粒のままで
翌朝。
家の床には、まだ籾殻が少し残っていた。
昨夜、三人で遅くまで作業したせいで、部屋の隅には小さな殻が散らばっている。
リゼは眠そうに耳を垂らしながら、布を畳んでいた。
ルカは棚の上で膝を抱え、空の木椀をじっと見ている。
「……もうないぞ」
碧が言うと、ルカは目だけを動かした。
「知ってる」
「めちゃくちゃ見てるじゃん」
「見てるだけ」
そう言いながら、ルカの尾は少しだけ揺れていた。
碧は苦笑しながら、昨夜残った籾を手に取る。
まだ殻がついている。
食べられる形にするには、あまりにも遠い。
昨日は三人がかりで夜遅くまで作業して、できた米はほんの一口ずつだった。
あれでは、店で使うどころか、家で食べる分にもならない。
「……このままじゃ無理だな」
碧は小さく呟いた。
「何がですか?」
リゼが顔を上げる。
「米。手でやってたら一生終わらない」
「一生は大げさです」
「いや、割と本気で」
碧は籾を見つめる。
米はある。
でも、米にする方法がない。
その壁が、昨日よりもずっと大きく見えていた。
◇
昼前。
碧は籾を少し袋に入れて、オステリアへ向かった。
店では、ジーノが仕込みをしていた。
鍋からはいつもの豆のスープの匂いがする。
香草の香りも少しだけ混ざっていた。
「ジーノさん」
「あぁ?」
「相談があるんですけど」
碧が袋を見せると、ジーノは一度それを見て、すぐに察したような顔をした。
「これを毎晩手で剥くつもりか?」
「……無理でした」
「だろうな」
ジーノは鍋を混ぜながら言う。
「穀物なら粉挽き屋だろ」
「粉挽き屋……」
「麦も豆も、粉にするならそこへ持ってく」
碧は少し考えた。
確かに、穀物を加工する場所なら何か分かるかもしれない。
ただ、少しだけ嫌な予感もあった。
「粉にはしたくないんですよね」
「粉にしたらダメなのか」
「粒のまま食べたいんです」
ジーノは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ眉を上げる。
「やっぱり変な食い方だよな」
「俺のいたところだと普通でした」
「まあ、粉挽き屋に聞くだけ聞いてこい」
ジーノはそう言って、店の奥から店の名前が書かれた小さな木札を取ってきた。
「市場の西の端っこにエルマーって粉挽きがいる。これ見せりゃ話くらい聞くだろ」
「知り合いですか?」
「昔、粉を買ってた」
「今は?」
「高ぇからやめた」
「正直ですね」
「まあな」
ジーノは肩をすくめた。
そして、ふとリゼとルカを見る。
「……お前らも行くのか」
「はい」
リゼが頷く。
ルカは棚の上で、
「行く」
とだけ言った。
ジーノは少しだけ考える。
「エルマーは西の出だ」
短く言った。
リゼの耳が、ほんの少し伏せる。
碧は、その反応に気づいた。
「……西の人だと、何かあるんですか」
碧が聞くと、ジーノは少しだけ鍋を混ぜる手を止めた。
「西は、人間の多い国が多い」
「それで?」
「獣人を見る目が、ここと同じとは限らねぇ」
リゼは何も言わなかった。
ただ、耳だけが少し下がったままだった。
フェルメリアでは人間も獣人も同じ市場を歩いているが、それがどこでも当たり前というわけではないらしい。
「……大丈夫ですかね」
碧が聞く。
「その札を持ってりゃ、追い返しはしねぇ」
「追い返しは、ですか」
「悪いやつじゃねぇよ」
ジーノは鍋を混ぜる手を止めずに言った。
「ただ、育った場所の癖は残る」
その言い方は、妙に現実的だった。
◇
市場の西端は、いつもの食材の露店とは少し空気が違っていた。
布袋。
木箱。
穀物の粉。
石臼。
荷車。
食材そのものよりも、それを加工したり運んだりする店が多い。
碧はリゼとルカを連れて、ジーノに教えられた粉挽き屋へ向かった。
店先には、大きな袋がいくつも積まれている。
袋には、それぞれ違う印がついていた。
「これ、荷札ですかね」
リゼが言う。
碧は一つずつ見る。
カンポリア公国の麦袋。
ポルトヴェラ共和国の塩袋。
ヴァルテーナ王国の香草箱。
シュテインベルグ帝国の金具がついた農具。
シュトロームラント王国の粉袋。
さらに、メールハーフェン帝国の布袋らしきものまであった。
「……この街、本当にいろんな国のものが集まってるんだな」
「フェルメリアは真ん中ですから」
リゼが言う。
「真ん中?」
「はい。東のカンポリアから農作物、南東のポルトヴェラから魚や塩、北東のヴァルテーナから香草や木材、西の方から金物や粉。いろんなものがフェルメリアに集まるんです」
「物流ハブってことか……」
「ぶ?」
「あ、いや。物が集まる場所ってこと」
