第9話 捕まえた
逃げた。
自分でも、なぜ逃げたのか分からない。
ただ、道の向こうに立っているリヒト様を見つけた瞬間、身体が勝手に動いていた。
「エレノア!」
後ろから声がする。
まずい。
思ったより近い。
私は人通りの少ない脇道へ曲がった。
土地勘はこちらにある。子供の頃に何度も通った道だ。この先を抜ければ細い路地があり、その向こうには――
「待ってください!」
「嫌です!」
「なぜ!?」
「分かりません!」
「僕にも分かりません!」
何をしているんだろう、私たちは。
少なくとも、数日前まで婚約していた男女の再会ではない。
それでも足は止めなかった。
というより、止まれなかった。
会いたくなかったわけではない。
むしろ逆だ。
ずっと会いたかった。
馬車の中でも、故郷へ着いてからも、何度も思い出した。
ちゃんと薬を飲んだだろうか。
副作用は出なかっただろうか。
目は見えるようになっただろうか。
そして、もし見えるようになったなら。
私のことを探してくれるだろうか。
そんなことまで考えた。
追ってこないと分かっていたから出てきたくせに、心のどこかでは追ってきてほしいと思っていた。
我ながら、随分と勝手だ。
「エレノア!」
声が近づく。
速い。
「……なんでそんなに速いんですか!」
「知りませんよ!」
「目が治ったばかりでしょう!?」
「あなたが治したんでしょう!」
「そうですけど!」
言い返しながら角を曲がる。
その瞬間だった。
「きゃっ」
足元の石につまずいた。
転ぶ。
そう思って目を閉じる。
けれど、地面に身体がぶつかることはなかった。
代わりに、腕を強く掴まれる。
「――捕まえた」
「……」
聞き慣れた声が、すぐ近くから聞こえた。
恐る恐る顔を上げる。
リヒト様がいた。
近い。
ものすごく近い。
「……離してください」
「嫌です」
「即答ですか」
「あなたも逃げたでしょう」
「それとこれとは別です」
「僕には同じです」
腕を掴んでいる手を見る。
以前なら、こんなふうに迷わず私の腕を掴むことはできなかった。
視線を上げる。
そして、気づいた。
彼の瞳が。
真っ直ぐに、私を見ている。
「……見えるんですか?」
さっきまで散々走っていたのに。
今になってようやく、その事実を理解した。
リヒト様が少し笑う。
「見えます」
「本当に?」
「ええ」
「どのくらい?」
「あなたの顔が分かるくらいには」
「……」
急に恥ずかしくなった。
顔を逸らす。
「どうして逸らすんです?」
「別に」
「僕はずっと見たかったんですが」
「そういうことを急に言わないでください」
「急ではありません。かなり前から思っていました」
「私には急なんです」
逃げようとする。
でも、腕は離してくれない。
「リヒト様」
「何です?」
「離してください」
「また逃げるでしょう」
「逃げません」
「信用できません」
「公爵ともあろう方が婚約者を信用しないんですか?」
「その婚約者が何も言わずに消えたので」
「……」
何も言えない。
完全にこちらが悪い。
「とりあえず」
リヒト様が言った。
「話をさせてください」
「……」
「そのあと、あなたがまだ僕から逃げたいと言うなら」
一瞬。
彼の手が緩んだ。
「今度は止めません」
その言葉で、ようやく私は彼を見ることができた。
冗談ではない。
本当にそのつもりなのだ。
「……分かりました」
「ありがとうございます」
「だから離してください」
「……」
「リヒト様?」
「もう少しだけ」
「信用してないじゃないですか」
「していません」
「堂々と言わないでください」
少し離れたところから、ため息が聞こえた。
振り返ると、レオン様が立っていた。
「追いついたんですね」
「レオン」
「何でしょう」
「しばらく二人にしてくれ」
「最初からそのつもりです」
レオン様は私を見る。
「エレノア様」
「……はい」
「お久しぶりです」
「お久しぶりです」
「お元気そうで安心いたしました」
「ありがとうございます」
「リヒト様はあまりお元気ではありませんでした」
「レオン」
「では、私は失礼いたします」
言いたいことだけ言って、レオン様は去っていった。
「……怒ってました?」
「かなり」
「やっぱり」
「僕も怒っています」
「それは……すみません」
「謝罪はあとで聞きます」
あとで、があるらしい。
