第8話 この目で見たい人
「……明るい」
その言葉を口にしてから、しばらく誰も動かなかった。
リヒトは窓のほうへ顔を向けたまま、ゆっくりと瞬きをする。
何かが見えるわけではない。
形も色も分からない。
ただ、これまでどこを向いても同じだった暗闇の中に、明らかな違いがあった。
窓のある方向だけが、ぼんやりと白い。
「リヒト様」
レオンの声が震えていた。
「本当に……?」
「ああ。光が分かる」
自分の声まで震えている。
十二歳のあの日から、何年も医師や魔術師に診てもらった。
治療法はない。
回復する可能性は極めて低い。
何度もそう言われ、いつしか期待することをやめた。
見えないことを前提に生きる方法を覚えた。
それなのに今、失ったはずの光が確かに戻ってきている。
「医師を呼びます」
「ああ」
足早に部屋を出ていくレオンの音を聞きながら、リヒトはもう一度窓へ顔を向けた。
『見られますよ』
エレノアは何度もそう言った。庭でも、夏祭りでも。何の根拠があるのかと聞けば、秘密だと笑った。
「……これだったのか」
今なら分かる。
あのとき彼女はもう、自分の目を治すために研究をしていた。
そして成功する保証がないからこそ、何も言わなかったのだろう。
期待させないために。
「本当に……あなたは」
最後まで彼女らしい。
そう思うと、笑いたいような、怒りたいような、どうしようもない気持ちになった。
* * *
「薬による異常はありません。むしろ、魔力反応は非常に安定しています」
診察を終えた医師が言った。
「では、このまま服用を?」
「説明書の通りでよろしいかと。しかし……これは本当にエレノア・ルーベンス嬢がお一人で?」
「ああ」
「驚きました。視神経だけでなく、魔力経路の損傷まで想定して組まれている。これほどの薬を――」
「先生」
レオンが止める。
「ああ、失礼しました」
医師は咳払いをした。
リヒトは何も言わなかったが、少しだけ誇らしかった。自分が作ったわけでもないのに。
「次の服用は今夜です。それまでは強い光を避けてください」
「分かりました」
医師が帰ると、部屋に静けさが戻った。
「……リヒト様」
「何だ」
「嬉しくないのですか?」
レオンに聞かれ、リヒトは少し考えた。
「嬉しいよ」
それは間違いない。
諦めていたものが戻ろうとしているのだから、嬉しくないはずがない。
「ただ、思っていたのと違う」
「……何がです?」
「昔は、目が見えるようになれば、それだけで幸せだと思っていた」
空が見たい。
街が見たい。
もう一度、自分の顔も見てみたい。
そんなことを考えていた。
でも今、光を取り戻して最初に思ったのは――
「見たい人が、ここにいない」
レオンは何も言わなかった。
* * *
翌朝、目を開いた瞬間に昨日とは違うことに気づいた。
窓から差し込む光、その手前に何かがある。
「レオン」
「はい」
「そこにいるか?」
「おります」
「……右側?」
一瞬の沈黙のあと、レオンが答えた。
「はい。どうして……」
「分からない」
リヒトは目を細める。
白い光の中に、ぼんやりと黒い影があった。
「何かが見える」
「……」
「お前か?」
「はい」
レオンが近づくと、影が大きくなる。
「止まれ」
足音が止まった。
「……そこにいる」
「はい」
形は分からない。
顔も見えない。
それでも、人がそこにいることだけは分かる。
「……すごいな。人って、こんなに大きかったのか」
「……」
「何だ?」
「いえ」
レオンの声が少しおかしい。
「泣いてるのか?」
「まさか」
「声が変だぞ」
「気のせいです」
「僕にそれを言うのか?」
どこかで聞いたことのあるやり取りだった。
思い出した瞬間、胸が痛む。
「……エレノアみたいなことを言うな」
「申し訳ありません」
「謝るな」
リヒトは笑った。
けれど、その笑い声が消えると、部屋はひどく静かに感じられた。
* * *
その日の午後、リヒトは一人で屋敷を歩いていた。
杖は持っている。
まだ輪郭すら曖昧なのだから当然だ。
それでも、今までとは違った。
廊下の窓が分かる。
扉がある場所がなんとなく分かる。
使用人が通れば影が動く。
一つ、また一つと世界が戻ってくる。
歩いているうちに、ある部屋の前で足が止まった。
「ここは……」
まだ使われていない部屋。
