白い粒まで
夜遅く。
月市の賑わいは、家のある空き家群まで微かに届いていた。
遠くから聞こえる楽師の音。
人の笑い声。
焼いた肉の匂い。
フェルメリアの中央市場は、今頃かなり賑わっているのだろう。
だが碧たちは、そこへは行かなかった。
行きたい気持ちはあった。
けれど、三人の前には、月市よりも気になるものがあった。
家の中。
竈の火を小さく灯し、三人は床に広げた布の前に座っていた。
その上には、夕方に取ってきた琥珀色の穂が並んでいる。
「……これを食べられるようにするんですよね」
リゼが言う。
「たぶん」
碧はそう答えた。
「今日はたぶんが多いですね」
「分かんないこと多すぎるんだよ」
碧は苦笑する。
米を炊くことは、なんとなく覚えていた。
洗って、水を入れて、火にかける。
それは身体が覚えている。
けれど。
稲穂から米にする方法なんて、ほとんど知らない。
米は、袋に入って売っているものだった。
白くて、さらさらしていて、当たり前に炊飯器へ入れるものだった。
その前に、どれだけの手間があるのか。
碧は今さら、その前に座っていた。
◇
「まず、穂から粒を外す」
碧は稲穂を一本取る。
指でしごく。
ぽろぽろと、籾が布の上へ落ちた。
「こういう感じ」
「これならできそうです」
リゼはすぐに真似をした。
丁寧に、一本ずつ。
細い指で穂を押さえ、粒を落としていく。
一方、ルカは数本まとめて掴んだ。
ばさばさ。
雑に振る。
「おい、飛ぶ飛ぶ」
「落ちた」
「床にもな」
「拾えばいいじゃん」
「そういう問題か?」
碧が言うと、ルカは少しだけ頬を膨らませた。
だが次からは、布の中央へ向けてやるようになった。
興味がない顔をしている。
でも、手は止まらない。
むしろ一番速い。
「……ルカ、うまいな」
「別に」
「いや、速い」
「食べるんでしょ」
短くそう言った。
碧は少しだけ笑った。
◇
しばらくすると、布の上には籾が小さな山になった。
だが、そこからが問題だった。
「これ、まだ殻がついてるんですよね」
リゼが一粒つまむ。
「そう。これを外さないといけない」
「どうやって?」
「……こする?」
「たぶんって顔してます」
「たぶんだからな」
碧は籾を少し手に取り、両手で擦ってみる。
ざらざらとした感触。
殻が少し割れる。
だが、白い粒はほとんど出てこない。
「うーん……」
「だめ?」
ルカが覗き込む。
「全然だめではないけど、効率悪い」
「こう?」
ルカは籾を一粒取ると、爪で器用に殻を割った。
中から小さな粒が出る。
「お」
「できた」
「一粒だけな」
「全部やればいい」
「何日かかるんだよ」
碧は額を押さえた。
リゼが周囲を見回す。
「石で軽く押すのはどうですか?」
「やってみるか」
碧は平たい石を持ってきた。
布の上に籾を少し置き、その上から軽く押す。
ごり、と音がした。
殻が割れる。
だが。
「あ」
白い粒まで割れていた。
「強すぎましたね」
「難しいな……」
力を抜く。
今度は殻が外れない。
少し強くする。
また割れる。
「なんだこれ」
碧は思わず呟いた。
「米って、こんな面倒だったのか……」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
◇
しばらく試した結果、三人はやり方を少し変えた。
まず、籾を布袋に少し入れる。
それを木の棒で軽く叩く。
強く叩くと割れる。
弱すぎると殻が外れない。
何度も試すうちに、少しずつ加減が分かってきた。
ぱらぱら。
殻が割れた籾を、浅い木皿へ移す。
そこへ息を吹きかける。
軽い籾殻がふわっと飛んだ。
「わっ」
リゼが顔を背ける。
耳に籾殻がついた。
「ごめん」
「いえ……」
リゼは耳をぱたぱた動かす。
籾殻が落ちた。
ルカが少し笑う。
「耳、便利」
「便利じゃありません……」
「でも取れた」
「そうですけど」
そんなやり取りをしながら、作業は続いた。
籾を叩く。
殻を飛ばす。
残った粒を拾う。
割れたものを分ける。
殻が残ったものをもう一度叩く。
地味だった。
驚くほど、地味だった。
けれど、少しずつ。
昨日よりずっと白い粒に近づいていた。
◇
夜はさらに深くなっていた。
月市の音は、少し遠くなっている。
火の明かりが、三人の手元を照らしていた。
リゼは黙々と粒を選り分けている。
割れた粒。
殻が残った粒。