私は少しだけ困った。
それなのに。
なぜか嬉しかった。
* * *
話をする場所として選んだのは、町外れにある小さな丘だった。
子供の頃、よく両親と来た場所だ。
大きな木の下に腰を下ろす。
隣にはリヒト様。
こんなふうに二人で座るのは、夏祭り以来だった。
「……きれいな場所ですね」
「分かるんですか?」
「見えますから」
「ああ……そうでした」
まだ慣れない。
今までなら私が景色を説明していた。
でも今は、彼自身が空を見上げている。
「空が青い」
「はい」
「木は緑」
「そうです」
「雲が白い」
「……それくらい私でも知ってます」
「確認しているんです」
「私に?」
「自分に」
リヒト様は笑った。
「色の名前は覚えていました。でも、実際に見ると不思議ですね。記憶していたものと少し違う」
「長い間見ていなかったからでしょうね」
「多分」
彼はしばらく景色を眺めていた。
「あなたが言っていた青も、こういう色だったんですね」
「青?」
「庭の花です」
「ああ」
小さな青い花。
私が色を説明した日のこと。
「……覚えてたんですね」
「覚えていますよ」
リヒト様がこちらを見る。
「あなたが話したことは、大体」
また。
そういうことを言う。
私は膝の上の手を見ることにした。
「エレノア」
呼び方が変わっている。
以前はずっと、エレノア嬢だった。
「……何ですか?」
「顔を見てもいいですか?」
「もう散々見てるでしょう」
「ちゃんと」
「ちゃんと?」
「はい」
意味が分からない。
けれど顔を上げる。
目が合った。
今まで何度も向かい合って話してきた。
でも。
彼と目が合うのは、初めてだった。
リヒト様は何も言わない。
ただ、じっと私を見る。
「……何ですか」
「見ています」
「それは分かります」
「思っていたのと違う」
「悪い意味ですか?」
「どうしてそうなるんです?」
「言い方が悪いです」
リヒト様が笑う。
「もっと」
少し考える。
「怖い顔の人だと思っていました」
「……喧嘩売ってます?」
「違います。話し方がはっきりしているので」
「リヒト様にだけは言われたくありません」
「僕はそんなにはっきり言いませんよ」
「最近は結構言います」
「誰かさんの影響でしょうね」
「誰でしょうね」
二人で笑う。
こんな時間が。
ずっと欲しかった。
だからこそ。
これ以上続けてはいけない気がした。
「リヒト様」
「はい」
「どうして来たんですか?」
笑顔が消えた。
「私、手紙に書きましたよね。自分の人生を生きてみたいって」
「読みました」
「なら――」
「だから来ました」
予想していなかった答えだった。
「……どういう意味ですか?」
「最初は、追わないつもりでした」
リヒト様は前を見る。
「あなたがやっと手に入れた自由を、僕の都合で奪ってはいけないと思った。だから、あなたが自分から戻ってくるまで待とうと思いました」
「……」
「でも、それは違うと気づいた」
彼が私を見る。
「あなたの意思を尊重することと、僕が自分の気持ちを伝えないことは、同じではありません」
何も言えなかった。
「僕はあなたに、一度も言っていない」
「何を?」
「好きだと」
息が止まった。
あまりにも。
真っ直ぐだった。
「……」
「エレノア?」
「ちょっと待ってください」
「はい」
「今、整理してます」
「何を?」
「頭の中を」
「……あなたでもそうなるんですね」
「誰のせいですか」
「僕でしょうね」
その通りだ。
少し待ってもらう。
けれど、何秒待っても状況は変わらない。
結局。
言われた。
好きだと。
「……いつからですか?」
「分かりません」
「分からないんですか?」
「気づいたのが遅かったので」
「それは私も人のこと言えませんけど」
「でしょう?」
「嬉しそうに言わないでください」
また笑いそうになる。
でも。
今は笑って誤魔化してはいけない。
「私も」
言う。
「リヒト様が好きです」
今度は。
彼が黙った。
「……何か言ってください」
「少し待ってください」
「真似しないでください」
「本当に整理しているんです」
「あなたでもそうなるんですね」
「……仕返しですか?」
「少し」
リヒト様が笑った。
そのあと。
とても嬉しそうな顔をした。
初めて見る表情だった。
ああ。
この顔。
見られてよかった。
そう思った。
でも。
「ただ」
