録していた。
セレナは噂を広げ、自分でも束を運んだ。
もう、ただの草刈りではなかった。
まだ米には遠い。
でも、確かに手は集まった。
碧は小さく息を吐いた。
「明日、これをどこに干そう……」
ジーノが即座に言った。
「そこからかよ」
「そこからです」
ルカが隣で言う。
「でも食べる」
「はいはい」
疲れているはずなのに、碧は笑ってしまった。
オステリアの灯りの下で、琥珀色の稲束が静かに揺れていた。




