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ごはん革命  作者: Sen
15/36

香草チーズ

 その日の夜。


 オステリア・ジーノは、いつもより少しだけ賑わっていた。


 玉ねぎのズッパ。


 改良した豆のスープ。


 その二つが出るようになってから、夜に酒を飲みに来る客が増えた。


 獣人だけではない。


 人間の商人や、旅人らしい客も混ざるようになっていた。


「ズッパ一つ!」


「豆のスープ、こっちにも!」


「エール追加!」


「あぁ、いいよ」


 ジーノの気の抜けた声が、厨房から返る。


 碧は鍋の前で玉ねぎを混ぜながら、空いた皿を横へ寄せた。


 狭い厨房。


 でも、以前よりずっと動きやすい。


 香草は手元。


 皿はすぐ横。


 水桶は足元に引っかからない場所。


 小さな変更ばかりだったが、その小ささが店を回していた。


     ◇


 扉が開いた。


「あー、今日も混んでる」


 聞き慣れた声だった。


 セレナが入ってくる。


 深緑のディアンドル。


 軽くまくった袖。


 いつもの革エプロン。


 片手には小さな包みを持っていた。


「ジーノ、エール」


「あぁ、いいよ」


 セレナはカウンターに腰を下ろし、出されたエールを一口飲む。


「ん……生き返る」


 それから、厨房の方へ視線を向けた。


「ねぇ、碧」


「はい?」


「最近、あんた忙しそうだね」


「まあ、ありがたいことに」


「玉ねぎのやつ、評判いいもんね」


 セレナはにやりと笑う。


「あれ、あんたが作ったんでしょ」


「まあ……知ってた料理を真似しただけですけど」


「ふぅん」


 セレナは酒杯を揺らした。


 目元が少し赤い。


 もういくらか飲んでいるのかもしれない。


「じゃあさ」


「はい」


「なんか、いいもの知らないの?」


「いいもの?」


「酒飲む時にさ、ちょっとつまめるやつ」


 セレナは空いた皿を指先で叩いた。


「ズッパは美味しいけど、ちょっと重いんだよ。腹に溜まりすぎる」


「まあ、パン入ってますからね」


「エール飲みながら、ちょいちょい食べられるやつが欲しいの」


 セレナは身を乗り出す。


 距離が近い。


「ねぇ、あるでしょ。あんた、変なこと知ってるんだから」


「変なことって……」


「褒めてるんだよ?」


「絶対違うでしょ」


 セレナは楽しそうに笑った。


 その横で、ジーノが鍋を混ぜながらぼそっと言う。


「また面倒なこと言い出したな」


「面倒じゃないって。客の意見だよ」


「酔っ払いのわがままだろ」


「それも客の意見」


「都合いいな」


 碧は苦笑しながら、セレナの持っていた包みに目を向けた。


「それ、チーズですか?」


「そう」


 セレナは包みを開く。


 白い若いチーズが出てきた。


「今日は少し余ったから持ってきた」


 碧はそれを見て、少し考えた。


 酒に合う軽いもの。


 手間がかからないもの。


 今の店にあるもので出せるもの。


 頭の中に、元の世界のメニューがいくつか浮かぶ。


 前菜。


 小皿。


 チーズ。


 香草。


「……これ、少し使ってもいいですか?」


 セレナが目を細める。


「いいけど、変なことしないでよ」


「たぶん美味いです」


「その言い方、ちょっと不安なんだけど」


     ◇


 碧はチーズを薄く切った。


 皿に並べる。


 そこへ、アイナが持ってきた秋香草を少し刻んで散らす。


 塩をほんの少し。


 油を少しだけ垂らす。


 それだけだった。


「……終わり?」


 セレナが首を傾げる。


「終わりです」


「それ料理?」


 ジーノが言う。


「酒のつまみなら、これくらいがちょうどいいんですよ」


 碧は皿をセレナの前へ置いた。


「香草チーズです」


「そのままだね」


「名前は今考えました」


 セレナは笑いながら、チーズを一切れ摘まむ。


 口へ運ぶ。


 少し噛む。


 それから、エールを飲んだ。


「……あ」


 短い声だった。


「どうですか?」


「いい」


 セレナはもう一切れ食べる。


「これ、エールに合う」


 その反応に、碧は少しほっとした。


 チーズの柔らかさ。


 香草の匂い。


 塩気。


 油の丸さ。


 確かに、酒と合わせるなら悪くない。


「ジーノ」


 セレナが皿を指差す。


「これ、出しなよ」


「切って香草かけただけだろ」


「だからいいんじゃない」


 セレナは少し頬を赤くしたまま笑う。


「重くないし、ちょっとずつ食べられるし」


 近くの客が、その皿を見て声を上げた。


「なんだそれ」


「新しいやつ?」


 セレナが得意そうに言う。


「香草チーズ」


「うまいのか?」


「エールに合う」


 それで十分だったらしい。


「じゃあ俺にも一皿」


