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第百十一話 漆黒が立ちはだかる

 タウロスとの会敵が、序章か否かは定かではない。

 この魔物が、牛を模倣してデザインされたかどうかも不確かだ。

 タウロスは二人の人間に膝をつかせることには成功した。

 しかし、そこまでだ。

 リードアクターを発現させたエウィンによって、口の中を貫かれて絶命。

 この少年は素手で倒すという宣言したが、武器を使おうと勝ちは勝ちだ。

 ここまでは前座なのだろう。

 ここからが本番かもしれない。

 空から降り注いだ何かが、邪悪な闘気を振りまいている。

 それはまだ砂埃の内側だ。そこにいることは確かながらも、その姿は隠れてしまっている。

 そうであろうと、エウィンとアゲハは目を離せない。刺すようなプレッシャーがそこから放たれている以上、目をそらすことさえはばかられる。

 ゴクリと喉を鳴らしたのは、果たしてどちらか?

 あるいは両名なのかもしれない。

 どちらにせよ、エウィンは息苦しさを感じながらも頭の中は冷静だ。


(落っこちてきた? いや、違う。猛ダッシュで突っ走って、どこかのタイミングでジャンプしたんだ。そして……)


 二人の近くに着地した。

 まるで砂場で遊ぶ子供のようだが、事実そうなのだから受け入れるしかない。

 エウィンはリードアクターを、アゲハはワスレナグサを維持したままだ。この状況でドーピングを解除出来るはずもなく、身構えながら見守り続ける。

 煙のような砂塵は今なお健在だ。

 これが霧散した時こそ、第二ラウンドが開始される。

 だからこそ、時計の針は早められた。

 前触れの無い突風が、砂煙を切り裂く。その風量は凄まじく、エウィンの前髪はオールバックのように額を晒す。

 この瞬間、二人を驚くことしか出来ない。

 その姿は、真っ黒な女だ。着地の衝撃で雑草が爆ぜたのだろう、むき出しの大地に立っている。

 いくらか離れた距離ながらも、わかることは少なくない。

 それは間違いなく女だ。

 しかし、人間ではない。

 頭頂部からつま先に至るまで、全身が闇のような黒一色だ。

 唯一、異なる部位は瞳だけ。両眼は血液のように赤く、その色は異物のように目立つ。

 体毛の類は一切見当たらず、ゆえに頭髪は一本も生えていない。

 これは魔物だ。

 しかし、様々な部位が人間の女性に似通っている。

 アゲハほどではないが、双丘を描いた乳房。

 腕はすらっと細いが、足はアスリートのように太く、それでいて色っぽい。

 顔の造形も美人だ。髪の毛がなくとも、これはこれで一つの完成形と思わせる。

 全身は鱗のような何かで覆われており、それが黒いため、この魔物は闇のような色に染まっている。

 魔物でありながら人間を模倣した姿だ。

 けれども、エウィンは決して騙されない。


「や、やばさがヒシヒシと伝わってきます。まるでハクアさんを怒らせた時みたいな……。おそらくはこいつも、オーディエンの手下。四体目ってことに……」


 タウロスが三体目なら、これが最後の手札だろう。

 エウィンはそう予想するも、その目は魔物の右腕に注目する。

 黒い女は棒立ちではない。右腕は黒い長物を握っており、それをエウィン達の方向へ向けている。

 正しくは、地面の方へやや垂れ下がっており、まるで素振りを終えた直後のようだ。


(さっきの風はそういうことか……)