私は続ける。
「好きだからといって、すぐに戻るつもりはありません」
彼の表情が少し変わった。
「私は、ここでやりたいことがあります」
「薬屋ですか?」
「知ってるんですか?」
「少し調べました」
「……どこまで?」
「あなたがここへ帰るために、以前から空き家や開業許可について調べていたことまで」
「怖い」
「公爵なので」
「便利な言葉ですね、それ」
少し呆れながらも、私は続ける。
「私はここで、自分の薬を作ってみたい。侯爵家のためでも、公爵家のためでもなく、自分が作りたいと思ったものを作りたいんです」
「はい」
「自分で店を持って、自分で働いて、自分で生活したい」
「はい」
「それを諦めて公爵家へ戻ったら、きっと後悔します」
「分かっています」
「……分かってる?」
「はい」
あまりにも簡単に答えるので、逆に困った。
「なら、どうするつもりなんですか?」
「別に、諦める必要はないでしょう?」
「……何を?」
「どちらも」
リヒト様は、当然のことのように言った。
「あなたは薬屋をやればいい」
「ここで?」
「ここで」
「でも、結婚したら私は公爵夫人ですよ」
「そうですね」
「公爵夫人が田舎町で薬屋をやってるんですよ?」
「何か問題が?」
「問題しかないでしょう」
「具体的には?」
「……」
聞かれると。
意外と出てこない。
「社交界で何か言われます」
「言わせておけばいいでしょう」
「公爵家の体面は?」
「僕が気にしていません」
「仕事は?」
「王都にいなければならない時期もありますが、一年中ではありません」
「……」
「それに、ここから領地まではそれほど遠くない。必要ならこの町に別邸を用意してもいい」
「待ってください」
「はい」
「いつからそこまで考えてたんですか?」
「ここへ来る馬車の中で」
「……」
「時間はたくさんありましたから」
私は額を押さえた。
この人。
本気だ。
「リヒト様」
「はい」
「それでは、あなたが私に合わせることになるでしょう」
「そうですね」
「いいんですか?」
「なぜ駄目なんです?」
今度は私が黙る番だった。
「今まで僕は、あなたが公爵家へ嫁いでくることしか考えていなかった。でも、それは僕の都合です」
リヒト様は穏やかに続ける。
「あなたにはあなたの人生がある。僕にも僕の人生がある」
「……はい」
「なら、どちらかが全部捨てるのではなく、一緒に生きられる形を探せばいい」
そんなこと。
考えたことがなかった。
結婚するなら、公爵家へ行く。
故郷で暮らすなら、リヒト様とは別れる。
ずっと。
二つしかないと思っていた。
「……ずるいですね」
思わず口から出た。
リヒト様が少し笑う。
「前にも言われました」
「覚えてたんですか?」
「あなたが話したことは、大体覚えていると言ったでしょう?」
「そうでしたね」
「でも」
彼の表情が少し真剣になる。
「一つだけ、勘違いしないでください」
「何です?」
「僕は、あなたに選んでもらうためだけに、何でも許すと言っているわけではありません」
その言葉に顔を上げる。
「嫌なことは嫌だと言います。喧嘩もするでしょうし、僕にも譲れないことはあると思います」
「……はい」
「だから、そのたびに話しましょう」
リヒト様が私を見る。
「あなたが一人で全部決めて、またいなくならないように」
「……」
痛いところを突かれた。
「それは反省しています」
「本当に?」
「しています」
「では次からは?」
「……話します」
「僕に?」
「はい」
「いなくなる前に?」
「しつこいですね」
「大事なことなので」
「分かりました。いなくなる前に話します」
「いなくならない、とは言わないんですね」
「未来のことは分かりませんから」
「本当にあなたらしい」
呆れたように言いながら。
リヒト様は笑っていた。
* * *
風が吹き、頭上の木の葉が揺れた。
しばらく二人とも何も話さなかった。
不思議と気まずくはない。
ただ、さっきまで言えなかったことを全部言ってしまったせいか、隣にいるリヒト様を妙に意識してしまう。
「エレノア」
「はい」
「一つだけ、お願いしてもいいですか?」
「内容によります」
「そこは普通、何でも言ってくださいじゃないですか?」
「内容を聞く前に了承するほど無謀ではありません」
「……あなたならそう言うと思いました」
「それで?」