その時、店の奥から低い声がした。
「そうだ。ここは物が通る街だ」
碧たちが振り向く。
出てきたのは、腕の太い中年の男だった。
短く刈った髪に、粉で白くなった前掛け。
人間だった。
男の視線が、碧からリゼへ移る。
それから、ルカへ。
ほんの短い沈黙。
リゼの耳が、少しだけ伏せた。
ルカは下がらなかった。
むしろ、じっと男を見返している。
「……連れか」
男が短く言った。
「はい」
碧は答える。
男は何かを言いかけたように見えた。
だが、碧の手元の木札を見て、それ以上は言わなかった。
「ジーノの札を持ってるな」
「あ、はい。碧って言います」
「エルマーだ。シュトロームラントの生まれだが、今はここで粉を挽いてる」
エルマーはそう言ってから、碧の持っている袋へ視線を戻した。
リゼは少しだけ碧の後ろに立つ。
ルカは、粉袋を見るふりをしながら、まだエルマーから目を離していなかった。
◇
「で、何を挽くんだ」
エルマーが言う。
「これなんですけど」
碧は籾を少し出した。
エルマーは指でつまんで、目を細める。
「鳥餌か?」
「まあ、この世界ではそうみたいです」
「挽くのか?」
「いや、粉にしたいわけじゃなくて」
碧は少し言葉を探す。
「殻だけ取りたいんです。中の粒は、できればそのまま残したくて」
エルマーは動きを止めた。
「粒のまま?」
「はい」
「なんでだ?」
まっすぐな疑問だった。
馬鹿にしているわけではない。
本当に、分からないという顔だった。
「炊いて食べたいんです」
「たく?」
「水を入れて火にかけて、粒のまま柔らかくして食べるんです」
エルマーはしばらく黙った。
それから、首を傾げる。
「穀物は挽くもんだろ」
「まあ、普通はそうなんでしょうけど」
「普通はパンにする。東の方なら、粉を練って麦麺にする連中もいる」
「麦麺……」
「うまいが高いぞ。粉にするのも手間だし、練ったあとの保存が難しい。麦の取れる土地か、金のある貴族の食い物だ」
エルマーは籾を指で転がす。
「だが、どれにしたって粉にする。粒のまま食うってのは、聞いたことがない」
碧は袋の中を見る。
この世界では、穀物は粉になる。
粉になって、パンになり、粥になり、麦麺になる。
でも、米は違う。
少なくとも碧の中では。
米は、粒のまま炊くものだった。
◇
「少し試してみるか?」
エルマーが言った。
「いいんですか?」
「ああ。だが、挽けば粉になるぞ」
「できるだけ軽くお願いします」
「軽くな」
エルマーは小さな石臼を用意した。
籾をほんの少し入れる。
そして、臼をゆっくり回した。
ごり。
乾いた音がした。
殻が割れる。
同時に、中の粒も砕けた。
もう一度、軽く回す。
さらに細かくなる。
エルマーは皿へ出した。
「ほら、挽けたぞ」
確かに殻は割れていた。
白い部分も見えている。
けれど、碧が欲しかったものではなかった。
粒は割れて、粉っぽくなっている。
炊いても、あの白いごはんにはならない。
「……違う」
思わず声が出た。
エルマーが眉を上げる。
「違う?」
「これだと、違うんです」
「殻は割れてるぞ」
「はい。でも、粒が残ってない」
碧は皿の上の砕けた米を見る。
この世界の人にとっては、たぶんこれで正しい。
穀物は粉に近づけばいい。
でも、碧にとっては違う。
「粉にしたいんじゃないんです」
碧は静かに言った。
「粒のまま残したいんです」
横で見ていたルカが、砕けた米を指でつまむ。
「これでも食べられる?」
「食べられるとは思う」
「じゃあいいじゃん」
「……でも、違うんだ」
ルカは碧を見る。
「これじゃダメなの?」
「うん」
ルカはそれ以上言わなかった。
ただ、砕けた粒を少しだけ眺めていた。
リゼも皿を覗き込む。
「これだと、碧さんの言っていたごはんにはならないんですね」
「ああ」
碧は頷く。
「炊いた時の感じが、たぶん全然違う」
エルマーは、リゼの言葉に一瞬だけ視線を向けた。
だが、何も言わなかった。
ただ、碧たちと皿の中身を見比べる。
「……変わった連中だな」
そう呟いた。
その声には、少しだけ棘があった。
けれど、仕事を投げ出すほどではなかった。
◇
エルマーは腕を組んだ。
「潰さずに殻だけ外す、か」
「できますか?」
「粉挽き屋の仕事じゃねぇな」
「ですよね……」
「だが、理屈は分かる」
エルマーは籾を一粒つまむ。
「外側だけ割って、中は残す。挽くんじゃなくて、擦るか、叩くか。力加減がいる」
「昨日、家でやったんですけど、全然効率悪くて」
「手作業ならそうだろうな」
エルマーは店先の農具をちらりと見る。
「農具屋か金物屋に聞け。シュテインベルグの金具を扱ってる店なら、何か作れるかもしれん」
