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第百十二話 ビヨンド・ザ・ワールド

 アゲハは孤独だった。

 父親の顔は知らない。名前すら聞かされていない。

 母親は仕事に夢中な女性ゆえ、帰宅は遅く、娘と顔を合わせるタイミングは朝くらい。

 そういった環境が、アゲハを内向的な性格にしてしまったのか。

 そんな彼女が、どういうわけか異世界に転生を果たす。そのままの姿で降り立ったことから、転移という表現が正しいのかもしれない。

 なんにせよ、アゲハは神に選ばれ、その世界に誘われてしまう。

 ウルフィエナ。人間と魔物が争う異世界。

 イダンリネア王国の城下町で、彼女は困惑しながらも泣くことしか出来なかった。極度の人見知りゆえ、この状況を受け入れられるほど豪胆ではなかった。

 その日から数えて、一年が過ぎ去る。たった一年ながらも、その月日が十分過ぎるほどの絆を紡ぐ。

 エウィンとアゲハ。二人は戦いの最中に心を通わせる。


「え?」


 エウィンは真っ白な闘気をまといながらも、無防備に振り返る。

 謎の魔物は健在ゆえ、その行為はあまりにも迂闊だ。

 それでもそうしてしまった理由は、背後のアゲハを眺めずにはいられなかった。

 好きだから。

 つまりは、愛の告白だ。

 予期せぬ発言に、エウィンとしても戸惑ってしまう。

 実は、気づいていた。

 気づいていない振りをしていた。

 当然だろう。一年も共に過ごしたのだから、この少年がいかに鈍感であろうと察することは十分可能だ。

 それでも、彼女の気持ちには応えられない。

 自分達は、いずれ離れ離れになるのだから。

 自分には、その資格がないから。

 前者は言い訳だ。

 後者も言い訳だ。

 二人の旅路の行き着く先は、アゲハの地球帰還。

 エウィンもそのことは重々承知しており、日々の鍛錬はそのためだ。

 一方で、真の本心は明かしていない。

 母親がそうしたように、自身も他者を庇って死んでしまいたい。

 背徳的な願望だ。

 しかし、これこそが原動力となって、エウィンという人間を生かし続けた。

 自分はいつ死んでもおかしくないのだから、アゲハを好きになってはならないと決めつけてしまった。

 様々な言い訳を積み上げ、この少年はある意味で心を閉ざす。

 雪解けは、突然だった。


「わたしは、エウィンさんが、好き。地球に、帰れなくても、構わない。ううん、わたしは、ここに残る。エウィンさんと、一緒に、いたいから……」


 アゲハが、精一杯の勇気を振り絞って気持ちを伝える。

 これは告白であり、決意表明だ。このタイミングで伝えた理由は、エウィンを死なせたくないという感情がそうさせた。

 たったそれだけの行為ながらも、きっかけとしては十分だ。

 この発言が、エウィンの心を解きほぐす。

 呪縛から解き放たれた瞬間だ。


「僕と、一緒に……?」

「うん、うん……。だから、自暴自棄に、ならないで。お願い、だから……」


 さすがのエウィンも気づかされた。

 自身のわがままが、アゲハを悲しませてしまう、と。

 ならば、どうする?

 考えるまでもない。

 やるべきことは明白だ。

 黒い魔物を倒す。

 二人で生き残ることを最優先とする。

 始まりだ。

 ここからが、神をも超える第一歩だ。


「わかりました。それじゃ、ちょっくらがんばってきます。あいつを倒せるように。アゲハさんを守るために」


 死ぬために戦うのではない。

 生きるために。

 アゲハと歩み続けるために。

 たったそれだけの決意ながらも、この少年の根幹を書き換えたことは間違いない。

 だからこそだ。

 眼前の壁を乗り越えることなど、造作もない。

 そうであると裏付けるように、エウィンは歩みを進めながらも新たな段階に足を踏み入れる。

 草原を揺らすほどの突風だ。発生源は緑髪の傭兵であり、その風量は上空の雲さえも周囲に吹き飛ばす。


(不思議だ、力が湧いてくる)