 長い凶器は剣だ。ゴツゴツと不格好な造形ゆえ、刃物というよりは鈍器が正解かもしれない。

 魔物は砂埃の中でこれを振り抜いた。

 その結果、突風が視界を晴らし、三人はこうして相まみえる。

 シャドウデーモン。タウロス同様、煉獄に生息する魔物だ。こうしてウルフィエナに呼ばれた以上、鬱屈な故郷のことなど忘れ、思う存分暴れるつもりでいる。

 眼前の人間は、記念すべき初めての獲物だ。

 自分を呼び出した存在にも、戦えと命じられた。

 同胞でもあるタウロスは無残にも殺されてしまったが、悲哀という感情など持ち合わせてはいない。

 今すべきことは一つだけだ。

 標的が見知らぬ闘気をまとっていようと、魔物は意にも介さず行動を開始する。

 その仕草は、エウィンを驚かせるには十分過ぎた。


「な⁉ 手招きだと……」


 シャドウデーモンが、人間並みの知能を持ち合わせていると晒した瞬間だ。

 その事実に、傭兵は混乱してしまう。

 魔物はそのほとんどが、動物や昆虫程度の知性しか持ち合わせていない。

 草原ウサギがそうであるように。

 ミファリザドがそうであるように。

 もっとも、二人は例外と出会っている。

 そうであろうと、アゲハは静かに驚いてしまう。


「い、意思疎通が、可能なんて……。お、オーディエンだけじゃ、ないんだ。アレも、言葉を話すの、かな?」

「口はついてますし、と言うか姿はほとんど女の人ですもんね。おっぱいは、ハクアさん以上アゲハさん未満ってところでしょうか」


 常軌を逸した殺気に晒されながらも、エウィンはその部位を眺めてしまう。

 その分析は正しく、シャドウデーモンの乳房は小ぶりながらも綺麗な山なりだ。鱗のような未知の物質に覆われているため、そういう意味では裸ではないのだろう。

 それでも蠱惑的な姿であることは変わりない。

 もっとも、ここは戦場だ。

 エウィンもそのことは自覚しており、劣情を抱いてはいない。

 手招きされた以上、傭兵として招待状を受け取る。


「さて……。相手は武器を持ってますし、あいつも僕がやります。多分、さっきの奴以上に手ごわいでしょうから、やばくなったらアゲハさんだけでも逃げてください」

「う、ううん、逃げるとしても、一緒、だよ」

「善処します」


 作戦会議は終了だ。

 魔物が待機している以上、エウィンの方から歩み寄る。

 同時に、問わずにはいられない。


「おまえも! オーディエンの仲間ってことでいいんだな⁉」


 念のための確認だ。

 見たことも聞いたこともない魔物ゆえ、別世界からやって来たという推論は暴論ではない。

 ましてや、この気配は特徴的だ。

 肌に突き刺さるような殺気。

 あるいは息苦しさを感じる邪悪さ。

 未確認ながらもおそらくは存在するであろうその場所には、煉獄という名が与えられている。


(返事はなし、と。首を傾げたってことは……、どういうことだろう? まぁ、いいや。難しいことは、アゲハさんに考えてもらうとして……)


 コミュニケーションは失敗だ。

 その仕草には知能が垣間見えるも、エウィンは一旦口をつぐむ。

 話し合うために近づいたわけではない。

 傭兵と魔物が出会った以上、やるべきことは明白だ。


(こいつからは到底逃げられない。それだけは断言出来る。だったら……)


