水辺の雑草
「大事な食べ物なのね」
アイナはそう言って、静かに碧を見ていた。
厨房には、まだ白い湯気が残っている。
釜の中には、少し硬めに炊き上がった米。
リゼも、ルカも、ジーノも、まだその不思議な穀物を見ていた。
碧は少しだけ言葉に詰まる。
「……まあ」
短く答える。
うまく説明できなかった。
大事。
確かにそうだ。
だが、それだけでは足りない。
懐かしい。
でも、それだけでもない。
戻りたいのか。
ここで食べたいのか。
自分でもよく分からなかった。
アイナはそれ以上聞かなかった。
代わりに、肩に掛けていた細い籠を下ろす。
「ジーノ。秋の香草だよ」
「あぁ」
ジーノは手を伸ばして籠を受け取った。
中には、乾いた香草の束がいくつも入っている。
細い葉。
紫がかった小さな花。
樹脂のような匂いがする欠片。
アイナは一つずつ取り出して、厨房の台へ並べていった。
「今月分よ。乾きが良かったから、香りは強いと思う」
「もう月の香草か。早ぇな」
「あなた、毎月同じことを言っているわ」
「そうか?」
「そうよ」
アイナは少しだけ笑った。
見た目は若い。
二十歳そこそこに見える。
だが、ジーノとの話し方は妙に落ち着いていた。
まるで、ずっと昔からこうしていたみたいだった。
碧は少し不思議に思う。
「アイナさんって、ジーノさんと長いんですか?」
アイナが碧を見る。
「取引は長いわ」
「どれくらい?」
ジーノが先に答えた。
「お前が生まれる前からじゃねぇか」
「え」
碧は思わずアイナを見る。
アイナは静かに頷いた。
「エルフは少し長く生きるから」
「少し……」
「私で六十年ほど」
「六十」
碧は固まった。
見た目と年齢が合わない。
前に店に来た牝牛人のセレナとは別の意味で、反応に困る。
ジーノは香草の匂いを確かめながら言った。
「俺とそう変わらねぇよ」
「いや、見た目が違いすぎるだろ……」
「碧さん、声に出てますよ……」
リゼが小さく言った。
アイナは怒るでもなく、静かに笑う。
「よく言われるわ」
◇
アイナは、ヴァルテーナ王国のエルフ自治領から来ているらしい。
月に一度、香草や薬草、保存に使う樹脂を持ってフェルメリアへ来る。
市場へ卸す前に、ジーノの店へ寄る。
それが、昔からの流れなのだという。
「この香草、スープに入ってたやつですか?」
碧が聞く。
「一部はな」
ジーノが答える。
「全部市場で買うより、こいつから直接買った方が香りがいい」
「そうね、それにすこしだけ安くなるの」
アイナが静かに付け足した。
「そうなのか」
「少しだけ」
「じゃあもっと安くしろ」
「別に困ってないでしょう」
「まあな」
そんな会話を聞きながら、碧は少し納得する。
ジーノのスープに、どこか独特の香りがあった理由。
それは、この香草だったのかもしれない。
アイナは香草をまとめ終えると、ふと釜へ視線を戻した。
「それ、少し食べてもいい?」
「あ、はい」
碧は米を少し器によそった。
アイナはそれを受け取り、白い粒をじっと見る。
「こうして食べる穀物は、初めて見るわ」
「知らないんですか?」
「食べ物としては」
アイナはそう言って、一口だけ食べた。
しばらく黙って噛む。
「……不思議」
「どうですか?」
「強い味ではないのに、残る」
アイナはもう一度、米を見る。
「水の匂いがする食べ物ね」
碧は少しだけ目を伏せた。
水の匂い。
言われてみれば、そうかもしれない。
田んぼ。
雨。
炊きたての湯気。
全部が一瞬だけ頭の奥で繋がった。
◇
「これ、もっと手に入らないかな……」
碧は米袋を見ながら、ぽつりと呟いた。
鳥餌屋で買った分は少ない。
数回炊けば終わってしまう。
それだけで終わらせたくなかった。
アイナが首を傾げる。
「同じものかは分からないけれど」
「え?」
「似た草なら、見たことがあるわ」
碧の手が止まる。
「どこで」
「カンポリアへ向かう途中の湿地」