「こっちも」


 碧は目を丸くした。


「え、出すんですか?」


 ジーノは少しだけ考えた。


 それから、肩をすくめる。


「あぁ、いいよ」


 いつもの返事だった。


     ◇


 香草チーズは、思ったよりよく出た。


 ズッパほど腹に溜まるものではない。


 スープのように温まるものでもない。


 けれど、酒を飲む客にはちょうど良かった。


 切る。


 並べる。


 香草を散らす。


 油と塩。


 それだけで出せる。


 厨房の負担も少ない。


「……楽だな、これ」


 ジーノがぼそっと言う。


「でしょう」


「料理かどうかは怪しいけどな」


「売れてますよ」


「それはそうだ」


 ジーノはちらりとカウンターを見る。


 セレナは三皿目の香草チーズをつまみながら、隣の客と笑っていた。


「いいじゃん、こういうの」


 セレナが言う。


「酒だけだと口が寂しいし」


「じゃあ飲む量減らせばいいだろ」


 ジーノが返す。


「それは違う」


「何が違うんだよ」


「気持ち」


「知らん」


 そんなやり取りに、リゼが少し笑っている。


 ルカは店の隅で、いつの間にか香草チーズを一切れ食べていた。


「お前、それ誰のだよ」


「ジーノがくれた」


「またかよ」


 ルカは無表情で噛む。


「……しょっぱい」


「嫌い?」


「嫌いじゃない」


 いつもの答えだった。


     ◇


 営業が少し落ち着いた頃。


 ジーノはセレナの前に立った。


「セレナ」


「んー?」


「そのチーズ、余りじゃなくて、毎月いくつか回せるか」


 セレナの手が止まる。


「うちのチーズ、店に置くの?」


「嫌か?」


「嫌じゃないけど」


 セレナは少しだけ真面目な顔になる。


 いつもの軽い笑いが、少し薄れた。


「若いチーズは日持ちしないよ。その日に作ったやつは、その日のうちに使った方がいい」


「分かってる」


「量も毎日は無理。日によって違うし」


「それも分かってる」


 ジーノは頷く。


「だから、出せる時だけでいい」


「ちゃんと払ってよ?」


「当たり前だろ」


「じゃあ少し高めで」


「帰れ」


「冗談だって」


 セレナは笑った。


 でも、どこか嬉しそうだった。


 自分の作ったものが、店の皿になる。


 それは差し入れとは違う。


 ちゃんとした取引だ。


「市場に出す分から少し回すくらいなら、安くできるよ」


 セレナは言った。


「その代わり、余ったからって毎回タダにはしないからね」


「それでいい」


 ジーノは短く答える。


 その横で、碧は少し考えていた。


 アイナの香草。


 セレナのチーズ。


 どちらも、市場に並ぶ前に店へ来ている。


 だから少し安い。


 そして、品質も分かる。


 市場で適当に買うより、ずっと安定する。


(直接、買う……)


 その感覚が、碧の中に小さく残った。


     ◇


 その夜、店の壁に新しい板が掛けられた。


『香草チーズ』


 相変わらず、ジーノの字は雑だった。


「またそのままですね」


 リゼが言う。


「分かりやすいだろ」


「まあ、分かりますけど」


 碧も苦笑する。


 ジーノは腕を組み、板を眺める。


「切るだけで売れるなら悪くねぇ」


「一応、香草散らしてます」


「じゃあ、散らすだけで売れる」


「言い方」


 セレナがカウンターで笑った。


「碧、次も何か考えてよ」


「そんな急に出ませんよ」


「出るでしょ。変なこと知ってるんだから」


「だから変なことって言わないでください」


 碧が言うと、セレナは楽しそうに目を細めた。


「ほんと分かりやすい顔するねぇ」


 またからかわれている。


 碧は軽くため息をついた。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


     ◇


 営業後。


 空になった皿を片付けながら、リゼが言った。


「今日は、食事じゃない料理が増えましたね」


「食事じゃない料理?」


「お腹いっぱいにするためじゃなくて、楽しむための料理です」


 碧は少しだけ手を止めた。


 たしかに、そうかもしれない。


 スープは腹を満たすもの。


 ズッパは温まるもの。


 米は、懐かしいもの。


 でも香草チーズは、少し違う。


 酒を飲みながら、誰かと話しながら、少しずつ食べるもの。


 腹を満たすためだけではない。


 時間を楽しくするための皿。


「……そうだな」


 碧は小さく頷いた。


 オステリア・ジーノは、少しずつ変わっていく。


 ただ食べるだけの場所から。


 ただ飲むだけの場所から。


 人が集まり、話し、少し長くいたくなる場所へ。


 その始まりは、白いチーズを切っただけの、小さな皿だった。

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