 勘違いではない。

 後ろ向きな人生観に別れを告げたのだから、この現象はある意味で必然だ。

 当然ながら、自己犠牲は悪ではない。エウィンは母親に守られたことで、生き延びることが出来た。

 しかし、この少年は今日からそれ以上を望む。

 アゲハを守りたい。

 アゲハを悲しませたくない。

 二人で共に歩みたい。

 そう気づかされた。

 そう思うことが出来た。

 たったそれだけの変化ながらも、リードアクターは成長を遂げる。

 アゲハの長い髪を揺らすほどの突風。

 シャドウデーモンも、その変化には首を傾げてしまう。

 リードアクター。これは、アゲハとの契約がもたらした神秘だ。

 正しくは、彼女の中に宿る何かを介した契約であり、手続きは滞りなく完了した。

 本来なら、ありえない。これは人間の手に余る能力ゆえ、非力な傭兵が使いこなせるはずもない。

 しかし、この少年は例外だ。

 なぜなら、選ばれた。

 アゲハという日本人女性と、心を通わせた。

 だからこそだ。

 全てを越えるその力を、今まさに宿す。


「これは……?」


 純白のオーラに現れた変化。火花のような発光現象が、まとわりつくようにバチバチと爆ぜる。

 風量についても上昇しており、エウィンの髪がわずかに逆立つほどだ。

 これこそが、リードアクターの第二段。エウィンという人間が、全てを越えるための新たな能力。

 昂る闘気に戸惑いながらも、傭兵は歩みを止めない。正面の敵を待たせている以上、その善意に答えるためにも自ら近づく。

 人間の変化に驚くシャドウデーモンだが、感想としてはそれ以上でもそれ以下でもない。

 小さな対戦相手を見下ろすように、真っ赤な瞳でその姿を見つめ返す。

 先ほどまでとは別人のようなプレッシャーだ。姿かたちはそのままながらも、まとう闘気は台風のように暴れている。

 もっとも、この状況は想定内だ。

 正しくは望んでいた。

 この魔物はエウィンと戦うことだけを許されている。

 つまりは、すぐに死なれてしまっては、それはそれで退屈だ。

 条件のような助言に対しても、シャドウデーモンは受け入れるしかなかった。

 緑髪の人間を殺してはならない。

 思う存分痛めつけることは構わない。むしろ、そうすることを推奨する。

 シャドウデーモンは知能を持った魔物だ。今回の戦闘許可に妙な違和感を覚えるも、ついに人間を狩れるのだから従わない理由がない。

 その結果がこれだ。

 緑髪の人間が、威風堂々と近づいている。

 もう一人の人間が傷を癒すことまでは聞かされていた。

 しかし、これは何だ?

