香草チーズ
その日の夜。
オステリア・ジーノは、いつもより少しだけ賑わっていた。
玉ねぎのズッパ。
改良した豆のスープ。
その二つが出るようになってから、夜に酒を飲みに来る客が増えた。
獣人だけではない。
人間の商人や、旅人らしい客も混ざるようになっていた。
「ズッパ一つ!」
「豆のスープ、こっちにも!」
「エール追加!」
「あぁ、いいよ」
ジーノの気の抜けた声が、厨房から返る。
碧は鍋の前で玉ねぎを混ぜながら、空いた皿を横へ寄せた。
狭い厨房。
でも、以前よりずっと動きやすい。
香草は手元。
皿はすぐ横。
水桶は足元に引っかからない場所。
小さな変更ばかりだったが、その小ささが店を回していた。
◇
扉が開いた。
「あー、今日も混んでる」
聞き慣れた声だった。
セレナが入ってくる。
深緑のディアンドル。
軽くまくった袖。
いつもの革エプロン。
片手には小さな包みを持っていた。
「ジーノ、エール」
「あぁ、いいよ」
セレナはカウンターに腰を下ろし、出されたエールを一口飲む。
「ん……生き返る」
それから、厨房の方へ視線を向けた。
「ねぇ、碧」
「はい?」
「最近、あんた忙しそうだね」
「まあ、ありがたいことに」
「玉ねぎのやつ、評判いいもんね」
セレナはにやりと笑う。
「あれ、あんたが作ったんでしょ」
「まあ……知ってた料理を真似しただけですけど」
「ふぅん」
セレナは酒杯を揺らした。
目元が少し赤い。
もういくらか飲んでいるのかもしれない。
「じゃあさ」
「はい」
「なんか、いいもの知らないの?」
「いいもの?」
「酒飲む時にさ、ちょっとつまめるやつ」
セレナは空いた皿を指先で叩いた。
「ズッパは美味しいけど、ちょっと重いんだよ。腹に溜まりすぎる」
「まあ、パン入ってますからね」
「エール飲みながら、ちょいちょい食べられるやつが欲しいの」
セレナは身を乗り出す。
距離が近い。
「ねぇ、あるでしょ。あんた、変なこと知ってるんだから」
「変なことって……」
「褒めてるんだよ?」
「絶対違うでしょ」
セレナは楽しそうに笑った。
その横で、ジーノが鍋を混ぜながらぼそっと言う。
「また面倒なこと言い出したな」
「面倒じゃないって。客の意見だよ」
「酔っ払いのわがままだろ」
「それも客の意見」
「都合いいな」
碧は苦笑しながら、セレナの持っていた包みに目を向けた。
「それ、チーズですか?」
「そう」
セレナは包みを開く。
白い若いチーズが出てきた。
「今日は少し余ったから持ってきた」
碧はそれを見て、少し考えた。
酒に合う軽いもの。
手間がかからないもの。
今の店にあるもので出せるもの。
頭の中に、元の世界のメニューがいくつか浮かぶ。
前菜。
小皿。
チーズ。
香草。
「……これ、少し使ってもいいですか?」
セレナが目を細める。
「いいけど、変なことしないでよ」
「たぶん美味いです」
「その言い方、ちょっと不安なんだけど」
◇
碧はチーズを薄く切った。
皿に並べる。
そこへ、アイナが持ってきた秋香草を少し刻んで散らす。
塩をほんの少し。
油を少しだけ垂らす。
それだけだった。
「……終わり?」
セレナが首を傾げる。
「終わりです」
「それ料理?」
ジーノが言う。
「酒のつまみなら、これくらいがちょうどいいんですよ」
碧は皿をセレナの前へ置いた。
「香草チーズです」
「そのままだね」
「名前は今考えました」
セレナは笑いながら、チーズを一切れ摘まむ。
口へ運ぶ。
少し噛む。
それから、エールを飲んだ。
「……あ」
短い声だった。
「どうですか?」
「いい」
セレナはもう一切れ食べる。
「これ、エールに合う」
その反応に、碧は少しほっとした。
チーズの柔らかさ。
香草の匂い。
塩気。
油の丸さ。
確かに、酒と合わせるなら悪くない。
「ジーノ」
セレナが皿を指差す。
「これ、出しなよ」
「切って香草かけただけだろ」
「だからいいんじゃない」
セレナは少し頬を赤くしたまま笑う。
「重くないし、ちょっとずつ食べられるし」
近くの客が、その皿を見て声を上げた。
「なんだそれ」
「新しいやつ?」
セレナが得意そうに言う。
「香草チーズ」
「うまいのか?」
「エールに合う」
それで十分だったらしい。
「じゃあ俺にも一皿」
「こっちも」
碧は目を丸くした。
「え、出すんですか?」
ジーノは少しだけ考えた。
