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ごはん革命  作者: Sen
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あの日の景色

 昼営業が終わった頃、オステリア・ジーノの店内はようやく静かになった。


 鍋の底に残ったスープを別の器へ移し、皿を洗い、卓を拭く。


 いつもの作業。


 いつもの匂い。


 だが碧は、その日、どこか落ち着かなかった。


 厨房の隅に置いた麻袋へ、何度も視線が向いてしまう。


 鳥餌屋で買った米。


 昨日、店の釜で炊いた白いごはん。


 そして、アイナが言っていた言葉。


 ――フェルメリアの近くにもあるわ。


 碧は手元の皿を洗いながら、ぼんやり考えていた。


「碧」


「はい」


「皿、もう綺麗だぞ」


「え?」


 ジーノに言われて、碧は手元を見る。


 同じ皿を、ずっと洗っていた。


「……すみません」


「気になるなら見てこい」


 ジーノは鍋を拭きながら、何でもないように言った。


 碧は少し驚く。


「いいんですか?」


「どうせ今日は満月だ」


 ジーノは店の外へ顎を向ける。


「月市に客が流れる。うちはそこまで混まねぇ」


 月市。


 フェルメリアでは、満月の夜に中央市場で夜市が開かれるらしい。


 収穫物や酒、焼いた鳥肉、甘い菓子の露店が並び、楽師や芸人まで集まる。


 満月の明かりの下で、街中が夜遅くまで賑わう日。


 そう聞いていた。


 リゼが少し心配そうに言う。


「でも、夜の営業は……」


「元々一人でやってた店だ」


 ジーノは短く返した。


「お前らいないくらいで潰れねぇよ」


「言い方……」


 碧が苦笑する。


 ジーノは少しだけ肩をすくめた。


「ただし、遅くなりすぎるなよ」


「はい」


 碧が頷くと、リゼもすぐに前へ出た。


「私も行きます」


「え、いいのか?」


「私も見たいです。碧さんが言っていたもの」


 その時、窓の外から声がした。


「じゃあ私も行く」


 見ると、ルカが窓枠に腰掛けていた。


「お前いつからいたんだよ」


「さっき」


「さっきっていつ」


「皿をずっと洗ってた時」


「見てたなら言えよ」


「面白かったから」


 ルカは平然としている。


 だが、その目は一瞬だけ、厨房の隅の麻袋へ向いた。


 昨日、米を誰よりも黙々と食べていたのはルカだった。


 好きだとは言わない。


 けれど、嫌いじゃないと言って、何度も器へ手を伸ばしていた。


 碧はそれに気づいたが、何も言わなかった。


     ◇


 三人は、ポルトヴェラ方面へ続く街道を歩いた。


 フェルメリアの城壁が背後に遠ざかっていく。


 空はまだ明るいが、日差しは少しずつ傾き始めていた。


 碧はその道を、前にも通っていた。


 この世界へ来た日。


 リゼと一緒に、けん車に揺られて。


 何も分からなかった。


 金もない。


 家もない。


 働く場所もない。


 ただ、知らない街へ向かっていた。


「……ここ、通ったよな」


 碧が呟く。


 リゼは少し考えてから頷いた。


「はい。最初にフェルメリアへ来た時ですね」


「あの時、外見ててさ」


「はい」


「なんか、琥珀色の景色があった気がしたんだ」


 あの時は、それが何か分からなかった。


 ただ、綺麗だと思った。


 疲れていて、腹が減っていて、不安で。


 それでも、風に揺れる琥珀色だけは、妙に覚えていた。


 ルカは少し先を歩きながら、退屈そうに言う。


「草ならその辺にいっぱいあるよ」


「それが問題なんだよ」


「草が?」


「たぶん」


「変なの」


 ルカはそう言った。


 けれど、完全に興味がないわけではなさそうだった。


 道端の細い草を指で弾きながら、ちらちらと碧の方を見ている。


     ◇


 街道を少し外れた低い土地に、それはあった。


 水は、もうほとんど引いている。


 だが、ところどころのくぼみに浅い水が残り、夕日を反射していた。


 足元の土は乾ききってはいない。