リヒト様が少し迷ってから、こちらへ手を差し出した。
「手を」
「手?」
「はい」
「どうして?」
尋ねると、彼は困ったように視線を逸らした。
「……触れたいから」
あまりにも正直な答えに、今度は私が黙る。
「嫌なら、いいんです」
そう言って手を引こうとする。
その前に、私は彼の手を取った。
「……」
「何です?」
「いえ」
指が重なる。
夏祭りの夜にも、こうして手を握った。
あのときは、人混みの中で不安そうな彼を安心させるためだった。けれど今は、導くためでも、支えるためでもない。
ただ、触れたいから。
それだけだった。
「エレノア」
「はい」
「あなたの手って、こんな感じだったんですね」
「前にも握ったでしょう?」
「そのときは見えなかったので」
リヒト様は繋いだ手をじっと見ている。
「今は見える」
「……そうですね」
指先が少し動いた。
離すのかと思った。
けれど逆だった。
私の指の間へ、彼の指がゆっくりと入ってくる。
「リヒト様?」
「……すみません」
「何がです?」
「分かりません」
「分からないのに謝ってるんですか?」
「なんだか、謝ったほうがいい気がして」
「変な人」
「あなたに言われたくありません」
そう言いながらも、リヒト様は手を離さない。
むしろ、さっきより少し強く握られた。
私はその横顔を見る。
彼はまだ繋いだ手を見ていた。
まるで、そこに私がいることを確かめるように。
「……本当にいる」
「何ですか、急に」
「いえ」
リヒト様が小さく笑った。
「手紙を読んだとき、もう会えないかもしれないと思ったので」
胸が痛む。
「……すみません」
「怒っていますよ」
「はい」
「かなり」
「……はい」
「でも、それ以上に」
そこで言葉が途切れた。
顔を上げる。
目が合った。
リヒト様は何かを言おうとして、やめた。
「リヒト様?」
「……駄目だ」
「何がです?」
「少し」
繋いだ手を引かれる。
身体が近づいた。
何をされるのか理解するより先に、リヒト様の顔が近づいてくる。
そして。
唇に、ほんの一瞬だけ柔らかいものが触れた。
「……」
「……」
離れる。
私は瞬きをした。
リヒト様も、私を見たまま固まっていた。
「……今」
「すみません」
「早い」
「……すみません」
もう一度謝られた。
「もしかして」
私は彼の顔を見る。
「何も考えずにしました?」
「……はい」
「はい?」
「手を握ったら」
リヒト様が珍しく気まずそうに目を逸らした。
「あなたが本当にここにいるんだと思って。それで……」
「それで?」
「……我慢できませんでした」
その言葉に、心臓が跳ねた。
あのリヒト様が。
いつも一歩引いて、私の意思ばかり気にしていた人が。
我慢できなかった。
「……嫌でしたか?」
恐る恐る聞かれる。
さっきまで追いかけてきた人とは思えないくらい、不安そうな顔だった。
「嫌だったら、どうするんです?」
「謝ります」
「もう二回謝ってますよ」
「では、もう一度」
「増やさなくていいです」
思わず笑ってしまった。
すると、リヒト様が少しだけ安心したような顔をする。
「嫌じゃないです」
「……本当に?」
「はい」
そう答えた瞬間。
彼の顔が変わった。
笑ったわけではない。
でも。
ものすごく、嬉しそうだった。
「……そうですか」
「そんなに?」
「はい」
「キスしただけですよ?」
「僕にとっては初めてなので」
「……」
「……」
「それ、先に言ってください」
「言う時間がありませんでした」
「自分でしたんでしょう」
「そうなんですが……」
リヒト様が困ったように笑う。
それからもう一度、繋いだ手を見る。
「……嬉しい」
小さな声だった。
それだけなのに。
さっきのキスより、その言葉のほうが恥ずかしかった。
「エレノア」
「何です?」
「もう少し、このままでもいいですか?」
今度はちゃんと聞いてくる。
私は少しだけ笑った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「そこ、お礼を言うところですか?」
「僕にとっては」
リヒト様が私の手を握り直す。
「今は、何でも嬉しいので」
困った。
本当に。
こんな顔をされてしまったら。
離したくなくなる。
私たちはそのまま、しばらく手を繋いでいた。
今度は、どちらからも離さなかった。