 煉獄の魔物すら怯ませる、神々しい闘気。

 このような変化は事前に知らされておらず、シャドウデーモンとしても自分の頭で考えるしかない。

 ならば、即決だ。

 逃げるという選択肢は見当たらず、当然のように迎え撃つ。自身は未だに本気を出し切っていないのだから、人間狩りはここからが本番だ。

 第二ラウンドという認識は、エウィンとしても否定し難い。


「待ってくれてありがとう。もう、退屈はさせない……と思う」


 戦闘再開は、傭兵の手招きがきっかけだ。

 その動作を受けて、魔物が急加速と共に駆けだす。

 間髪入れずに繰り出された左腕は、相手の顔を殴るためだ。今日一番の速度ゆえ、避けられる心配はない。

 事実、エウィンはまともに殴られてしまう。空気が震えるほどの轟音は、拳が顔面を殴打した結果だ。

 しかし、次の瞬間、シャドウデーモンは目を疑ってしまう。

 オーラを突き破り、その右頬を殴ったはずだ。

 そのはずだが、人間は一歩も後ずさっていない。直立の姿勢を維持しており、痛がる素振りを見せないばかりか、彼の右腕は反撃のために動き始めていた。


「手加減はここまでだ」


 煽るような発言に、魔物は顔を歪ませてしまう。

 苛立ったからではない。

 左腕を掴まれたばかりか、手首付近をゴキンと握り潰されたためだ。

 頑丈ながらも柔軟な皮膚ごと、内部を破壊された瞬間だ。

 シャドウデーモンとしても事実の把握に努めなければならないため、エウィンの手を払うように後方へ跳ねる。

 その結果がこれだ。

 左手は使い物にならない。開閉はおろか指一本さえ動かせない。

 腕自体は稼働するも、打撃の類は不可能だ。せいぜいがラリアットくらいか。

 こうなってしまっては、右腕を使わざるをえない。

 眼前の人間を見下していては、自身が殺されてしまうと気づかされた。

 真っ黒な魔物が、漆黒の大剣を構える。

 全力をもって、応える。

 シャドウデーモンの切り札は、この武器だけではない。

 このタイミングで、奥の手を披露する。

 次の瞬間、エウィンだけでなく遠方のアゲハもまた息を飲んでしまう。

 突然の変化だった。

 左腕を損傷し、右腕で剣を握る魔物が、邪悪なオーラをまとい始めた。

 その姿は、エウィンと正反対だ。

 白と黒。

 運命的な対比ながらも、これが偶然か否かは誰にもわからない。

 確定していることは一つだけ。

 エウィンが身体能力を向上させたように、この魔物も真の意味で全力に至った。

 デモニックオーラ。シャドウデーモンが使える戦技のような特殊能力。その効果はリードアクター同様、あらゆる部位を大幅に強化する。

 ここからが本番だ。

 殺すなという指示を無視するように、漆黒のオーラが剣を振り下ろす。

 その一閃は、エウィンの左肩から胴体を斜めに切り裂く袈裟斬りだ。黒剣の切れ味は不確かながらも、その腕力ならば問題ない。

 斬られる側もそれは重々承知しており、この状況で開示された選択肢は二つ。

 大人しく斬られるか。

 ダメ元で受け止めてみるか。

 どちらを選ぶかは、シャドウデーモンにもわからない。この魔物は斬ることに専念しており、結果の予想など初めから放棄している。

 答え合わせはまさに一瞬だ。

 真っ黒な巨剣が、大地を割るように地面を穿つ。

 手応えはなかった。肉を断ち、骨を砕く代わりに、緑の草原を粉砕した。

 避けられた。そう認識した時にはもう遅い。

 眼前に人間はおらず、代わりに土の塊が多数、舞い上がっている。

 どこだ?

 少なくとも、視界の範囲内には見当たらない。

 冷静に。

 迅速に。

 瞬きすらも後回しにして、神経を研ぎ澄ます。

 時間にして一瞬のことながらも、この攻防においては勝者と敗者が確定する。


「ふん!」


 掛け声は背後から。

 シャドウデーモンは真後ろから右わき腹を蹴られ、雑草を擦りながらどこまでも転がる。

 その姿を眺めながら、エウィンとしてもつぶやかずにはいられない。


「す、すごいパワーアップだ、これ……」


 もしもリードアクターが進化しなければ、先ほどの斬撃で真っ二つに斬られていた。

 しかし、結果は真逆だ。

 迫る刃をじっくりと眺めた上で、とっさに下がることが出来た。

 さらには、魔物に気づかれるよりも早く、背後にまわり、その体を蹴った。

 形勢逆転だ。相手が黒い闘気をまとおうと、その差は埋まりきっていない。

 だとしても、油断は大敵だ。


(思ったよりは頑丈だな。今ので倒しきれなかったか)


 遠方の黒い物体は魔物だ。よろよろと立ち上がったことからも、エウィンの分析は正しい。


(だけど、今の僕なら負けない。負けてなんか、いられない)


 バチバチを賑やかなリードアクター。その在り様は、以前のものとは明らかに別種だ。

 もちろん、このスパークは副次的な現象に過ぎない。

 大事な女性を守るために。

 自分自身も命を投げ出さないために。

 そのための力がこれだ。今はまだリードアクターと呼びながら、敵を目指して歩き出す。

 対するシャドウデーモンだが、心は決して折れていない。蹴られた箇所はズキズキと痛むも、戦闘の継続は可能だ。

 急ぐように歩く両者を眺めながら、アゲハは一人静かに見守り続ける。

 緑色の絨毯が敷かれたこの地で、仕組まれたように始まった殺し合い。巻き込まれた側としては文句の一つも言いたいところだが、それをするにも障害を乗り越えてからだ。

 人間と魔物が見つめ合う。

 互いを認識しながら、ズンズンと距離を詰める。

 シャドウデーモンは蹴られた際に、黒い剣を手放してしまった。ここからは拳で打ち合うしかない。

 まるで、嵐の前の静けさだ。

 聖地ムサに風が吹く。

 足音を消すように、草原の草達が揺れている。

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