第6話 薬の完成
最後の一滴を落とした瞬間、薬瓶の中の液体が透明から淡い青へ変わった。
私は息を止める。
机の上には何十枚もの紙と、失敗した薬瓶、使い切った薬草。
そして、その中央には小さな青い薬瓶が置かれていた。
「……できた」
声に出しても、まだ実感がない。
「お嬢様?」
部屋の隅で薬草を仕分けていたミアが顔を上げた。
「今、なんて?」
「できた。完成したわ」
ミアが勢いよく立ち上がる。
「本当ですか!?」
「多分」
「多分?」
「最終検証がまだ」
私はすぐに記録用紙を引き寄せた。
「魔力濃度は正常。反応速度も想定範囲内。沈殿なし。変色も――」
「お嬢様」
「何?」
「今くらい喜んでもいいんじゃないですか?」
「まだ完成したと決まったわけじゃないでしょう」
「さっき完成したって言いましたよ」
「現段階では、完成した可能性が非常に高いという意味」
「……」
ミアがため息をついた。
「本当にお嬢様ですね」
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
私は再び薬瓶を見る。
今回使ったのは、魔力によって傷ついた神経を再生させる薬草。
そこへ、視神経へ魔力を集中させる触媒を加えた。
問題だったのは、その触媒だった。
強すぎれば神経そのものを傷つける。
弱すぎれば意味がない。
そのため何度も配合を変え、温度、濃度、抽出時間、魔力を流す速度まで一つずつ調整してきた。
そして、ようやく。
「……理論上は、これでいい」
事故によってリヒト様の視力が失われた原因が私の推測通りなら、この薬で彼の目を治せるはずだ。
「公爵様、喜びますね」
ミアが言った。
「……そうね」
夏祭りの夜を思い出す。
『見てみたいな』
夜空に上がる花火を前に、リヒト様はそう言った。
私はあのとき、『いつか、一緒に見ましょう』と答えた。
薬瓶の中で、淡い青色が揺れている。
これでリヒト様は、また世界を見ることができるかもしれない。
空も。
花も。
花火も。
そして――私の顔も。
「……」
そこで手が止まった。
薬が効けば、リヒト様は初めて私を見ることになる。
どんな反応をするのだろう。
「……何考えてるの、私」
「はい?」
「何でもない」
私は薬瓶へ蓋をした。
ずっと作り続けてきた薬が完成した。
それはつまり、先延ばしにしてきたことを決めなければならない日が来たということでもあった。
* * *
その夜、私は眠れずに机へ向かっていた。
目の前にあるのは青い薬瓶と、三枚の書類。
一枚目は、ヴァレンシュタイン公爵家との婚姻契約書の写し。
二枚目は、ルーベンス侯爵家が署名した私に対する後見権放棄証書。
三枚目には、私の研究と、今後私が生み出す魔法薬について、侯爵家が一切の権利を主張しないことが記されている。
「……やっと」
小さく息を吐いた。
私が侯爵家へ引き取られたのは、両親が亡くなったあとだった。
当時まだ幼かった私には、自分の財産を管理する権利も、住む場所を決める権利もなかった。
後見人となったのがルーベンス侯爵で、侯爵家は私だけでなく、両親が残した研究まで自分たちのものにした。
だから、ただ逃げればいいわけではなかった。
侯爵家から逃げた未婚の令嬢など、簡単に連れ戻される。どこかで薬を売ったところで、侯爵家が私の後見人である限り、その利益も研究成果も彼らに権利を主張される。
何より、両親から受け継いだ研究を自分の名前で続けることができない。
だから私は、ずっと待っていた。
この家から、正式に切り離される日を。
「お嬢様」
扉が開き、ミアが入ってきた。
「まだ起きてたんですね」
「眠れなくて」
「珍しい。明日は雪ですかね」
「夏よ」
ミアが小さく笑い、机の上の書類に目を落とした。
「……全部、揃ったんですね」
「今日、最後の書類が届いた」
私は後見権放棄証書を持ち上げる。
今回の婚姻にあたり、ヴァレンシュタイン公爵家はルーベンス侯爵家へ経済援助を行う。
ただし、その条件として公爵家側からいくつかの要求が出されていた。
婚姻後、侯爵家はエレノア・ルーベンスに対して一切の権限を持たないこと。
彼女の研究成果についても同様。
そして婚姻準備のため、それらの権利移譲は婚姻より前に完了させること。
「お父様がよく署名しましたね」
「公爵家からの援助を失うよりはましだと思ったんでしょう」