エレノアのために、研究室へ改装する予定だった場所だ。
扉を開けて中へ入る。
まだ家具も薬棚も作業机もない。
これから彼女と相談しながら決めるつもりだった。
『来週、研究室の場所を見てください』
『……分かりました』
あの返事を思い出す。
彼女は、もう出ていくつもりだった。
「……分かりました、じゃないだろう」
誰もいない部屋で呟いた。
「来ないなら、そう言えばいい」
もちろん、言えるはずがなかったことも分かっている。
自分が知れば止めたかもしれない。
侯爵家に知られれば、計画を邪魔されたかもしれない。
彼女なりに考え抜いた結果だったのだろう。
それでも、
「僕には何も言わないで、薬だけ残して……それで僕が納得すると思ったのか」
返事はない。
当然だ。
けれど、胸の中に生まれた小さな怒りは、不思議とリヒトを少しだけ楽にした。
* * *
「レオン」
その日の夕方、リヒトは執務室で尋ねた。
「エレノアは、僕が追わないと思っているのかな」
レオンは少し考えてから答えた。
「おそらく。リヒト様が、エレノア様の意思を尊重なさる方だからでは?」
「……やはりそうか」
彼女は自分のことをよく分かっている。
追わない。追ってはいけない。
そう考えることまで、きっと予想している。
「……腹が立つな」
「珍しいですね」
「何が?」
「リヒト様が、エレノア様に腹を立てるのが」
「僕だって怒る」
「存じませんでした」
「お前まで馬鹿にするな」
「しておりません」
少し黙ってから、リヒトは尋ねた。
「レオン。彼女の意思を尊重することと、僕が自分の気持ちを伝えに行くことは、同じだと思うか?」
レオンは答えなかった。
リヒト自身も、答えを求めていたわけではない。
「彼女は、自分の人生を生きたいと言った。それをやめさせる権利は僕にはない」
「はい」
「でも、僕は何も言っていない」
好きだとも、行かないでほしいとも。
結婚する日を楽しみにしているとは伝えた。けれど、それだけだった。
彼女がいなくなって、ようやく分かった。
自分が欲しかったのは、婚約者でも、公爵夫人でもない。
「僕は、彼女と生きたい」
レオンが顔を上げた気配がした。
「彼女が公爵家へ来るのではなく?」
「ああ」
研究がしたいなら、すればいい。
故郷へ帰りたいなら、帰ればいい。
自分の店を持ちたいなら、持てばいい。
なぜ今まで、彼女が自分のところへ来ることだけが結婚だと思っていたのだろう。
「彼女がここへ来なければならない理由なんてない」
「では?」
「僕が行けばいい」
口にしてみれば、驚くほど簡単なことだった。
「……なるほど」
「何だ?」
「いえ。ようやくそこに辿り着かれたのだな、と」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
「最近、お前もエレノアに似てきたな」
「光栄です」
「褒めてない」
「存じております」
リヒトは久しぶりに、少しだけ笑った。
* * *
三日目、最後の薬を飲んだ。
そして翌朝。
目を開いたリヒトの視界に、最初に飛び込んできたのは白だった。
窓から入る朝の光。
次に茶色い窓枠が見え、その手前には黒いものがある。
「……レオン?」
「はい」
声のする方向を見る。
人がいる。
昨日までの影ではない。
輪郭があり、黒い髪と服、そして顔がある。
まだ少しぼやけているが、それでも見える。
「……お前、そんな顔だったのか」
「どういう意味でしょう」
「思っていたより怖い」
「……視力が戻って最初の感想がそれですか?」
リヒトは声を上げて笑った。
「レオン」
「はい」
「見える」
「……はい」
「お前の顔が見える」
レオンが笑った。
幼い頃からずっとそばにいた男の顔を、初めて見る。
想像していたものとは少し違う。
「……泣いてるじゃないか」
「泣いておりません」
「今度は誤魔化せないぞ」
「……困りましたね」
レオンが目元を拭う。
その動きまで見える。
世界には、こんなにもたくさんのものがあった。
色も、形も、光も、表情も。
全部、彼女が返してくれた。
「レオン」
「はい」
「出かける準備を」
レオンが目を細める。
「どちらへ?」
「エレノアのところへ」
* * *
「居場所は分かっているのですか?」
