新しい道具
翌日。
碧は、砕けた米を入れた小皿を見つめていた。
粉挽き屋で試してもらったものだ。
殻は割れている。
白い部分も見えている。
だが、粒は残っていなかった。
これでは違う。
炊いて、湯気が立って、噛むと少し甘い。
あの白いごはんにはならない。
「……粒のまま、か」
碧が呟くと、棚の上にいたルカがこちらを見た。
「まだ考えてる」
「考えるだろ」
「食べられればいいのに」
「それはそうなんだけど」
碧は小皿の中身を指でつまむ。
粉にすれば、腹は満たせるかもしれない。
煮込めば、それなりに食べられるのかもしれない。
でも、それでは諦めたことになる気がした。
ずっと食べてきたもの。
当たり前みたいにあったもの。
この世界に来たからといって、手放したくはなかった。
◇
昼営業の前。
碧はオステリアへ向かった。
ジーノは厨房で玉ねぎを刻んでいた。
「ジーノさん」
「あぁ?」
「金物屋って、どこにありますか」
ジーノの手が止まる。
それから、少しだけ口の端が上がった。
「粉挽き屋じゃだめだったか」
「だめでした」
「だろうな」
「分かってたんですか」
「半分くらいはな」
ジーノは刻んだ玉ねぎを鍋へ入れる。
じゅわ、と音が立った。
「市場の南側に、グレーテって金物屋がある」
「知り合いですか?」
「鍋を直してもらったことがある」
「いい人ですか?」
「腕はいい」
「性格は?」
「怖い」
「そこ言い切るんですね」
碧が苦笑すると、ジーノは棚から小さな鉄片を取り出した。
何かの古い留め具らしい。
「これ見せろ。うちの鍋を直した時の残りだ。グレーテなら分かる」
「ありがとうございます」
「ただし」
ジーノは碧を見る。
「あいつは無駄話が嫌いだ。何がしたいのか、ちゃんと説明しろ」
「殻だけ外したい、で通じますかね」
「足りねぇな」
「え」
「どういう形で、何を困ってて、どうしたいのか。道具屋はそこを聞く」
碧は少し黙った。
食べたい。
粒のまま炊いた米を食べたい。
理由はそれで十分なはずなのに、道具を作ってもらうには、それだけでは足りない。
「……分かりました」
◇
金物屋は、市場の南側にあった。
食材の匂いよりも、鉄と炭の匂いが強い場所だった。
釘。
鍋。
包丁。
車輪の金具。
鎌や鋤の刃。
壁には、見たことのない形の工具まで掛かっている。
碧の後ろには、リゼとルカもいた。
「二人とも来るのか」
と碧が言うと、リゼは当然のように頷いた。
「危ない道具を見るなら、なおさら一緒に行きます」
ルカは、
「見る」
とだけ言った。
店の奥から、金属を打つ音がした。
かん、かん、と短い音。
しばらくして、女が顔を出した。
背はそれほど高くない。
だが、腕が太い。
髪は後ろで雑に束ねられ、頬には煤がついていた。
「何の用だ」
第一声から低かった。
碧は少し背筋を伸ばす。
「あの、ジーノさんの紹介で来ました」
鉄片を出す。
女はそれを受け取り、少しだけ見た。
「……ジーノの鍋の留め具か」
「分かるんですか」
「私が打った」
女は鉄片を碧へ返す。
「グレーテだ。用件は」
「あ、碧です。こっちはリゼとルカで」
グレーテはリゼとルカをちらりと見た。
耳にも尾にも、それほど反応しなかった。
ただ、ルカの足元から頭まで一瞬で見て、
「手先は使えるか」
と聞いた。
ルカは眉をひそめる。
「使える」
「なら邪魔はするな」
「しない」
リゼが少しだけ目を丸くしている。
エルマーの時とは違った。
グレーテは、相手が人間か獣人かより、邪魔になるかどうかを見ているらしかった。
◇
碧は袋から籾と稲穂を取り出した。
「これの殻だけを外したいんです」
グレーテは稲穂を一本取った。
指で揉む。
ぽろ、と籾が落ちる。
それを見て、少し眉を寄せた。
「鳥が食う草か」
「この世界では、そう見えるみたいです」
「食うのか?」
「はい」
「粉にするならうちじゃないだろ?」
「粉じゃなくて、粒のままにしたいんです」
「粒のまま?」
「粒のまま」
グレーテはしばらく籾を見ていた。
それから、碧の持ってきた稲穂へ目を戻す。
「これは、どうやって集めた」
「手で折りました」
「全部か」
「はい」
「馬鹿か」
「え」
あまりにも真顔で言われて、碧は固まった。
グレーテは稲穂を作業台へ置く。
「食うたびに、一本ずつ手で折る気か」
「……昨日は、それしか思いつかなくて」
「なら、まず刃物だな」
「刃物?」
「草を集めるなら、刈るものがいる。お前がどれだけ食うつもりかは知らんが、手で折るよりはましだ」
グレーテは壁に掛かった鎌を一つ取った。
刃は大きく、柄も長い。
「これは麦用だ。広い畑ならよく使える。その草を取った場所は?」
「街道脇の低い土地です。水は引いてましたけど、少しぬかるんでて」
「なら、大きい刃は邪魔か」
グレーテは鎌を戻し、別の棚から小さめの刃を取り出した。
曲がった刃。
短い柄。
手に持つと、思ったより軽い。
「これなら片手で扱える。草を少しまとめて切るくらいなら十分だ」
碧は小鎌を見つめる。
米を食べるために必要なもの。
それは、鍋でも釜でもなかった。
まず、刈る道具だった。
◇
「で、殻だけ外す方だが」
グレーテは籾を一粒、作業台の上へ置いた。
「粉挽き屋では潰れるのか」
「はい」
「石臼は重い。粉にするための道具だ。粒を残すには強すぎる」