 挑むしかない。

 背中を見せれば、斬り殺される。

 あるいは、串刺しかもしれない。

 黒い剣は歪ながらも禍々しく、凶器としての迫力はスチールソード以上だ。

 その使い手も未知の化け物ゆえ、戦いながら探るしかない。

 その実力を。

 その思惑を。

 戦闘開始だ。これ以上の問答や推理は時間の無駄でしかない。

 エウィンの接近を受けて、シャドウデーモンが嬉しそうに武器を構える。右手で黒剣を持ち上げた理由は、刃を寝かせて右肩に乗せるためだ。

 その姿は隙だらけながらも、真っ赤な眼光は真剣そうに人間を見つめている。

 対するエウィンだが、足取りは大胆なようで慎重だ。一歩、二歩と確実に距離を詰めるも、体力を温存するようにゆっくりと進む。

 譲られた以上、その一振りに迷いなどない。

 まるでステップのように跳ねた理由は、先制攻撃のためだ。

 滞空時間は一瞬。落下と共に、エウィンは灰色の刃をぶつけるように振り下ろす。

 手加減なしの剣戟だ。並の魔物なら、この一撃で血しぶきを散らすだろう。

 もっとも、その結果は刃が当たった場合に限る。

 頭上から迫る殺意を、魔物はその場からほとんど動かずに避けてみせる。左足を軸に、右足を下げて回転するようにやり過ごす。

 その際に、スチールソードがシャドウデーモンの乳房をかすめるも、実際にはギリギリながらも届かなかった。

 鮮やかな回避だ。

 エウィンは感心するように驚くも、それよりも今はすべきことがある。

 追撃だ。地面を切ったその刃を、振り上げるように右へ走らせる。

 両者の間合いは十分近く、シャドウデーモンとしては避けるよりも体当たりの方が有効な手立てだろう。

 それでもなお、この魔物は後ずさることで避けてみせる。大剣のような凶器を肩に担いだまま、まるで相手の力量を計るような立ち振る舞う。

 この状況において、エウィンは攻撃の手を緩めない。相手に反撃の意図が感じられないのなら、果敢に攻めて好機を見出す算段だ。

 この傭兵は、素手での戦闘を得意とするインファイターではない。

 本来は短剣を振るう傭兵であり、アゲハと出会って以降は打撃で魔物を屠り続けるも、結果論に過ぎない。

 そして、エウィンは片手剣を短剣の延長線上に捉えており、乱暴な論理ながらもこうして扱えている。

 常識的には不可能だ。

 なぜなら、それらには覆せない差異が二点ある。

 重量。

 刃の長さ。

 これらは性質の根幹を左右することから、同様に扱えるはずもない。

 そうであろうと、エウィンは剣の達人のように猛攻を継続出来ている。

 言うなれば、センスだ。

 そして、これがエウィンとアゲハの決定的な差でもある。

 両者を比較した場合、実は身体能力そのものはそれほど離れていない。もちろん、エウィンの方が一回りは上回るも、裏を返すとのその程度か。

 この二人が本気で戦った場合、どれほどの試行回数を重ねようと結果は変わらない。

 エウィンの全勝だ。

 戦闘の才能、その一点においてそれほどの差が生じてしまっている。

 身のこなし。

 相手を壊すことへの躊躇の無さ。

 そういった要素がアゲハには欠けている一方で、エウィンは十分過ぎるほど持ち合わせている。

 持って生まれた素養と言うよりは、経験の差かもしれない。

 エウィンは十年もの歳月を、ウサギ狩りに費やした。その年月は決して短くはなく、才能を開花させるには十分過ぎた。

 そういう意味では、アゲハはこれからなのだろう。

 ウルフィエナに転生を果たして、まだ一年と少し。身体能力は順調に向上していることから、体の操縦はこれから学べば良い。

 もっとも、死闘は既に始まっている。鍛錬の機会が与えられるかどうかは、眼前の魔物を退けてからの話だ。


(来る!)


 エウィンが冷静に仰け反った結果、黒い拳が空を切る。

 突然の裏拳だ。予備動作のない鋭い一閃ながらも、手の甲は人間を捉えられない。

 未来予知のおかげで、エウィンはこの反撃を避けることが出来た。

 しかし、素直に喜べない。

 当然だろう。魔物は依然として黒い剣を担いだままだ。裏拳は左手によって繰り出されたことからも、手を抜かれているとしか思えない。

 あるいは様子見か。

 だとしたら、その目的は何だ?

 何もわからないままに、エウィンは数歩下がって体勢を立て直す。


(こいつ、やっぱり手ごわい。だけど、スピードにはついていける、か?)


 少なくとも、食い下がれている。斬撃は全て避けられたが、それはお互い様だ。

 このタイミングで、傭兵は改めて魔物を観察する。

 その姿は全身が黒く、背丈はエウィンよりも頭二つ分は高い。つまりは優に二メートルを超えており、それでいて健康的な肉付きをしていることから、色気さえ漂う。

 裸なようで、そうではない。

 その外見もまた男を魅了するも、今は殺し合いの最中ゆえ、エウィンとしても気を引き締める。


(あんなデッカイ剣で斬られたら、一発でおしまいだ。でも、大振りになるだろうし、警戒すべきは左手のパンチか? 隙だらけな癖に、目の良さと機敏な動きでこっちの攻撃は全部避ける。簡単に勝てる相手じゃない)


 傭兵として分析を終えた頃合いだった。

 肌寒いと感じた理由は、草原地帯の気温が下がったからではない。

 シャドウデーモンの殺意だ。魔物は美しい顔を歪ませながら、嬉しそうに口角を釣り上げている。

 表情筋を存分に動かす魔物とは対照的に、エウィンは引きつるしかない。


(笑ってる? でも、なんで……)


 わからずとも、察することは可能だ。

 勝ち誇っている。

 あるいは、闘争そのものを楽しんでいるのか。


(やっぱり、こいつはやばい。アゲハさんを守り切れるかどうか……)