馬車の準備をしながら、レオンが尋ねた。
「正確には分からない」
エレノアはかなり慎重に王都を出たらしい。
侯爵家が調べた駅馬車に彼女が乗った記録はなく、王都を出たあとも何度か進路を変えている。
「ですが、目的地の見当はついております」
「ああ」
アルト村。
彼女がずっと帰りたがっていた場所。
「本当にそこへ向かった保証はありません。途中で別の町へ行った可能性もあります」
「分かっている。まず行く。違ったら、そのとき次を探す」
「……」
「何だ?」
「以前のリヒト様なら、確証がないと言って動かなかったでしょうね」
「そうかもしれない」
以前の自分なら、彼女が望んでいないかもしれない、迷惑かもしれない、自分よりもっといい人生があるかもしれないと考えて、最初から諦めていただろう。
でも、今は違う。
「彼女が僕を選ぶかどうかは、彼女が決めることだ」
「はい」
「でも――僕が彼女を選ぶかどうかは、僕が決める」
あの夜、エレノアが言った。
『私が幸せか不幸かは、私が決めます』
なら、自分も同じだ。
「行こう、レオン。彼女を探す」
「はい」
* * *
王都を出て三日。
見えるようになった世界は、驚くことばかりだった。
リヒトは馬車の窓から外を眺める。
「空って、こんなに広かったのか」
「そうですね」
「青い」
「はい」
「……あれが青か」
色の名前は覚えている。
十二歳まで、自分は見えていたのだから。
けれど記憶の中の色は、長い年月の中でほとんど輪郭を失っていた。
木々の緑。
土の茶色。
雲の白。
夕暮れの赤。
目に入るものすべてが懐かしく、それでいて初めて見るもののようだった。
「エレノア嬢がいたら、きっと一つずつ説明してくださったでしょうね」
レオンが言う。
「……ああ」
『あれは白い花です』
『それでは分かりませんね』
『注文が多いですね』
庭での会話を思い出す。
あの頃、彼女は自分が見えない世界を言葉で見せてくれた。
「今度は、僕が自分で見たものを彼女に話したい」
* * *
アルト村へ到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「ここが……」
馬車を降り、リヒトは周囲を見渡す。
小さな町だった。
王都のような華やかさはなく、立派な建物も少ない。けれど遠くには山があり、道沿いには小さな家が並び、店先では人々が楽しそうに話している。
「……彼女が育った町」
「そのようです」
エレノアがずっと帰りたかった場所。
その理由が、少しだけ分かる気がした。
「まず、ご実家があった場所へ向かいますか?」
「ああ」
二人で歩き出す。
まだ長く歩くと目が疲れるし、強い光にも完全には慣れていない。
それでもリヒトは、この町だけは自分の目で見たかった。
彼女が見ているものを、自分も見てみたかった。
「リヒト様」
突然、レオンが足を止めた。
「何だ?」
「……あれ」
レオンが道の先を見る。
その視線を追った。
小さな店がある。
まだ看板もなく、扉の横にはいくつかの薬草が干されている。
その店の前に、一人の女性がいた。
木箱を抱えた、淡い髪の女性。
見たことはない。
一度も。
それなのに、分かった。
「……エレノア」
初めて見た。
ずっと見たいと思っていた人が、そこにいた。
その瞬間、エレノアが顔を上げた。
二人の視線が重なる。
彼女の目が大きく見開かれ、抱えていた木箱がわずかに傾いた。
「……え」
小さく唇が動く。
「どうして……」
リヒトは初めて見る彼女の顔を、ただ見つめていた。
想像していたものとは全然違う。
それでも、最初に浮かんだのはたった一つだった。
――やっと、見つけた。
エレノアが一歩後ろへ下がった。
リヒトも一歩、彼女へ向かう。
すると、また一歩下がる。
「……逃げます?」
エレノアは答えなかった。
ただ、抱えていた木箱をそっと地面に置いた。
「エレノア?」
次の瞬間。
彼女は踵を返して走り出した。
「逃げた!?」
レオンの驚いた声が聞こえる。
リヒトも一瞬呆然としたが、すぐに笑いが込み上げた。
「……本当に、どこまで予想を裏切る人なんだ」
でも、もう暗闇の中ではない。
走っていく彼女の背中が、はっきりと見える。
「リヒト様!」
「ああ」
リヒトも走り出した。
今度こそ――見失わないために。