それから、肩をすくめる。
「あぁ、いいよ」
いつもの返事だった。
◇
香草チーズは、思ったよりよく出た。
ズッパほど腹に溜まるものではない。
スープのように温まるものでもない。
けれど、酒を飲む客にはちょうど良かった。
切る。
並べる。
香草を散らす。
油と塩。
それだけで出せる。
厨房の負担も少ない。
「……楽だな、これ」
ジーノがぼそっと言う。
「でしょう」
「料理かどうかは怪しいけどな」
「売れてますよ」
「それはそうだ」
ジーノはちらりとカウンターを見る。
セレナは三皿目の香草チーズをつまみながら、隣の客と笑っていた。
「いいじゃん、こういうの」
セレナが言う。
「酒だけだと口が寂しいし」
「じゃあ飲む量減らせばいいだろ」
ジーノが返す。
「それは違う」
「何が違うんだよ」
「気持ち」
「知らん」
そんなやり取りに、リゼが少し笑っている。
ルカは店の隅で、いつの間にか香草チーズを一切れ食べていた。
「お前、それ誰のだよ」
「ジーノがくれた」
「またかよ」
ルカは無表情で噛む。
「……しょっぱい」
「嫌い?」
「嫌いじゃない」
いつもの答えだった。
◇
営業が少し落ち着いた頃。
ジーノはセレナの前に立った。
「セレナ」
「んー?」
「そのチーズ、余りじゃなくて、毎月いくつか回せるか」
セレナの手が止まる。
「うちのチーズ、店に置くの?」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど」
セレナは少しだけ真面目な顔になる。
いつもの軽い笑いが、少し薄れた。
「若いチーズは日持ちしないよ。その日に作ったやつは、その日のうちに使った方がいい」
「分かってる」
「量も毎日は無理。日によって違うし」
「それも分かってる」
ジーノは頷く。
「だから、出せる時だけでいい」
「ちゃんと払ってよ?」
「当たり前だろ」
「じゃあ少し高めで」
「帰れ」
「冗談だって」
セレナは笑った。
でも、どこか嬉しそうだった。
自分の作ったものが、店の皿になる。
それは差し入れとは違う。
ちゃんとした取引だ。
「市場に出す分から少し回すくらいなら、安くできるよ」
セレナは言った。
「その代わり、余ったからって毎回タダにはしないからね」
「それでいい」
ジーノは短く答える。
その横で、碧は少し考えていた。
アイナの香草。
セレナのチーズ。
どちらも、市場に並ぶ前に店へ来ている。
だから少し安い。
そして、品質も分かる。
市場で適当に買うより、ずっと安定する。
(直接、買う……)
その感覚が、碧の中に小さく残った。
◇
その夜、店の壁に新しい板が掛けられた。
『香草チーズ』
相変わらず、ジーノの字は雑だった。
「またそのままですね」
リゼが言う。
「分かりやすいだろ」
「まあ、分かりますけど」
碧も苦笑する。
ジーノは腕を組み、板を眺める。
「切るだけで売れるなら悪くねぇ」
「一応、香草散らしてます」
「じゃあ、散らすだけで売れる」
「言い方」
セレナがカウンターで笑った。
「碧、次も何か考えてよ」
「そんな急に出ませんよ」
「出るでしょ。変なこと知ってるんだから」
「だから変なことって言わないでください」
碧が言うと、セレナは楽しそうに目を細めた。
「ほんと分かりやすい顔するねぇ」
またからかわれている。
碧は軽くため息をついた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
◇
営業後。
空になった皿を片付けながら、リゼが言った。
「今日は、食事じゃない料理が増えましたね」
「食事じゃない料理?」
「お腹いっぱいにするためじゃなくて、楽しむための料理です」
碧は少しだけ手を止めた。
たしかに、そうかもしれない。
スープは腹を満たすもの。
ズッパは温まるもの。
米は、懐かしいもの。
でも香草チーズは、少し違う。
酒を飲みながら、誰かと話しながら、少しずつ食べるもの。
腹を満たすためだけではない。
時間を楽しくするための皿。
「……そうだな」
碧は小さく頷いた。
オステリア・ジーノは、少しずつ変わっていく。
ただ食べるだけの場所から。
ただ飲むだけの場所から。
人が集まり、話し、少し長くいたくなる場所へ。
その始まりは、白いチーズを切っただけの、小さな皿だった。