 不安がよぎるも、抗うしかない。

 そのための一手が、この斬撃だ。愚直な薙ぎ払いながらも、距離を詰めると同時に繰り出したため、相手を驚かせるには十分過ぎる。

 刃が届くか否か。

 あるいは、反撃さえあり得るのか。

 実は、どれであろうと構わない。

 なぜなら、エウィンの目論見は別にある。

 そうであると裏付けるように、シャドウデーモンは目を疑った。

 斬りかかってきた人間が、こつ然と姿を消したからだ。

 灰色の刃が降り抜かれなかった理由。寸止めですらないその中断は、フェイントに他ならない。

 エウィンは魔物の右手側に回り込む。眼前の魔物が強敵である以上、ここからは技術を織り交ぜ、立ち向かうつもりだ。

 鱗のよう黒い何かに守られたそのわき腹へ、スチールソードを押し当てる。そのまま背中側へ刃を滑らせるも、その手応えに斬りつけた側が驚きを隠せない。


(無傷⁉ こいつも!)


 タウロス同様、この魔物も鉄壁だ。

 事実、鋼鉄の武器が通用しない。

 シャドウデーモンを覆う漆黒の肌が、それ以上の強度を誇ると証明されてしまった。

 この結果を受けて、エウィンは戦い方を変える。彼の腕力ならば、斬撃以上の痛打を与えることが可能だ。

 言い換えるなら、剣を握っている最中は全力を出せていない。刃がその負荷に耐えられないため、斬りかかる際にどうしても手心を加えてしまう。


(だったら!)


 ここからは真の意味で全力だ。依然として純白のオーラをまとっており、殴り殺すという気概で新たな局面に挑む。

 エウィンがスチールソードを地面に突き刺した理由は、手放すためではない。それを支えとして、体を浮かせるためだ。

 飛び蹴りのようでそうではない奇襲に、魔物は反応すらもままならない。

 格闘技の心得がある者さえ、このキックには唸るだろう。

 ならば、素人に対応など不可能だ。事実、シャドウデーモンは左腕越しに体を蹴られてついに倒れる。

 この好機を見逃すほど、エウィンは愚かではない。うつ伏せのまま動かないその背中を、容赦なく踏みつける。

 人間なら絶命の一撃だ。仮にこれを受けたのがアゲハやモーフィスであろうと、悶絶は免れない。

 そのはずだが、踏んだ側が慌てて後ずさる。真っ赤な瞳に、ギロリと睨まれてしまったためだ。


(頑丈な奴……)


 流れるように蹴りを二発ヒットさせた。

 それでもなお、少年の表情は晴れない。

 対照的に、シャドウデーモンは痛がる素振りを見せないばかりか、音もなく立ち上がる。右手は巨大な剣を手放しておらず、左手は敵を目の前にしてなお砂粒を払うことに忙しい。

 一瞬の静寂は、どちらもその場から動かないためだ。

 緑色の草原で見つめ合いながら、魔物が改めて意志を表示する。

 かかって来い。そう主張するような、二度目の手招きだ。

 その仕草が、改めてこの傭兵を混乱させる。

 なぜなら、十分過ぎるほど攻めたつもりだ。

 何度も斬りかかり、先ほどは蹴とばした。

 それでもなお、この魔物は攻撃の機会を譲り続ける。

 その意図が読めない以上、エウィンに冷静な判断など不可能だ。


(ば、バカにして!)


 無警戒に距離を詰める。

 勢いそのままに、サンドバッグを殴るような連打。シャドウデーモンの方が遥かに長身ゆえ、黒い腹部は丁度良い高さに位置する。

 エウィンの拳が当たり続ける理由は、魔物が微塵も動かないためだ。避けもしなければ、防ぐことすらしない。棒立ちのまま、眼下の人間を眺め続けている。

 この光景は、どちらが強者かを物語るには十分過ぎた。

 極めつけは、たった一度の反撃だ。真っ黒な右足が、対戦相手を排除するように蹴飛ばす。

 草原の絨毯をえぐりながら、エウィンは受け身すら取れない。左わき腹の激痛は、命に関わる重傷だ。自身に何が起きたのか、わかった上で思考は乱れる。


(来るとわかってたのに……。反応が……)


 遅れてしまった。

 その理由は、殴ることに集中してしまったから。

 どれほどの距離を転がったか理解出来ないまま、エウィンは苦痛を和らげるために左わき腹を押さえる。

 同時に、理解させられた。

 この魔物には敵わない、と。

 漆黒のそれは、どういうわけか手を抜いている。黒い剣を使わないばかりか、それが足かせとなって右手も封じている。

 一方で、自分自身はどうだ?

