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第百九話 異世界からの刺客

 煉獄について、知る者はいない。

 ウルフィエナとは異なる世界ゆえ、知る術がないからだ。

 そうであろうと、その存在だけは噂されていた。

 きっかけは巨人戦争。光流暦が制定された頃合いに、人間と巨人族は生存をかけて殺し合う。

 戦局は巨人側に大きく傾くも、たった一人の人間によって覆された。

 彼の名前はオージス・イダンリネア。光の剣を生み出し、巧みに操るその姿は、多くの者達を勇気づけたばかりか、巨人達を完膚なきまでに屠ってみせた。

 光流暦六年、王となったオージスは、部下を率いて西を目指す。言葉が通じるゴブリンから、敵の根城を突き止められたことから、最大戦力の王自らが出立した。

 オージスに敵う魔物などいるはずもなく、旅路は当然のように順調だった。

 しかし、彼らの前に不可解な異形が姿を現す。

 それが、煉獄の魔物達だった。

 時は流れ、光流暦千十九年。聖地ムサと呼ばれる地で、灰色の怪物がエウィンとアゲハに襲いかかる。

 低音主体の雄たけびが何を意味するのか、当然ながら人間にはわからない。

 獲物を殺せることへの喜びか?

 蹴られたことへの苛立ちか?

 どちらにせよ、それは鋭い眼光を人間二人に向けている。

 タウロス。鹿のような角を二本生やしており、その顔は牛のようで似て非なる何かだ。大き過ぎる口には多数の牙が生えており、凶暴さが顔立ちに現れている。

 二足歩行を獲得したことで、前脚は移動に使われない。拳は蹄のままながらも、人間の撲殺は十分可能だ。

 そうであると実証するように、長い右腕をブンと振り抜く。蹴られた仕返しとして、アゲハに殴りかかった瞬間だ。

 その軌道は裏拳に他ならない。

 以前のアゲハなら、これで負けていたのだろう。

 しかし、今は違う。彼女はただの日本人ではなく、この世界で鍛錬に励んだ傭兵だ。ワスレナグサによって身体能力が大きく向上していることも相まって、即座に仰け反ってやり過ごす。

 その結果がこれだ。

 タウロスが苛立つように雄たけびを上げる。

 耳をつんざくほどの咆哮に、アゲハも戸惑いを隠せない。そのまま尻餅をつくも、追撃を察して即座に後方へ下がる。

 当然ながら、魔物は攻撃の手を緩めない。

 追いかけ、穿つように蹄を打ち付ける。

 当たらないなら二度、三度と繰り返すまでだ。

 その執念は本能から噴出しており、同時に人間を狩れるこの状況を心底楽しんでいる。

 タウロスは煉獄の魔物だ。人間を滅ぼすための勢力でありながら、それらは矛盾した環境に身を置いていた。

 煉獄という世界には、人間など存在していない。

 その地は魔物だけが生息する、地獄のような閉鎖空間だ。

 ゆえに、煉獄の住民達は飢えている。

 人間を殺したい。

 人間を滅ぼしたい。

 そう遺伝子に組み込まれている。

 タウロスもその内の一体だった。

 ある日突然、炎の魔物に誘われ、異なる世界へ招かれた。

 ウルフィエナ。

 それこそがこの世界であり、ついに人間達と出会うことが出来た。

 本能が歓喜のあまり震えている。

 この人間を殺してしまいたい、と。

 その一方で、髪の長い人間は素早く、有効な損傷はなかなか与えられない。

 裏を返せば、かすり傷を負わすことは出来ている。このまま攻め続ければ、勝ちは揺るがないはずだ。

 この攻防を離れた位置で眺める人物が一人。

 エウィンだ。リードアクターを発動させ終わったことから、純白の闘気をまとっている。


(おかしい……)


 加勢しない理由は、違和感を拭えないから。

 それもそのはず。アゲハはエウィンとは異なり、魔物に対して必殺の攻撃手段を持ち合わせている。


(何で燃やさない?)


