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第百二十一話 小話「特訓開始」

「うっ⁉」


 暖かな朝陽を浴びながら、エウィンが前触れもなく胸を抑える。苦悶の表情は決して演技ではない。

 その証拠に、その場で立ち止まってしまった。

 右隣には、赤髪の魔女ことハクア。

 左隣には、黒髪をリボンで束ねたアゲハ。

 二人の女性と里の中を歩いていたのだが、エウィンだけが歩みを止める。

 その苦しそうな仕草に、アゲハとしても心配せずにはいられない。


「ど、どうしたの? 大丈夫?」


 しかし、返事はない。

 代わりに、エウィンが左前方を指差す。

 三人が朝一番に外出した理由は、今日から本格的な鍛錬に取り掛かるためだ。目的地はいくらか離れた空き地であり、このまま直進すればたどり着ける。

 そのはずだが、エウィンは進行方向から外れた方角を指差した。

 その意味するところを知るために、アゲハは体ごと顔を動かす。

 この地は森に囲まれており、左手側は多数の樹木しか見当たらない。

 そのはずだが、そうではないとアゲハとハクアは気づかされた。

 ゆっくりと歩く、小さな毛玉。それが何を意味するのか、考えるまでもない。

 エウィンが息を荒げながら、解答を口にする。


「子猫がいます。はぁはぁ、めちゃくちゃ小さい……」


 白毛にいくらか黒い斑点が見受けられるそれは、ヨチヨチと四本足で歩いている。

 体のサイズは確かに小柄だ。出生後、一年未満であろうことは間違いない。

 まるでぬいぐるみのような容姿に、アゲハも思わず息を飲む。


「かわいい……」

「でしょうでしょう? 驚かせないよう足音を立てずに、いざ!」


 若者二人が子猫に向かった瞬間だ。

 この事態には、ハクアもため息をこぼす。


「猫なんていくらでもいるでしょうに……」


 そう言いながらも、魔女は白衣をたなびかせて二人の後を追う。彼女もまた、子猫を撫でるつもりだ。

 その結果、小さな毛玉は人間三人に包囲される。

 この状況が子猫をわずかに驚かせるのも、エウィンに優しく撫でられたことで警戒心はあっという間に霧散した。


「おーよしよし。くぅ、この儚さがこれまたかわいすぎる」

「美人さんだね。この子、まだ乳離れ、してないと思う」


 それほどに小さい。

 アゲハの言う通り、白毛のこれは整った顔立ちをしている。

 美少年か美少女かは不確かながらも、エウィンとハクアが子猫の肛門を覗き込んだことで真実は明かされる。


「メスですね」

「そうね。母猫はどこかしら? まぁ、やんちゃ盛りでしょうし、ちょっと遠出しちゃったってとこかしら。ほら、私にも触らせなさい」


 ハクアは屈むと、エウィンを押しのけるように白黒の背中を撫でる。

 このタイミングで子猫はベタンと座り込んで目を細めるも、その仕草にアゲハは微笑み返す。


「かわいい。大きなお目目がクリクリしてて、おでこと顎の黒毛も、チャーミングだね」

「ハクアさーん、この子連れて帰っても……」

「ダメって言ってるでしょう」


 ハクアは猫好きながらも、飼おうとはしない。飼育の大変さを重々承知しているためだ。

 この問答をきっかけに二人が言い争うも、アゲハは気にも留めずに撫で続ける。


(この子……、この子も、日本猫みたい。ううん、他の子も全部、日本の野良と瓜二つ。これは、偶然? ただの収斂進化?)


 言えることは一つ。

 ウルフィエナでは、体毛が長い猫を見かけない。毛無しも同様だ。


(短足ちゃんも、顔がブサイクな子も、こっちで見たことない。そういえば、お母さんは嫌いって言ってたな、そういう猫を……)


 アゲハの母親も猫好きだ。仕事一筋の研究者ながらも、そういった側面を持ち合わせていた。


(見た目はそっくりだけど、色々違うみたいだし、人間に好かれる子だけが、生き残ったって、感じなのかな)


 差異の一つが出産だ。

 地球の猫は複数の子供を産むが、ウルフィエナの場合、その数は一匹に限定される。


(こっちの猫ちゃんは、全然喧嘩しない。わたしみたいな猫好きには、ううん、猫にとっても、楽園なのかも……)