 リードアクターは既に発動済み。

 スタミナの消耗を顧みない程度の全力。

 それでもなお、勝機は一切見出せない。

 絶望だ。

 エウィンは改めて思い知る。

 オーディエンの部下にすら勝てない、己の無力さを。

 同時に、妙な満足感を抱いてしまった。

 この魔物に殺されれば、結果はどうあれアゲハを庇ったことになるのだろう、と。

 都合の良い解釈ながらも、思考は既に勝つことを諦めてしまっている。

 そうであると裏付けるように、エウィンは無意識にこの一年を振り返る。

 慌ただしい日々だった。

 貧困街でアゲハと出会い、ゴブリンやオーディエンに殺されかけた。

 傭兵らしく魔物を狩って金を稼ぎ、魔女のエルディアとも出会うことが出来た。

 魔物を殺し、魔女も殺した。

 気づけば、ここにいる。

 満足だ。

 十分、戦った。

 その過程で誰かを救えたと自分に言い聞かせながら、少年は静かに瞳を閉じる。

 その声が聞こえなければ、安らかに眠っていただろう。


「大丈夫? エウィンさん、エウィンさん……。もう、治したよ」


 不安そうな声はアゲハだ。耳元で囁かれていると錯覚するも、実際のところは彼女の黒髪が顔に触れる程度の距離感だ。

 エウィンは思い出したように瞳を開くと、ばつが悪そうに体を起こす。


(わ、忘れてた。アゲハさんならこんなの一瞬だった。走馬灯見てた自分が恥ずかしい……)


 わき腹の痛みは一切感じられない。脳が死を予感するほどには臓器も破壊されたが、生まれ変わったように健康だ。

 アゲハに見守られながら、エウィンはそそくさと立ち上がる。


「ありがとうございます、もう大丈夫です。でも……」


 事態は改善されていない。

 黒い魔物は、いくらか離れた場所で待機している。戦闘の再開を望んでいるのだろう、その顔は人間二人を観察しつつも笑っている。

 対するエウィンだが、勝機を見出せない。

 実力の差を見せつけられた以上、改めて挑もうと結果は同じだ。

 ゆえに、非情ながらも告げなければならない。


「やっぱりアゲハさんは逃げてください。あいつは、僕が思ってるよりずっと強いです。もしかしたら、ハクアさんやオーディエンに匹敵するのかも……」


 この発言が真実か否かは定かではないが、アゲハを怯ませるには十分過ぎた。

 彼女が声すら発せられない中、エウィンはつらつらと事実を述べる。


「あいつはどういうわけか、手を抜いています。僕を痛めつけたいのか、遊んでるだけなのか……。だったら、僕でも時間くらいは稼げそうです。本気を出される前に、アゲハさんだけでも……」


 本来ならば、シャドウデーモンの足止めなど不可能だ。黒い剣を振り回されたら、エウィンなど一瞬で分断されてしまう。

 それでもこうして試合が成立している理由は、魔物が対戦相手を壊さないからだ。

 エウィンはその隙を突いて、アゲハだけでも逃がしたい。偽りのない本音であり、長年夢見た状況でもある。

 もっとも、思惑通りに進むかどうかは不明だ。

 黒い魔物がアゲハを狙った場合、この作戦は一瞬で失敗する。

 いわば賭けだ。勝率を見出すことすら出来ないままに挑むしかない。

 エウィンは一歩を踏み出す。遥か前方では、対戦相手が律儀に待ってくれている。

 自分だけが狙われている内に、この命を捧げてでもアゲハだけは逃がさないといけない。

 残念ながら、この方針は失敗に終わる。

 シャドウデーモンではない。

 アゲハの覚悟が、少年のトラウマを砕く。


「わたしは、逃げないよ。だって、エウィンさんが、好きだから……」


 全てはここから始まる。

 その傭兵が、価値観を覆された時。

 その日本人が、自分の殻を破った時。

 もはや障害など、ありはしない。

 舞台の上で、その手は白紙の台本を握っている。

 少年の名前はエウィン・ナービス。彼の可能性は、やがて全てを超えてみせる。

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