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第7話 君がいない


「リヒト様」


 その日レオンが執務室へ入ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


「何だ?」


「お客様です」


「客?」


「はい」


 今日は誰かと会う予定はなかったはずだ。


「誰だ?」


「エレノア様の侍女です」


「ミア嬢?」


「はい」


 リヒトは少し意外に思った。


 エレノア本人ではなく侍女だけが、この屋敷へ来る理由。


「何かあったのか?」


「……」


 返事がない。


「レオン?」


「まず、お会いになったほうがよろしいかと」


 その声に妙なものを感じた。


「分かった。通してくれ」


「はい」


 しばらくして扉が開いた。


「失礼いたします」


 聞き覚えのある女性の声。


「お久しぶりです、ミア嬢」


「……はい」


 声が硬い。


「今日はどうしました?」


「エレノアお嬢様から、お預かりしたものがあります」


「エレノア嬢から?」


「はい」


 机の上に何かが置かれる音がした。


「これは?」


「お薬と、お手紙です」


「薬?」


 リヒトは首を傾げた。


「何の薬です?」


「……」


 ミアが答えない。


 代わりに、


「お手紙を」


 そう言った。


 嫌な予感がした。


「レオン」


「はい」


「読んでくれ」


 紙を開く音がする。


 そしてレオンが読み始めた。


『リヒト様へ。


 あなたの目を治すための薬が完成しました』


「……待て」


 思わず遮った。


「今、何と言った?」


「……あなたの目を治すための薬が完成した、と」


「僕の……目?」


「はい」


 意味を理解するまで少し時間がかかった。


「ミア嬢」


「はい」


「これは……エレノア嬢が?」


「お嬢様が作られました」


「いつから?」


「かなり前からです」


「……」


「公爵様と初めてお会いした頃から、ずっと」


 リヒトは言葉を失った。


 初めて会った日。


『もし魔力による損傷なら、神経そのものが壊れているとは限りません』


『……治せるかもしれませんね』


 あれは、ただの思いつきではなかったのか。


「……続きを」


 レオンが再び手紙を読む。


『同封した説明書の通り、一日一度、三日間服用してください。


 私の推測が正しければ、徐々に光を感じるようになるはずです。


 副作用が出た場合は、すぐに服用を中止してください。


 研究段階では安全性を確認していますが、完全な保証はできません』


 そこまではいつもの彼女だった。


 薬について話すときの無駄がなく必要なことだけを伝えるあの話し方。


 けれど次の一文ですべてが変わった。


『勝手にいなくなることを、お許しください』


「……」


 リヒトの指がわずかに動いた。


「……続けて」


『私は、自分の人生を一度、自分の力で生きてみたいと思います。


 今まで、本当にありがとうございました。


 あなたと過ごした時間を、私は忘れません。


 ――エレノア』


 そこで手紙は終わった。


「……」


 誰も何も言わない。


 しばらくしてリヒトが口を開いた。


「……これは」


 自分でも驚くほど普通の声だった。


「どういう意味です?」


 答えたのはミアだった。


「お嬢様は、今朝、侯爵邸を出られました」


「どこへ?」


「……申し上げられません」


「知らない、ではなく?」


 ミアが息を呑む。


「今」


 リヒトは静かに言った。


「申し上げられない、と言いましたね」


「……」


「あなたは、行き先を知っているんですか?」


 沈黙。


 それが答えだった。


「教えてください」


「できません」


「なぜ?」


「お嬢様と約束しました」


「……」


「誰にも、行き先を教えないと」


 リヒトは何も言えなかった。


 怒っているわけではない。


 ただ理解できなかった。


「……来週」


「え?」


「彼女は、来週も来ると言っていました」


 昨日確かに話した。


『来週、研究室の場所を見てください』


『……分かりました』


「僕は」


 声が少しだけ掠れた。


「彼女のための研究室を、用意しているんです」


 ミアが俯く。


「……存じております」


「知っていた?」


「お嬢様から聞きました」


「なら」


 なぜ、その言葉は最後まで出なかった。


 彼女は知っていた。


 自分が彼女との未来を考えていることを。


 知っていてそれでも行った。


「……そうですか」


 リヒトはそれしか言えなかった。


     * * *


「リヒト様」


 ミアが帰ったあとレオンが声をかけた。


「……何だ」