 そんなことを考えながら、アゲハは子猫の喉を撫でる。

 一方で、エウィンとハクアは喧嘩の真っ最中だ。互いに相手の両手を掴みあっており、押し合っているのか、二人ともピクリとも動かない。

 もっともそれは、赤髪の魔女が手加減しているからこその拮抗だ。彼女がわずかに力んだタイミングで、エウィンはあっさりと地面に押し倒される。


「ぐわー!」

「ふん、情けない」


 この悲鳴、あるいはドスンと響いた騒音が引き金となり、猫はそそくさと立ち去ってしまう。

 お尻丸出しの後ろ姿を、敗者は悲哀と共に眺めることしか出来ない。


「ああ、もっとナデナデしたかった……」

「遊んでないで、訓練場に向かうわよ」

「ハクアさんも撫でてたじゃん」

「う……」


 何はともあれ、目的地に向かう。

 今日からいよいよ修行開始だ。今までも体を鍛えてはいたのだが、指導役がモーフィスからハクアに代わる。

 たったそれだけながらも、その意味合いは非常に大きい。

 この魔女は自称ながらも最強だ。

 そして、それが嘘ではないとエウィンは理解している。改めて空き地を目指しながら、ぼやかずにはいられない。


「ちゃんと手加減してくださいよ、本当に」

「うるさいわね、わかってるって言ってるでしょ」


 エウィンが口酸っぱく言い続ける理由。それは、自身の生死に関わるためだ。

 この少年は強くなった。

 弓で射られようと。

 安物の剣で斬られようと。

 かすり傷一つ負わない。

 人間離れした肉体強度を獲得するも、隣の魔女はそれ以上だ。力を籠めて殴られた場合、その部位が粉みじんに消し飛ぶだろう。

 ゆえにエウィンは念を押すのだが、この問答は何度も繰り返されており、ハクアとしてもうんざりだ。


「死んだら死んだで、大人しく受け入れなさい」

「こわ……。修行すらも命がけなのか。まぁ、そういうもんかもしれないなぁ」


 なぜなら、目標は遥かな高みから自分達を見下している。

 それは千年前に巨人戦争を引き起こした。

 ハクア達では倒すことが叶わず、結果的に封印という手段を取るしかなかった。

 セステニア。人間でありながら、人間を滅ぼそうとした女。その実力は想像を絶する。千年を生きる今のハクアでさえ、自身では倒せないと自覚するほどだ。

 エウィンはこれと戦う。父の仇であるオーディエンを殺せればそれで構わないのだが、アゲハの帰還という今となってはあやふやとなった目標を叶えるためにも、セステニアを倒さなければならない。


「着いたことだし始めましょう」


 朝一番の到着ゆえ、空き地は無人だ。普段ならモーフィスと若者が鍛錬に励むここも、早朝となると静まり返っている。

 ハクアの発言を受けて、エウィンとしてもやる気を出すしかない。更地を眺めながら、右腕をぐるぐる回す。


「子猫のおかげで元気いっぱい。アゲハさんとお母さんを再会させるためにも……、がんばります」

「その調子よ。さぁ、本気でかかってきなさい」


 セステニアとオーディエンを倒せば、アゲハの地球帰還が一歩進む。

 しかし、彼女がそれを望んでいない。エウィンと共に生きることを選んだためだ。

 そうであろうと、この少年は戦う。地球への往来が実現すれば、母親に別れを告げさせることも可能かもしれないと考えたためだ。

 そのためには、強くならなければならない。

 目標は手ごわく、少なくとも眼前の魔女を上回る必要がある。


「色褪せぬ記憶は、永久不変の心を顕す」


 本格的な鍛錬の始まりだ。

 闘気をたぎらせながら、思い出すように詠唱を続ける。


「争いの果てに、涙を散らす者達よ……」


 空気を震わせながら。

 アゲハに見守られながら。

 何者かの想いをツラツラと歌い進める。


「我らの旅路を指し示し、絢爛の明日へと導きたまえ」


 森が揺れている。

 ハクアの赤髪が躍っている。

 それでもこの魔女は仁王立ちを維持しており、その表情は余裕しゃくしゃくだ。


「在りし日の思い出と共に、色褪せぬ幻影を抱きし者よ……」


 イダンリネア王国を飛び出して、どれほどの月日が流れたか?

 エウィンの脳裏にそのような疑問が浮かび上がるも、それ以上は考えない。ここは鍛錬の場所であり、邪念に割けるリソースなど見当たらない。


「揺蕩う理想郷で、色褪せぬ想いに寄り添う者よ……」


 緑色の髪がわずかに逆立つ。

 緑色の服も突風にあおられている。

 殺気のようなプレッシャーの発生源は、もちろんこの少年だ。地面さえ揺らしながら、神々のように光り輝く。


「祝福されし幼子達を、見守りたまえ。蔑みたまえ」


 リードアクター。アゲハとの契約によってもたらされた神秘。

 これはエウィンの身体能力を向上させるも、その効果は大幅に向上された。

 そうであると裏付けるように、白いオーラには雷のようなスパークが付随されている。以前はなかった発光現象だ。

 これの発動をもって、新たな修行が開始される。

 エウィン対ハクア。

 極論を言えば、戦うだけだ。

 しかし、その内容は想像を絶する。


「イタイイタイ! 足が折れたー!」

「情けない。ちょっと蹴っただけでこれ……」


 死なない程度に痛めつけられながら、この少年はどこまでも成長する。

 まるで限界という概念を手放したように、さらなる高みへ上り続ける。

 もっともそれは、今日明日ではない。

 それほどに、眼前の魔女は高い壁だ。


「くそ、パンチ一発当てられない」

「ここからは内容を変えるわよ。避けないであげるから、目一杯打ち込んできなさい」


 それでも打撲すら負わせられない相手がハクアだ。

 リードアクターをまとったとしても、力量差は依然として天と地ほどある。

 諦めた方がよいのかもしれない。

 現状では夢のまた夢だ。

 そうであろうと、エウィンは歯を食いしばってハクアに食らいつく。

 それほどの気概を保てる理由は、もちろんアゲハだ。彼女の恩に報いるため、この少年は戦い続ける。

 手を差し伸べ、差し伸べられた者同士、見えない糸で繋がっているのだろう。

 エウィンとアゲハ。二人の歩む先がどこなのか、今はまだ知る由もない。

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