父にとって私は娘ではなく、価値のある研究者だった。
けれど、公爵家から得られる援助は、その価値を手放してでも欲しいものだったらしい。
「……皮肉ね」
「何がです?」
「私を利用するために決めた婚約で、私を手放すことになるなんて」
ミアは少し笑った。
「お嬢様らしいです」
「私が決めた条件じゃないけど」
「でも、利用したでしょう?」
「……まあね」
婚約が決まったとき、公爵家へ嫁げば侯爵家の支配から抜けられるとは考えていた。
そこまでは計算していた。
ただ、一つだけ大きな誤算があった。
「……リヒト様を好きになるとは思わなかった」
口に出すと、ミアが何とも言えない顔をした。
「何、その顔」
「今さら気づいたんですか?」
「……そんなに?」
「お嬢様以外、かなり前から気づいてたと思います」
「……そう」
少し腹が立つ。
「なら、残るんですか?」
ミアに聞かれて、私はすぐには答えられなかった。
「それも考えた」
リヒト様と結婚したら、多分幸せだと思う。
あの人なら、私に研究をやめろとは言わない。
むしろ研究室を用意して、好きなだけ研究すればいいと言うだろう。
私が新しい薬を作れば、きっと興味を持って話を聞いてくれる。
くだらないことで笑って、時々レオン様に呆れられて。
そんな生活も悪くない。
むしろ、欲しいと思ってしまう。
「でも、それだけで残るのは違うと思う」
「……」
「私はずっと、故郷へ帰ることを目標にしてきたから」
侯爵家を出たい。
誰にも利用されずに、自分の作りたい薬を作りたい。
自分の人生を自分で決めたい。
それは、リヒト様と出会うよりずっと前から望んでいたことだ。
「今ここで、リヒト様が好きだから全部やめるって決めたら、いつか自分で自分を許せなくなる気がする」
そして、もっと怖いことがある。
いつか『あなたのために夢を諦めた』と、リヒト様を責める自分になること。
それだけは絶対に嫌だった。
「だから、一度帰る」
「故郷へ?」
「ええ。自分の店を持って、自分で薬を作って、自分で稼いで暮らす。まずはそれをやってみたい」
「そのあとどうするかは?」
「そのとき考える」
「戻るかもしれない?」
「分からない」
私は首を振った。
「未来の私が何を選ぶかまで、今の私が決める必要はないでしょう?」
ミアはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「そうですね。それがお嬢様だと思います」
* * *
翌日、私はいつものように公爵邸を訪れた。
「エレノア嬢」
「こんにちは」
「今日は少し遅かったですね」
「研究が長引きました」
「またですか?」
「またです」
「ちゃんと寝ています?」
「……それなりに」
「今、間がありましたね」
「気のせいです」
「あなたが僕にそれを言います?」
リヒト様が笑う。
いつも通りだった。
だからこそ、少しだけ苦しかった。
* * *
「そういえば」
庭を歩いていると、リヒト様が言った。
「屋敷の一室を改装しようと思っています」
「改装? 何に使うんです?」
「研究室に」
思わず足が止まった。
「……研究室?」
「あなたのです」
「私の?」
「結婚後も研究を続けたいのでしょう?」
「……はい」
「今使っている部屋より広いほうがいいと思いまして。薬草の保管庫も必要でしょうし、換気設備も――」
「リヒト様」
「はい?」
「どうして、そこまで?」
「どうしてって」
彼は本当に不思議そうに答えた。
「あなたが好きなことだからです。結婚したからといって、やめる必要はないでしょう?」
言葉が出なかった。
私がずっと欲しかったものだった。
侯爵家では、研究に価値があるから許された。
金になるから。
家の役に立つから。
でも、この人は違う。
『あなたが好きなことだから』
それだけで、続けていいと言う。
「……ずるいですね」
「え?」
「何でもありません」
私は前を向いた。
本当にずるい。
こんなことを言われたら、帰りたくなくなる。
* * *
その日の帰り。
「また来週」
リヒト様が言った。
「……はい」
「エレノア嬢?」
「何です?」
「やっぱり今日、変ですよ」
「研究で疲れているだけです」
「そうですか」
「はい」
少しの沈黙のあと、リヒト様はそれ以上追及せずに言った。
「では、ちゃんと休んでください」
「分かりました」
