白い湯気
市場の奥で見つけた穀物を、碧はしばらく誰にも見せなかった。
家の棚の上。
麻袋へ入れたまま、何度も眺める。
本当に米なのか。
見間違いじゃないのか。
確認するたび、答えは変わらなかった。
米だった。
◇
「……それ、結局なんなんですか?」
夜。
竈の前で、リゼが袋を覗き込む。
碧は少し迷ってから答えた。
「俺のいた場所の主食」
「しゅしょく」
「毎日食べるものって感じ」
リゼは袋の中を見つめる。
「鳥の餌ですよ?」
「まあ見た目はな……」
碧は苦笑した。
実際、籾も少し残っている。
見慣れていない人からすれば、雑穀と変わらないのだろう。
「それ食べられるの?」
今度はルカが聞いた。
いつの間にか窓枠へ座っている。
「食える。……たぶん」
「たぶん?」
「ちゃんと炊ければ」
「たけ……れば?」
二人とも分かっていなかった。
碧は袋から米を少し取り出す。
「水入れて火にかけるんだよ」
「茹でるの?」
「いや、もっとこう……」
説明しようとして、碧は止まった。
難しい。
“炊いた米”を知らない相手に説明するのは、思ったより難しかった。
「……白くて、柔らかい」
「全然分かんない」
ルカが即答した。
◇
翌日。
碧は麻袋を抱えてオステリアへ来ていた。
家でもできなくはない。
だが、火加減を見るなら店の竈の方が確実だった。
「なんだそれ」
ジーノが鍋を混ぜながら言う。
「ちょっと試したいものがあって」
「また変な料理か?」
「料理っていうか……主食?」
「主食……」
ジーノが眉をひそめた。
碧は厨房の隅へ、例の鉄釜を置く。
家に初めてきたときの、あの煤だらけの釜だった。
「そんなのどこから持ってきたんだ」
「そこらへんに落ちてました」
「適当だなあ」
ジーノは呆れたように言ったが、それ以上は何も言わなかった。
碧は袋から米を出す。
まずは籾を落とす。
指で擦る。
完全ではないが、なんとか白い粒が出てきた。
ジーノが横から覗き込む。
「ほんと鳥餌みてぇだな」
「俺も最初そう思いました」
リゼは興味津々で見ていた。
「これが食べられるようになるんですか?」
「うん。……たぶん、俺はこれで育った」
その言葉に、自分で少し驚く。
育った。
その感覚が、妙に懐かしかった。
碧は米を水へ入れた。
白く濁る。
「洗うのか」
ジーノが言う。
「ぬか落とすんです」
「ぬか?」
「……皮みたいなもんです」
説明は曖昧だった。
碧自身、理屈を全部理解しているわけではない。
ただ、そうするものだと身体が覚えている。
何度か水を替える。
それから釜へ移した。
「で?」
「炊きます」
碧は火を見つめた。
久しぶりだった。
炊飯器じゃない。
火加減を自分で見る。
湯気。
音。
匂い。
全部頼りだ。
「失敗しそう」
ルカがぼそっと言う。
「言うな」
碧は真顔で返した。
◇
しばらくして。
釜の蓋が、ことこと揺れ始めた。
湯気が上がる。
碧は息を止める。
懐かしい匂いがした。
「……あ」
思わず声が漏れる。
甘い。
柔らかい。
パンとも豆とも違う匂い。
白い湯気が、厨房へ広がっていく。
リゼが耳を動かした。
「なんですかこれ……」
ジーノも少し驚いた顔をしている。
「穀物の匂いじゃねぇな」
ルカだけは、じっと黙って湯気を見ていた。
火を止める。
少し待つ。
碧はゆっくり蓋を開けた。
白い湯気が溢れる。
釜の中には、白い粒が並んでいた。
「……できた」
碧はしばらく動かなかった。
本当に、そこにあった。
白いごはん。
この世界へ来てから、初めて見る。
胸の奥が妙に熱くなる。
「それ、成功なの?」
ルカが聞く。
碧は少し笑った。
「たぶん」
完全じゃない。
少し硬い。
水が足りなかったかもしれない。
でも。
ちゃんと米だった。
碧は木匙で少し掬い、器へよそう。
「ほら」
リゼへ渡す。
リゼは恐る恐る白い粒を見る。
「……変な感じ」
「そのまま食ってみ」
リゼは一粒口へ入れた。
もぐもぐ噛む。
そして。
「……甘い」
耳がぴくっと動いた。
「噛むと味します」
「だろ?」
碧は少し嬉しくなる。
ジーノも食べる。
数秒黙る。
「……腹に溜まりそうだな」
第一感想がそれだった。
かなりジーノらしい。
ルカは黙って食べている。
「どう?」
「変」
「褒めてないだろそれ」
「嫌いじゃない」
そう言いながら、しばらく食べ続けていた。
その時だった。
からん、と店の扉が鳴る。
まだ営業前の時間だった。
「ジーノ、秋香草を持ってきたわ」
静かな声だった。
振り向く。
そこに立っていたのは、長い耳の女だった。
淡い銀髪。
灰緑の外套。
腰には小さな革袋がいくつも下がっている。
肩には、香草を束ねた細い籠。
エルフだった。
「珍しいな、アイナ。今日は早いじゃねぇか」
ジーノが言う。
女――アイナは、小さく頷いた。
「市場へ卸す前に、あなたの分だけ先に持ってきたの。前に頼まれていたでしょう」
「あぁ、そうだったな」
「忘れていたの?」
「少しな」
ジーノは悪びれもせずに言った。
アイナは少しだけ笑う。
それから、ふと動きを止めた。
厨房から漂う白い湯気に気づいたらしい。
アイナは静かに息を吸う。
「……初めて嗅ぐ匂い」
穏やかな声だった。
碧は少しだけ警戒する。
だが、アイナは料理へ踏み込むようなことはしなかった。
釜を見る。
湯気を見る。
そして最後に、碧を見る。
その目は、米ではなく、碧の表情を見ているようだった。
「大事な食べ物なのね」
その言葉に、碧は少しだけ目を見開いた。
どうしてそう思ったのか。
聞こうとして、やめる。
自分でも分かっていたからだ。
たぶん今、自分は。
懐かしそうな顔をしていた。