 踏めば少し沈む。


 だが、歩けないほどではなかった。


 その低地一面に、琥珀色の穂が垂れていた。


 畑ではなかった。


 柵もない。


 畦もない。


 人の手で整えられた場所には見えない。


 ただ、風の通る低地に、勝手に生えている草の群れ。


 夕暮れの光を浴びて、その穂は静かに輝いていた。


「……あ」


 碧は立ち止まった。


 胸の奥が、ぎゅっと縮む。


 間違いなかった。


 あの日見た景色。


 そして、今なら分かる景色。


「これが……」


 リゼが隣で小さく呟く。


「碧さんの言っていたものですか?」


 碧は答えず、低地へ足を踏み入れた。


 穂を一本、そっと摘む。


 指で軽く揉む。


 乾いた殻が外れ、中から小さな粒が出てきた。


 細長い。


 硬い。


 見覚えのある粒。


「……稲だ」


 声が震えた。


「本当に、稲だ」


 リゼは碧の手元を覗き込む。


「これが、あの白いごはんになるんですね」


「うん」


 碧は頷く。


「手間はかかるけどな」


 ルカも穂を一本取って、じっと見た。


「ただの草にしか見えない」


「この世界じゃ、そうなんだろうな」


 碧はそう答えた。


 けれど、ルカはその穂をすぐには捨てなかった。


 指先で何度か弾き、耳元で軽く振る。


「……これは?」


「ん?」


「中身ある?」


 碧は少し驚いて、ルカの持つ穂を見る。


「たぶんある。重いし、粒も詰まってる」


「ふぅん」


 ルカは興味なさそうに言った。


 だが、その穂を自分の手元へそっと加えた。


 碧は少しだけ笑いそうになった。


 ルカは気づかないふりをして、別の穂へ手を伸ばしていた。


     ◇


 三人は、少しだけ穂を集めることにした。


 碧は手近な穂を選び、折っていく。


 リゼも慎重に真似をした。


「これ、どれでもいいんですか?」


「実が入ってるやつがいい。軽すぎるのは中身ないかも」


「なるほど……」


 リゼは真剣に穂を見比べる。


 一方、ルカは何本かまとめて折ったあと、一本一本を指で弾いていた。


「軽いの、だめなんでしょ」


「お、分かってきたな」


「別に」


 ルカはそっぽを向く。


 それでも、明らかに中身のありそうな穂だけを選んでいた。


 だが、少し集めただけで分かった。


 これは簡単ではない。


 穂を取るだけでも手間がかかる。


 このあと、脱穀しなければならない。


 籾殻を外さなければならない。


 食べられる粒を選ばなければならない。


 炊き方も、まだ安定していない。


 米はある。


 でも、すぐに店で使えるわけではない。


 それでも。


 ある。


 この世界に、ちゃんとある。


 それだけで、碧には十分だった。


     ◇


 風が吹いた。


 稲穂が一斉に揺れる。


 その時、ルカの胸元で、琥珀色の飾りが小さく揺れた。


 碧は一瞬だけ、それを見る。


 ルカのネックレス。


 服の隙間から覗く、古びた飾り。


 夕日の中で、その色は稲穂とよく似ていた。


 形も、少しだけ似ている気がした。


 細く垂れる穂。


 いくつもの粒。


 それを簡単な模様にしたような。


 だが、確かめるほどのことでもなかった。


 碧には分からない。


 ルカにも、たぶん分からない。


 ルカは手の中の穂を見たあと、無意識のように胸元へ触れた。


 指先が、琥珀色の飾りに重なる。


 けれど、すぐに手を離した。


「これ、そんなに大事?」


 ルカが聞く。


「うん」


「ふぅん」


「ルカにはただの草に見えるか?」


「見える」


「だよな」


 碧は少し笑った。


「でも、俺には違うんだ」


 ルカは碧を少し見た。


 それから、何も言わずにまた穂を折った。


     ◇


 街道から、車輪の音が聞こえてきた。


 土を踏む重い音。


 荷台の軋む音。


 見ると、犬人の男が一人でけん車を引いていた。


 太い肩に革紐を掛け、背中を丸めるようにして歩いている。


 荷台には、麦袋や木箱が積まれていた。


 月市へ運ぶ荷なのかもしれない。