「金属で作るのはどうですか?」
「たぶん強すぎる」
グレーテは木片と、ざらついた石を手に取る。
「木と石だな。鉄は留めるところだけでいい」
「木と石……」
「底に粗い石を使う。上から押し潰すんじゃなく、転がして擦る。殻に傷をつけて割る。中身はなるべく残す」
碧は頭の中で形を想像する。
すり鉢。
臼。
いや、もっと違う。
自分は精米機の中身なんて知らない。
ただ、米を割りたくないことだけは分かる。
「作れますか」
「試しならな」
グレーテは作業台に木炭で簡単な図を描いた。
浅い木の器。
底に粗い石。
丸い木の棒。
籾を入れて、軽く押さえながら転がす。
「完璧には無理だ。割れる粒も出る。殻が残る粒も出る」
「それでも、手でやるよりは」
「早いだろうな」
碧は少しだけ息を吐いた。
少しでも進む。
それだけで十分だった。
◇
リゼが図を覗き込んだ。
「これ、手を挟みそうですね」
グレーテがリゼを見る。
「挟むな」
「そう言われても……」
「なら、縁を高くする。棒が横へ逃げないように溝をつける」
グレーテは図に線を足した。
ルカは籾をじっと見ている。
「割れたやつ、見れば分かる」
小さく言った。
グレーテの目がルカへ向く。
「分かるのか」
「分かる」
「なら選る係だな」
「係?」
「割れた粒と、殻の残った粒を分ける係」
「……食べる係がいい」
「働け」
ルカは不満そうに口を尖らせた。
碧は思わず笑ってしまう。
「お前、米のことになると分かりやすいな」
「別に」
「別にじゃないだろ」
リゼも小さく笑った。
◇
グレーテは小鎌を一本、作業台へ置いた。
「小鎌は今渡せる」
「いくらですか」
値段を聞いて、碧は少し固まった。
払えなくはない。
だが、安くはない。
グレーテはその顔を見て、すぐに言った。
「食い物に使う道具を安物にするな。怪我するぞ」
「……はい」
「試しの擦り道具は、端材で作る。三日くれ」
「三日…ですか」
「早い方だ」
「ありがとうございます」
「礼は使えたら言え」
グレーテはそう言って、籾を指で弾いた。
「ただし、道具だけでどうにかなると思うなよ」
「え?」
「刃物があっても、刈るのは手だ。擦る道具があっても、動かすのは手だ」
碧は黙った。
昨日の夜を思い出す。
三人で遅くまで作業して、それでもできた米はほんの少しだった。
「……ですよね」
「道具は手を助けるだけだ。手の代わりにはならん」
その言葉は、碧の胸に重く落ちた。
白いごはんを食べたい。
ただそれだけなのに。
そのためには、もう自分の手だけでは足りない。
そういう場所まで来てしまっているのだと、少しだけ分かった。
◇
小鎌を布に包み、碧たちは金物屋を出た。
市場の空気は相変わらず賑やかだった。
魚を売る声。
豆を量る音。
荷車の軋む音。
人と物が行き交うフェルメリアの音。
碧は手元の包みを見る。
刈るための道具。
最初の道具。
米を炊くためのものではない。
でも、米を食べるためには必要なもの。
「碧さん」
リゼが声を掛ける。
「大丈夫ですか?」
「うん」
「少し、難しい顔をしていました」
「道具だけじゃ足りないって言われて、ちょっと現実見た」
「私も手伝います」
「分かってる」
「ルカさんも」
ルカは歩きながら言う。
「食べさせてくれるなら手伝う」
「動機が分かりやすいな」
「大事」
「まあ、大事だな」
碧は少し笑った。
◇
オステリアへ戻ると、ジーノはカウンターで帳面を見ていた。
「どうだった」
「小鎌を買いました。あと、擦る道具を試しで作ってもらえることになりました」
「そうか」
「でも、道具だけじゃどうにもならないって言われました」
ジーノは帳面から目を上げる。
「だろうな」
「やっぱり分かってたんですか」
「一人でできることなんて、たかが知れてる」
その言葉は軽く聞こえた。
けれど、たぶんジーノはよく知っている。
一人で仕込み、一人で鍋を見て、一人で客を相手にしてきた人間だから。
「俺、米を食べたいだけだったんですけどね」
碧は小さく言った。
「それでいいんじゃねぇか」
「いいんですか?」
「大体、始まりなんてそんなもんだろ」
ジーノは帳面を閉じる。
「腹減ったから作る。うまかったからまた作る。足りねぇなら工夫する」
碧は少し黙った。
「……そんなもんですか」
「そんなもんだ」
ジーノはいつもの調子で言った。
◇
夜。
家に戻った碧は、小鎌を机の上に置いた。
リゼはその刃を少し怖そうに見ている。
ルカは近づきすぎて、碧に止められた。
「危ないから触るな」
「見るだけ」
「見るだけって距離じゃない」
「じゃあちょっとだけ」
「だめ」
ルカは不満そうにしたが、素直に手を引っ込めた。
碧は小鎌を見つめる。
白いごはんを食べたい。
ただ、それだけだった。
でも、そのためには穂を集める道具がいる。
殻を外す仕組みがいる。
昨日みたいに、誰かと夜遅くまで手を動かす時間もいる。
米は、思ったよりずっと遠い。
それでも、碧は諦めたくなかった。
この世界に来たからといって。
ずっと食べてきたものまで、なかったことにはしたくなかった。
机の上で、小鎌の刃が竈の火を受けて小さく光る。
それは料理道具ではない。
けれど、碧にとっては確かに。
白いごはんへ続く、最初の道具だった。