綺麗に取れた粒。
几帳面に、小さな山を三つ作っていた。
「リゼ、細かい作業向いてるな」
「そうでしょうか」
「俺なら途中で混ぜる」
「混ぜないでくださいね」
「はい」
碧が素直に返すと、リゼは少し笑った。
ルカは、いつの間にか綺麗な粒だけを選んでいた。
目がいいのか、手が早いのか。
殻の残った粒をすぐ見つける。
「これ、まだ」
「あ、ほんとだ」
「これも」
「よく分かるな」
「見れば分かる」
「すごいな」
「別に」
ルカはそっぽを向く。
だが、手元の粒を大事そうに木皿へ移していた。
◇
気づけば、布の上にあった稲穂の山はかなり減っていた。
だが、できた米はほんの少しだった。
小さな木椀の底に、すこし溜まる程度。
「……これだけか」
碧は思わず呟いた。
あれだけ穂を持って帰って。
あれだけ時間をかけて。
できたのは、ほんの一握りにも満たない。
リゼも木椀を覗き込む。
「大変なんですね」
「うん」
碧は静かに頷いた。
「大変なんだな」
米は、当たり前にあるものではなかった。
白い袋に入って、店で買えるものではなかった。
誰かが育てて。
刈って。
干して。
叩いて。
殻を外して。
白い粒にして。
ようやく、食卓に届く。
その当たり前を、碧は何も知らずに食べていた。
「……すげぇな」
「なにが?」
ルカが聞く。
「米」
「草じゃん」
「草だけど」
碧は木椀の中を見る。
「草じゃないんだよ」
ルカは少しだけ首を傾げた。
けれど、何も言わなかった。
◇
「炊く?」
ルカが聞いた。
その声は、いつもより少しだけ早かった。
碧は木椀を見る。
量は少ない。
炊くには心もとない。
でも。
「……少しだけなら」
「やる」
即答だった。
「分かりやすいな、お前」
「別に」
ルカは顔を逸らす。
リゼはくすっと笑った。
「でも、私も食べてみたいです」
「じゃあ、ほんの少しだけな」
碧は小さな鍋を出した。
米を洗う。
水はすぐに白く濁った。
前よりも、少しだけ綺麗な粒。
でもまだ殻が混ざっている。
完全ではない。
それでも、昨日よりずっと米らしかった。
水を替えて、小さな鍋に移す。
火にかける。
しばらくすると、またあの匂いがした。
甘くて、柔らかい匂い。
リゼの耳が立つ。
ルカの尾が少し揺れる。
碧はそれを見て、少しだけ笑った。
◇
炊き上がった米は、本当に少なかった。
三人で分ければ、一口ずつ。
それでも、湯気はちゃんと立っていた。
碧は木匙で分ける。
リゼへ。
ルカへ。
そして自分へ。
「いただきます」
思わずそう言ってしまった。
リゼが不思議そうに瞬きをする。
「それ、何ですか?」
「あ……食べる前に言う言葉」
「碧さんのいた場所の?」
「うん」
リゼは少しだけ考えてから、小さく頭を下げた。
「いただきます」
ルカも、少し遅れてぼそっと言う。
「……いただきます」
碧は少し驚いた。
それから、胸の奥が少しだけ温かくなる。
三人は、ほんの少しの米を口に入れた。
前より、少し柔らかい。
少しだけ、甘い。
殻が残っていて、食感は悪い。
でも。
「……昨日よりうまい」
ルカが小さく言った。
碧は笑う。
「だろ」
「もっといる」
「だと思った」
リゼもゆっくり噛んでから言う。
「手間がかかった分、味が分かる気がします」
「分かる」
碧は頷いた。
米は、ただ見つければ終わりじゃない。
食べ物にするには、手がいる。
時間がいる。
誰かと向き合う夜がいる。
白い粒は、まだほんの少ししかない。
でも、その少しを三人で食べた。
それだけで、碧には十分だった。
◇
外では、月市の音が少しずつ静かになっていた。
満月の光が、屋根の隙間から差し込んでいる。
床の上には、まだ籾殻が少し散らばっていた。
明日、掃除しなければならない。
そしてまた、穂を集めなければならない。
もっと上手く殻を外す方法も考えなければならない。
やることは山ほどある。
でも、碧は嫌ではなかった。
リゼは眠そうに耳を垂らしている。
ルカは空になった木椀を、まだ少し名残惜しそうに見ていた。
「明日もやる?」
ルカが聞く。
「やる」
碧が答える。
「じゃあ来る」
「もういるだろ」
「明日もいる」
ルカは当然みたいに言った。
リゼが小さく笑う。
家の中に、米の湯気の匂いがまだ少しだけ残っていた。
それはもう、碧だけの懐かしさではなくなり始めていた。