「お薬は、どうなさいますか?」


「……」


 机の上。


 小さな箱の中に彼女が残した薬がある。


「説明書を」


「はい」


 レオンが読み上げる。


 服用量、


 時間、


 食事との間隔、


 服用後に起こる可能性のある症状、


 細かい、驚くほど細かい。


 最後にはもし発熱が起きた場合。


 頭痛が起きた場合。


 魔力が乱れた場合。


 それぞれの対処方法まで書かれていた。


「……彼女らしいですね」


 レオンがぽつりと言った。


「……ああ」


 リヒトは手を伸ばす。


 箱に触れる。


 指先で小さな薬瓶を探す。


 これを飲めば見えるようになるかもしれない。


 ずっと諦めていたもの。


 空。


 花。


 人の顔。


 そして。


 彼女。


「……」


 リヒトの手が止まる。


「リヒト様?」


「レオン」


「はい」


「僕は以前」


 ゆっくりと言った。


「目が見えるようになったら、最初に何を見たいのか考えたことがある」


「……はい」


「子供の頃は、空だった」


 事故のあと。


 まだいつか治ると信じていた頃。


 もう一度青い空を見たいと思った。


「でも今は」


 答えは考えるまでもなかった。


「彼女を見たい」


「……」


「エレノアの顔を」


 どんな顔で笑うのか。


 怒るのか。


 呆れるのか。


 研究について話すときどんな目をするのか。


 ずっと知りたいと思っていた。


「……なのに」


 リヒトは小さく笑った。


「治す薬だけ残して、いなくなるなんて」


 笑ったはずなのにその声は少しも楽しそうではなかった。


     * * *


「……調べてくれ」


 しばらくしてリヒトは言った。


「何をでしょう」


「彼女が、なぜ出ていったのか」


「……」


「行き先ではない」


 レオンが黙る。


「ミア嬢が約束したことを、無理に聞き出すつもりはない」


「では」


「僕は何も知らなかった」


 リヒトは初めてそれを認めた。


「彼女が自分の人生を生きたいと言った理由を」


 研究が好きなのは知っていた。


 侯爵家を好いていないことも。


 何となく分かっているつもりだった。


 けれどそれだけだった。


「僕は」


 彼女のための研究室を作れば喜んでもらえると思った。


 結婚してこの屋敷で好きな研究を続けてもらえばそれで彼女は幸せなのだと勝手に思っていた。


『私が幸せか不幸かは、私が決めます』


「……」


 あの夜会で彼女自身が言っていたではないか。


「彼女が何を望んでいたのか」


 リヒトは言った。


「調べてくれ」


「……承知しました」


     * * *


 調べるのにそれほど時間はかからなかった。


 いや、正確には調べるまでもないことばかりだった。


 自分が知らなかっただけで。


「エレノア様がルーベンス侯爵家へ引き取られたのは、ご両親を亡くされたあとです」


 翌日。


 レオンが報告書を読み上げる。


「当時、エレノア様はまだ幼く、侯爵が後見人となっています」


「ああ」


「ご両親は、魔法薬の研究者だったようです」


「それは聞いている」


「問題は、その後です」


 レオンの声が少し低くなる。


「ご両親が残した研究資料、およびエレノア様がその後行った研究。そのほぼすべてを、侯爵家が管理しています」


「……管理?」


「実質的には、侯爵家の所有物として扱われていました」


 リヒトの眉が寄る。


「彼女自身の研究なのに?」


「はい」


「……」


「侯爵家が現在販売している魔法薬のうち、主要なものの多くにエレノア様が関わっています」


「......」


「侯爵家の経営が傾いてからはエレノア様の薬による利益で、かなりの期間、損失を補填していたようです」


「……」


 初めて会った日。


『私は侯爵家より公爵家のほうが静かに暮らせそうだと思っています』


 あの言葉、自分は少し変わった令嬢の冗談のように受け取っていた。


 違った。


「……だからか」


「はい?」


「彼女が」


 あの日婚約の条件として研究を続けたいと言った理由。


 ただ研究が好きだからではなかった。


 研究を自分のものとして続けたかったのだ。


「今回の婚姻契約にあたり」


 レオンが続ける。


「侯爵家は、エレノア様への後見権を放棄しています」


「……ああ」


 その条件を入れたのは自分だった。


 正確には侯爵家について調査したレオンから提案され当然だと思って承認した。


「さらに、研究成果に関する権利についても、侯爵家は今後一切主張しない」


「そうだ」


「昨日、その手続きがすべて完了しました」


「……昨日?」


「はい」


 沈黙。


 そして理解した。


「……待っていたのか」


 リヒトが呟く。


「リヒト様?」