「金物屋……」
「フェルメリアは便利だぞ。金を払えば、たいていの国の道具がある」
「金があれば、ですか」
「そこが一番大事だ」
エルマーはにやりと笑った。
かなり現実的な言葉だった。
そのあと、エルマーはふとリゼとルカを見る。
「……ここじゃ、客を選んでたら粉屋なんてやってられねぇ」
誰に向けた言葉なのか、一瞬分からなかった。
エルマー自身も、それ以上説明するつもりはなさそうだった。
「持ってくるものが麦でも豆でも鳥餌でも、挽くか挽かねぇか。それだけだ」
リゼは小さく頷いた。
ルカは何も答えなかった。
碧は少しだけ息を吐く。
優しいわけではない。
でも、追い返されるわけでもない。
フェルメリアという街は、たぶんそうやって動いている。
◇
オステリアへ戻ると、ジーノは仕込みを終えて、椅子に座っていた。
「どうだった」
「だめでした」
「早いな」
碧は砕けた米を皿に出した。
ジーノはそれを見る。
「粉になってるな」
「粉にしたいわけじゃないんです」
「粒のまま、か」
「はい」
ジーノはしばらく黙った。
それから、砕けた粒を指でつまむ。
「粉挽き屋じゃねぇな」
「エルマーさんにも言われました」
「潰すんじゃなくて、殻だけ外す道具がいる」
「はい」
「なら、農具屋か金物屋だ」
エルマーと同じことを言った。
碧は少し笑ってしまう。
「同じこと言われました」
「あいつも分かってるじゃねぇか」
ジーノは立ち上がり、棚から水を取る。
「米を店で使いたいなら、まずそこだな」
「炊き方じゃなくて?」
「その前だろ」
ジーノは当然のように言う。
「食える形にできなきゃ、料理にならねぇ」
その通りだった。
碧は皿の上の砕けた米を見る。
粉にすれば、この世界の食べ物になる。
パン。
粥。
麦麺。
この世界の穀物の道へ、入ることはできる。
でも、それでは違う。
碧が知っている米は、粒のまま炊くものだ。
噛むと甘くて、湯気が立って、誰かと分けて食べるものだ。
「……粒を残す方法を探します」
碧が言うと、ジーノは短く頷いた。
「あぁ、いいよ」
いつもの返事だった。
だが、その声は少しだけ楽しそうだった。
「あと、エルマーさんって」
「あぁ?」
「悪い人ではないんですね」
ジーノは少しだけ目を細める。
「だろ」
「でも、ちょっと怖かったです」
「西の出だからな」
ジーノはそれだけ言った。
責めるわけでも、庇うわけでもない言い方だった。
「この街に長くいりゃ、少しは丸くなる」
「丸くなって、あれですか」
「昔はもっと角があった」
「なるほど……」
碧は苦笑した。
リゼは何も言わなかった。
ただ、自分の耳に触れるようにして、少しだけ俯いていた。
◇
その夜。
家に戻った碧は、昨夜手作業で取った白い粒と、粉挽き屋で砕けた粒を並べていた。
リゼが横から覗き込む。
「見た目、全然違いますね」
「うん」
「こっちは……ごはんにならないんですか?」
「粥みたいにはできるかもしれない。でも、俺が作りたいのとは違う」
「かゆ……えっと、粒のままがいいんですね」
「うん」
ルカは砕けた米を少しつまんだ。
「これどうするの?捨てちゃうの?」
「捨てない。少ないし」
「じゃあ食べる」
「食べることには前向きだな」
「米だから」
碧は少し笑った。
ルカはそれに気づくと、すぐにそっぽを向いた。
碧は白い粒を見つめる。
米は見つかった。
けれど、まだ遠い。
この世界では、穀物は粉にするもの。
碧にとって、米は粒のまま炊くもの。
その違いを、今日初めてはっきりと知った。
別に、誰かを驚かせたいわけではなかった。
店の新しい料理にしたいと、最初から考えていたわけでもない。
ただ、食べたかった。
あの白いごはんを。
湯気が立って、噛むと少し甘くて、何でもない日の食卓に当たり前みたいにあったものを。
この世界に来たからといって、それまで諦めたくはなかった。
粉にすれば、きっと食べられる。
煮込めば、腹は満たせる。
でも、それでは違う。
碧が食べたいのは、粒のまま炊いた米だった。
だから、探さなければならない。
粒を残す方法を。
たとえ少しずつでも。
たとえ、変な食い方だと言われても。
窓の外では、満月の名残が白く街を照らしていた。
木皿の上の白い粒も、同じように小さく光って見えた。
米づくりや田んぼに関する描写については、調べながら書いていますが、作者自身まだ詳しいとは言えません。
もし明らかにおかしな点や、実際の農作業と違う部分がありましたら、やさしく教えていただけると嬉しいです。
物語としての都合も含めつつ、できるだけ説得力のある描写にしていきたいと思っています。