 深葬。アゲハが神から与えられた青い炎は、触れるだけで対象を塵一つ残さず燃やし尽くせてしまう。

 その威力は凄まじく、木の枝は当然ながら、石や刃物、魔物さえも完膚なきまでに焼却出来る。

 ゆえに、彼女はある意味でエウィン以上の強者だ。殺し合いのセンスがなかろうと、この天技だけでどんな魔物とも渡り合える。

 そのはずだった。


(いや、違う……。燃やさないんじゃない、燃やせないんだ)


 エウィンが真相にたどり着いた瞬間だ。

 事実、アゲハはタウロスの打撃を避け切れず、腕や拳で何度も受け止めている。

 その際にガッシリと触っているのだから、そのついで燃やせるはずだ。

 しかし、灰色の怪物は平然としており、蹄はその形を保てている。

 アゲハも困惑しているのだろう。そこまでする必要はないのだが、両手に青い炎をまとわせた。

 腰の引けたパンチであろうと、本来ならば必殺の一撃だ。

 しかし、タウロスは燃えない。

 痛がる素振りを見せないばかりか、大きな口を開いて牙を披露している。

 もはや、疑うことなど不可能だ。

 眼前の魔物には、深葬が通用しない。

 この事実を受け入れることから始めなければならず、それはアゲハがこの魔物に勝てないことを意味してしまう。

 そうであると主張するように、二足歩行の牛が改めて女を殴る。

 顔面を潰すように。

 その命を刈り取るために。

 容赦のない打撃だ。集中力を乱したアゲハに避けられるはずもない。

 だからこその横やりだ。


「おらぁ!」


 蹄が彼女の顔面を砕くより早く、巨体が爆ぜるように吹き飛ぶ。

 エウィンだ。割って入るように距離を詰め、勢いそのままに魔物の横顔を蹴とばした。

 その運動エネルギーは凄まじく、タウロスは牙を折られたばかりか、緑色の絨毯をどこまでも転がる。

 エウィンは間に合ったことに安堵しつつも、問わずにはいられない。


「アゲハさんの炎って……」

「う、うん、効かない、みたい……。どうしよう?」


 困惑して当然だ。

 アゲハの炎が通用しない相手、今のところ人間だけ。

 探せば魔物の中にも例外はいるだろうとは予想していたが、現状は見つかっていない。

 今回の敵は、その一体目だ。

 エウィンとしても、そう認めざるを得ない。


「あいつは多分、煉獄の魔物です。だから、そういうことなのかもしれませんね」

「そ、そうだね。わたしの炎は、無敵じゃ、ない……」


 事実を突き詰められた瞬間だ。

 二人に出来ることは一つだけ。大人しく受け入れるしかない。

 実験対象は一体だけゆえ、決めつけるには早計か。

 そうであろうと、この魔物は煉獄出身だ。深葬が通用しないというルールに、今後は煉獄という要素を加味する。


「まぁ、それならそれでって感じです。燃やせないなら、んでもって斬れないのなら、殴って蹴って倒すまで。うん、いつも通りですね」

「わたし達、らしいね」


 万年金欠のエウィンにとって、素手での魔物退治はある意味で日常だ。

 裏を返すと武器に頼らずとも勝ててしまうのだから、頼もしいことこの上ない。

 改めて方針が定まったことから、エウィンは一歩を踏み出す。


「僕が前で、アゲハさんは後ろ。ピンチになったら助けてください」

「うん、任されて」


 エウィンとしても、準備は整った。リードアクターは煌々と輝いており、先ほどのキックも上々の出来栄えだ。

 もっとも、息の根を止められたとは思っていない。

 そうであると裏付けるように、遠方の灰色はもそっと起き上がった。

 異常なまでの前傾姿勢は、タウロスにとっての正しい姿勢だ。

 悔しそうな咆哮を聞きながら、エウィンも駆け出す。

 両者が共に近づいたことから、戦闘再開はあっという間だ。

 そして、主導権の奪い合いが開始される。

 タウロスの選んだ一手は、体当たりのような打撃。右腕をグンと振り上げ、眼前の人間を叩き潰さんとばかりに振り下ろす。

 エウィンもまた殴ろうとしたのだが、後れを取ったことが吉となった。

 いかに俊敏な予備動作であろうと、魔物の攻撃は大振りゆえ、サイドステップで容易に避けられる。

 もっとも、少年の心境は複雑だ。


(まだ速い⁉ リードアクターを使ってこれか!)