「彼女は」


 ずっと、この日を待っていた。


 侯爵家が彼女を連れ戻せなくなる日を。


「婚約したから、この家を出たんじゃない」


 婚約したから侯爵家から自由になれた。


 そのために彼女は。


「……最初から」


 自分との婚約を利用したその事実は不思議と腹が立たなかった。


 むしろ彼女らしいと思った。


 条件を確認し自分の目的に使えると判断し最も確実な方法を選ぶ。


「……そういうことか」


 初めて会った日の言葉。


『条件が悪くないからです』


 あれは本当に最初から最後まで嘘ではなかった。


     * * *


「もう一つ」


 レオンが言った。


「何だ?」


「エレノア様が幼少期を過ごされた町が分かりました」


 リヒトが顔を上げる。


「どこだ?」


「――アルト村です」


 王都から馬車を乗り継いで数日の小さな町。


 エレノアの両親がかつて研究所を構えていた場所。


「ご両親が亡くなるまで、そこで暮らしていたようです」


「……」


「そして」


 レオンが少し迷う。


「侯爵家へ来てからも、何度かその土地について調べていた形跡があります」


「何を?」


「空き家です」


「……」


「それから、小規模な薬屋を開業するために必要な許可について」


 胸の奥が冷たくなる。


 つまり彼女はずっと前から。


「……帰るつもりだった」


 自分と出会う前から。


 婚約する前から。


 彼女には帰りたい場所があった。


 やりたいことがあった。


 自分の人生があった。


「リヒト様」


「……何だ」


「追いますか?」


 その問いにすぐには答えられなかった。


 追えば見つけられるだろう。


 公爵家の力を使えば一人の令嬢を探すことはそれほど難しくない。


 でも、


『私は、自分の人生を一度、自分の力で生きてみたいと思います』


 彼女がやっと手に入れた自由。


 それを自分の気持ちだけで奪っていいのか。


「……いや」


 リヒトは答えた。


「今は、追わない」


「よろしいのですか?」


「彼女が望んだことだ」


「……」


「僕が追えば」


 きっと彼女を困らせる。


 だから、


「……追わない」


 もう一度自分に言い聞かせるようにそう言った。


     * * *


 その日の夜リヒトはエレノアが残した薬を飲んだ。


 苦い。


 驚くほど。


「……苦いな」


 思わず呟く。


 彼女なら何と言うだろう。


『薬なんだから当然でしょう』


 そんな声が簡単に想像できた。


「……」


 静かな部屋。


 誰もいない。


 今までも一人で過ごすことなどいくらでもあった。


 なのに今日は妙に広く感じる。


「……エレノア」


 呼んでも返事はない。


 当然だ。


 彼女はもうここにはいない。


     * * *


 翌朝目が覚めたいつもと同じ。


 暗闇、そう思った。


「……?」


 しかし微かに違和感がある。


 リヒトはゆっくり顔を上げた。


 何も見えないはずなのに。


「……レオン」


 声を出す。


 隣室に控えていたのかすぐに足音が近づく。


「はい」


「カーテンは?」


「閉まっております」


「……開けてくれ」


「はい」


 布が擦れる音。


 その瞬間。


「……っ」


 リヒトは思わず目を閉じた。


「リヒト様?」


「待て」


 心臓が大きく鳴る。


「……もう一度」


 ゆっくり目を開く。


 何も形は見えない。


 色も分からない。


 でも昨日までとは明らかに違う。


「……明るい」


「え?」


「レオン」


 声が震えた。


「明るいんだ」


 窓がある方向そこだけ暗闇ではない。


 ぼんやりと白い何かがある。


「……見えるんですか?」


「分からない」


 まだ何も見えない。


 ただ、


「光が」


 リヒトは窓のほうへ顔を向けた。


「分かる」


 長い間忘れていたもの。


 光。


 その瞬間喜びより先に一人の顔が浮かんだ。


 まだ一度も見たことのない顔。


『見られますよ』


 あの声。


『いつか、一緒に見ましょう』


「……」


 リヒトは目を閉じた。


 彼女は本当に自分の目を治した。


 なのにその彼女がここにはいない。


「……レオン」


「はい」


「昨日」


 自分は何と言った。


『追わない』


 彼女の意思を尊重する。


 そう決めた。


 それが正しいことだと思った。


 でも、光を感じた瞬間最初に思ったことはたった一つだった。


 ――彼女の顔を見たい。


「……」


 まだ追うとは言わなかった。


 けれど胸の中で昨日までとは違う何かが確かに動き始めていた。

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