カンポリア。
その名前を、碧は初めてはっきりと意識した。
「浅い水辺に、勝手に広がっている草よ。秋になると、穂が琥珀色に垂れる」
碧の胸が跳ねた。
琥珀色。
その言葉で、景色が蘇る。
フェルメリアへ来る時。
ポルトヴェラから続く街道。
街の近くの低い湿地。
一面に広がっていた、琥珀色の景色。
あれは畑ではなかった。
整えられた土地でもなかった。
ただ、風の通る水辺に、勝手に生えている草の群れだった。
でも。
今なら分かる。
あれは、稲だった。
「……あるんだ」
碧は小さく呟いた。
「この世界にも、ちゃんと」
アイナはその言葉の意味までは分からないようだった。
けれど、静かに続ける。
「フェルメリアの近くにも群れている場所はあるわ。でも、あれがずっと続くのはカンポリアの方ね」
「誰も取らないんですか?」
「水鳥が食べる草、くらいにしか見えないもの」
碧は黙った。
目の前にあった。
最初から、この世界にあった。
でも、誰もそれを食べ物として見ていなかった。
ただの草。
鳥の餌。
水辺の邪魔な穂。
それだけだった。
碧の中で、何かが静かに音を立てた気がした。
◇
「食えるなら、鳥にやるのはもったいねぇな」
ジーノが言った。
かなりジーノらしい感想だった。
「ただ、店で出すなら量がいる。鳥餌屋の袋ひとつじゃ話にならねぇ」
「ですよね」
碧は頷く。
まだ、店でどうこうできる段階ではない。
炊き方も安定していない。
精米も雑だ。
そもそも、この世界で米がどれくらい手に入るのかも分からない。
だが。
「カンポリアって、農業の国でしたよね」
リゼが言う。
「麦の国よ」
アイナが答えた。
「フェルメリアで使われる麦や豆、玉ねぎの多くは、あちらから来ている」
「じゃあ、これも……」
「作物として扱われてはいないと思うわ」
アイナは米を見た。
「でも、水の多い土地にはある。少なくとも、私は見たことがある」
それだけで十分だった。
碧にとっては。
◇
その時、アイナの視線がふと止まった。
ルカだった。
ルカは店の隅で、黙って米を食べていた。
その首元。
服の隙間から、琥珀色の飾りが少しだけ覗いている。
アイナの目が、一瞬だけそこへ向いた。
ルカはすぐに気づいた。
指でネックレスを押さえる。
「なに」
低い声だった。
アイナは少しだけ黙る。
その沈黙は、嫌なものではなかった。
けれど、妙に古かった。
「……いいえ」
アイナは静かに首を振る。
「少し、懐かしい気がしただけ」
「知らない」
ルカは短く言った。
「そう」
アイナはそれ以上聞かなかった。
碧も何も言わない。
リゼも黙っている。
ただ、厨房に残る白い湯気だけが、ゆっくりと薄くなっていった。
◇
営業前のオステリアは、少しだけ静かだった。
外では市場へ向かう荷車の音が聞こえる。
ジーノは香草の束を棚へしまいながら言った。
「カンポリアか」
「行ったことあるんですか?」
碧が聞く。
「若い頃にな」
「どんなところですか?」
「麦だらけ」
雑な答えだった。
だが、アイナが補う。
「広い畑と、水辺の低地が多いわ。フェルメリアへ向かう街道には、けん車がよく通る」
「けん車……」
「農作物を運ぶ車よ。麦、豆、玉ねぎ、干し草。そういうものを積んでくる」
碧は米袋を見る。
カンポリア。
湿地。
琥珀色の穂。
そして、この白い粒。
それはもう、ただ懐かしいだけのものではなかった。
この世界にもある。
最初からあった。
ただ、誰も食べ物として見ていなかっただけだ。
「……見つけられる」
碧は小さく呟いた。
「ん?」
ジーノが振り向く。
「いや」
碧は米袋を抱え直す。
「ちゃんと、見つけられる気がしてきました」
アイナは静かに碧を見る。
リゼは少し不思議そうに微笑んだ。
ルカは興味なさそうに米をもう一口食べている。
カンポリア。
その名前が、碧の中でゆっくりと重みを持ち始めていた。