 この天技は腕力や脚力に留まらず、スタミナや反射神経、動体視力さえも向上させる。以前のような時間制限もないため、性能も使い勝手も非常に良好だ。

 それでもなお、天秤はグラグラと揺らいでいる。


「ぐうっ⁉」


 予期せぬ方向から叩かれた。

 エウィンは左方向へ小さく跳ねたのだが、着地と同時に左側面を殴打されてしまう。

 何に殴られた?

 当然ながら、二本の上肢ではない。

 尻尾だ。タウロスの胴体はトカゲのように尻尾を生やしており、長くはないが頑丈なそれは三本目の凶器として申し分ない。

 まるでハンマーを振り回すように、魔物は体を回転させた。

 その判断は正しく、エウィンは尻尾に打たれて吹き飛んでしまう。


(い、痛い! 骨は……大丈夫だと思うけど……)


 ボロ雑巾のようなありさまだ。

 そうであろうと、いつまでも寝転がっているわけにはいかない。

 左腕と体内がズキズキと痛むが、耐えられる範疇に収まっている。

 エウィンは体をいたわるように起き上がるも、次の瞬間、その変化には眉をひそめてしまう。


(なんだ?)


 疑問は当然だ。

 アゲハもまた、エウィンへ駆け寄るという行為を中断せざるを得ない。


(魔物の目が……、光ってる?)


 タウロスはただの魔物ではない。

 知能を持った魔物だ。

 ゆえに理解している。緑髪の人間が有象無象の雑魚ではない、と。

 だからこそ、出し惜しみは終わりだ。

 殺すためには、近寄らなければならない。

 あるいは、待っていれば向こうから詰めてくるだろう。

 そのどちらとも異なる候補が、これだ。

 タウロスは標的を視界に捉えたまま、瞳を輝かせる。

 発光そのものはただの予備動作だ。

 息を吐くためには吸う必要があるように、それのためには瞳が輝いてしまう。

 その成果がこれだ。エウィンは謎の力によってわずかに仰け反ってしまう。


「なっ⁉」


 気づいた時には、もう遅い。

 思考は急ぎ状況把握に努めるも、それすらも悪手だ。

 ここはタウロスの目の前。手を伸ばせば、灰色の胴体に触れてしまう。

 エウィンが仰け反った理由は、前触れもなく引っ張られたためだ。

 何をされた?

 もはや考えるまでもない。


(そういう……!)