 犬人の男は、低地にいる碧たちを見て声を上げた。


「あのー、そんなところで何してるんです?」


 碧は顔を上げる。


「少し、草を集めてます」


「草?」


 犬人の男は足を止め、息を吐いた。


「鳥の餌ですか?」


 やはり、そういう認識なのだ。


 碧は一瞬迷ってから言った。


「食べます」


「食べる?」


 犬人の男は目を丸くする。


「それを?」


「はい」


「へぇ。変わった人もいるもんですねぇ」


 馬鹿にするというより、単純に珍しがっているだけだった。


 犬人の男は荷車を少し引き直しながら笑う。


「俺らはそんなもん、水鳥がついばんでるとこしか見たことないですよ」


「そうなんですね」


「もうすぐ日が落ちるんで、気をつけてくださいね」


 男はそう言って、再びけん車を引き始めた。


 荷台の麦袋。


 豆の袋。


 玉ねぎらしい木箱。


 それらは、たぶんカンポリア方面から来たものではないかと、碧は思った。


 オステリアで使う食材が、こうして街道を通ってフェルメリアへ入る。


 市場に並び、店へ届く。


 その流れのすぐ横に、この稲はある。


 誰にも見られずに。


 誰にも使われずに。


     ◇


 日が沈み始めた。


 空が赤くなり、低地の穂はさらに濃い琥珀色へ変わっていく。


 碧たちは、抱えられるだけの穂を持って街道へ戻った。


 帰り道、ルカはずっと一本の穂を持っていた。


 興味がないなら捨てればいい。


 けれど、ルカは何度も指で穂先を撫でている。


「気に入ったのか?」


 碧が聞くと、ルカはすぐに穂を下げた。


「別に」


「じゃあ捨てれば?」


「……あとで食べるんでしょ」


 そう言って、ルカはそっぽを向いた。


 リゼが少しだけ笑う。


 ルカはそれを見て、さらに顔を背けた。


 フェルメリアの方角には、もう灯りが点き始めている。


 市場の方から、音楽のようなものが聞こえた。


 満月の夜。


 月市が始まっているのだろう。


 人の声。


 笑い声。


 焼いたものの匂い。


 街は、夜へ向かって賑やかになっていた。


「楽しそうですね」


 リゼが少しだけ市場の方を見る。


「行きたい?」


 碧が聞く。


「少しだけ」


「じゃあ、店戻ったあと見に行くか」


「いいんですか?」


「ジーノさんに怒られなかったら」


 ルカが横から言う。


「ジーノはたぶん怒らない」


「なんで分かるんだよ」


「怒る時はもっと先に怒る」


「妙に説得力あるな……」


 三人はそんな話をしながら、フェルメリアへ戻った。


     ◇


 オステリアへ戻ると、店は本当に静かだった。


 客は数人だけ。


 ジーノは一人で鍋を混ぜている。


「戻ったか」


「はい」


「遅かったな」


「すみません」


「見つかったのか」


 碧は抱えていた琥珀色の穂を、厨房の台へ置いた。


 ジーノはそれを見て、少しだけ眉を上げる。


「……ほんとに雑草だな」


「はい」


 碧は頷いた。


「でも、食べられます」


「だろうな」


「なんで分かるんですか」


 ジーノは鍋を混ぜながら言う。


「お前の顔見りゃ分かる」


 碧は少し黙った。


 それから、台の上に並んだ稲穂を見る。


 この世界では、ただの雑草。


 水鳥がついばむだけの草。


 でも、碧には違った。


 これは食べ物だ。


 手をかければ、人を満たせる。


 店を変えられる。


 そしてたぶん。


 この世界の見え方すら、少しずつ変えられる。


「で」


 ジーノが言う。


「それ、飯にするにはどれくらいかかる」


「……結構かかります」


「だろうな」


 ジーノは短く笑った。


「まずは少しずつだ」


 その言葉に、碧は頷いた。


 外では、月市の賑わいが夜のフェルメリアへ広がっていた。


 厨房の中では、琥珀色の穂が静かに灯りを受けている。


 ルカはその横で、持ち帰った一本の穂をまだ指で弄っていた。

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