 能力だ。

 エウィンはそう結論付けるも、それどころではない。

 引き寄せという芸当を披露したタウロスだが、目的は道半ば。

 ここからが本番だ。

 殺すために、ここへ運んだ。

 ゆえに、頭部をかみ砕くためその口を開く。

 今回ばかりは、避けられない。

 引き寄せという未知の攻撃に晒されたため、反応はどうしても遅れてしまう。

 自身の置かれた立場を把握するために、思考を割いたことも要因の一つだ。

 エウィンの視界は、牙だらけの口内で埋め尽くされている。

 救援は絶対に間に合わない。アゲハは一瞬ながらもエウィンを見失ったため、反応は彼以上に遅れてしまった。

 終わりだ。

 人間が肉を噛み千切るように、少年の顔が咀嚼される。

 タウロスは口の開閉に全力を出しており、頭蓋骨の粉砕など容易だ。

 そうであろうと、その歯応えには驚きを隠せない。

 口の中は空っぽだ。

 味が楽しめないばかりか、一切の歯応えが得られない。

 当然だろう。エウィンはまるでそう来るとわかっていたかのように、屈んで食われることを回避した。

 この魔物が特異な能力を持っているように、この傭兵もまた先読みを習得済みだ。

 互いが手の内を晒したことから、戦局は大きく動き出す。


「お返し!」


 無防備な顎下へ、飛び上がるようなアッパーカット。噛みつかれることは二度目ゆえ、反撃への移行は迅速だ。

 この一撃が巨体をよろめかせるも、エウィンは攻撃の手を緩めない。

 二足歩行の弱みを攻めるように、足払いでタウロスを転倒させる。この魔物は見た目以上に重く、草原が地震のように揺れ動いた。

 エウィンは改めてスチールソードを構える。この武器では魔物の顔すら傷つけられなかったが、それならそれで狙う箇所を変えるまでだ。

 苦しみ歪むその顔へ、狙いを定める。

 今回は斬るのではなく、突き刺すように。

 大きな口が開いたその瞬間、灰色の刃が押し込まれた。

 鋼鉄の味が不味かったのか、タウロスは声にならない悲鳴を上げる。大きな体が連動するように痙攣するも、スチールソードが抜かれることはない。

 決着だ。

 静寂が訪れた頃合いに、エウィンは大きく息を吐く。


「倒せた……のか?」


 安心するにはまだ早い。

 少なくとも、この少年は真っ白なオーラをまとったままだ。眼下の亡骸が動くとは思えないが、魔物相手に常識が通用しないことなど、傭兵ならば知ってて当然だ。

 もっとも、スチールソード越しの手応えは申し分ない。

 口の中に刃を突き入れられ、そのまま貫かれた以上、絶命は必然か。

 エウィンは反応を確認するように刃を引き抜くと、一歩、二歩と離れる。


「アゲハさん、終わりましたよー」

「うん」


 声をかけられるよりも前に、彼女は随分と近づいていた。彼女の黒髪もまた半分が青く染まっており、戦闘形態を解除していない。

 魔物から受けた傷は折り紙で癒したが、衣服はあちこちが破けてしまっている。

 その点はエウィンも同様ゆえ、二人は見た目こそ満身創痍ながらも、実際にはタウロスが起き上がろうと問題ない。


「終わった、終わったはずです。もう動かないですし……」

「そうだね。あんなにグサーって刺されたら、どうにもならないと思う」


 立ち話の最中も、タウロスはピクリとも動かない。

 これが死体の演技だとしたらば百点満点だ。

 もっとも、それを見抜けないほどこの二人は素人ではない。

 真っ青な草原の上で、エウィンとアゲハは立ち尽くす。障害を跳ね除けたのなら西を目指すべきだが、楽勝とは言い難いこの戦闘が彼らを呆けさせてしまう。


「何が何やらって感じです。いやまぁ、オーディエンの手下で間違いないでしょうけど……」

「空の上から、わたし達のこと、見てるのかな?」

「そうでしょうね。気配は感じられませんけど、ギリギリの位置取りでほくそ笑んでるはず。あいつはそういう奴です」


 青空を見上げたところで、薄い雲が浮いているだけだ。炎の魔物は見当たらないため、エウィンは改めて死体を観察する。

 その顔には二本の角と鋭い瞳。大きな口はだらしなく開いており、眠るように動かない。

 牛と言うよりはワニや恐竜が倒れているようにも見えるが、この二人はこれのことを何も知らず、ゆえに名前すら言い当てられない。

 考え込むエウィンに対し、アゲハがそっと語りかける。


「どうしよう? 予定を変えて、この死体、持ち帰る?」

「あぁ、それもアリですね。ハクアさんに言わないとか……」


 二人の遠征理由は、ラゼン山脈のトカゲ狩りだ。その尻尾が薬の材料になるため、持ち帰るよう指示された。

 しかし、それどころではない。無事退けられたが、この魔物との接触は最優先で報告すべきだ。

 少なくともアゲハはそう考え、エウィンに判断を委ねる。

 何度目かの沈黙が訪れるも、二人はそれを不快とは思わない。どちらも口数が多い方ではないため、このような雰囲気は頻繁に訪れる。

 異常だとしたら、それは第三者によって破られたことか。


「なっ⁉」

「きゃっ」


 二つの悲鳴はエウィンとアゲハだ。

 西の方角から、空気が震えるほどの轟音が訪れた。

 否、地面も大きく揺れ動いた。

 まるで、空から巨大な何かが降ってきたような衝撃だ。

 エウィンがそれが何なのか、いち早く言い当てる。


「魔物の、気配……」


 刺客はタウロスだけではない。

 それを倒したところで、四体目が送り込まれるだけだった。

 エウィンが歯を食いしばる。

 アゲハが恐れおののくように後ずさる。

 二人が凝視する先には、巨大な砂煙。それは姿を見せずとも、おぞましい殺気を振りまいている。

 光流暦千十九年、五月。大きなうねりが、エウィンとアゲハを包み込んだ。

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