「約束ですよ」
「……はい」
馬車へ乗ろうとすると、もう一度呼び止められた。
「エレノア嬢」
「はい?」
「来週、研究室の場所を見てください。気に入らなければ変えますから」
胸が締めつけられる。
「……分かりました」
扉が閉まり、馬車が動き出す。
窓の外では、リヒト様の姿が少しずつ遠くなっていった。
私は彼が見えなくなるまで、ずっとその姿を見ていた。
* * *
その夜。
机の上には、完成した青い薬と、服用方法や副作用を書いた説明書。
そして、一枚の便箋があった。
私はペンを持ったまま、もう随分長いこと動いていない。
「……書けません?」
向かいに座るミアが尋ねる。
「書けないというより、何を書けばいいのか分からない」
「珍しいですね」
「本当にね」
薬の説明なら、いくらでも書ける。
必要量も、服用間隔も、予想される反応も副作用も迷わない。
でも、自分の気持ちをどう書けばいいのかだけは分からなかった。
「好きです、って書けばいいじゃないですか」
「嫌」
「即答ですね」
「それを書いて消えるほうが残酷でしょう」
「……確かにそうかもしれませんね」
戻る約束はできない。
待っていてとも言えない。
なのに好きだとだけ伝えるのは、自分が楽になりたいだけだ。
私は少し考えてから、ようやくペンを動かした。
『リヒト様へ。
あなたの目を治すための薬が完成しました。
同封した説明書の通り、一日一度、三日間服用してください。
私の推測が正しければ、徐々に光を感じるようになるはずです。
副作用が出た場合は、すぐに服用を中止してください。
研究段階では安全性を確認していますが、完全な保証はできません。
勝手にいなくなることを、お許しください。
私は、自分の人生を一度、自分の力で生きてみたいと思います。
今まで、本当にありがとうございました。
あなたと過ごした時間を、私は忘れません。
――エレノア』
「……これでいい」
ペンを置く。
「さようなら、は書かないんですね」
「書かない」
「どうしてですか?」
少し考えてから答えた。
「……書きたくないから」
本当は、その理由にも気づいているのかもしれない。
私は青い薬瓶と説明書、手紙を箱へ入れ、蓋を閉じた。
「ミア。これを明日の昼、公爵邸へ届けて」
「……かしこまりました」
「私が王都を出たあとに。それまでは絶対に渡さないで」
「はい」
ミアが箱を受け取る。
それを見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
これで終わり。
そう思おうとしたけれど。
最後まで『さようなら』とは、思えなかった。
* * *
夜明け前。
私は机の上に三枚の書類を並べていた。
婚姻契約書の写し。
後見権放棄証書。
研究権利の放棄証書。
「……本当に行くんですね」
ミアが言った。
「ええ」
「この書類があれば、侯爵様はもうお嬢様を連れ戻せない」
「正式にはね」
私は三枚を鞄へ入れる。
「正式には?」
「お父様が法律だけで諦める人なら、こんなに苦労してないでしょう?」
「……そうですね」
後見権はない。研究成果への権利もない。
それでも父が私を取り戻そうとする可能性はある。
これまで侯爵家を支えてきた薬の多くは、私が作っていたのだから。
「だから、しばらくは居場所を知られたくない」
「駅馬車は使わないんですよね?」
「ええ」
「昨日、使用人には故郷行きの駅馬車を調べさせていましたけど」
「あれはわざと」
「……わざと?」
「屋敷の使用人が全員、私の味方とは限らないでしょう?」
ミアが目を瞬いた。
「最初は逆方向へ行く。王都を出る商人の荷馬車に乗せてもらって隣町まで。そこから南へ向かって二度馬車を乗り継いで、そのあとで故郷へ進路を変える」
「いつの間にそんな手配を?」
「薬草を仕入れている商人に頼んだ」
「……」
「何?」
「いえ。やっぱりお嬢様だなって」
「褒めてる?」
「もちろん」
鞄を持ち上げる。
驚くほど軽かった。
服が数着。両親の研究記録。薬。そして、自由になったことを証明する三枚の紙。
それだけ。
「公爵様にも、行き先を知られないようにするんですか?」
その問いに、私は少し黙った。
「……ええ」
「どうして?」
「リヒト様なら、私が自分の人生を生きたいと言えば尊重してくれると思うから」
「追ってこないと?」
「多分」
あの人は、私が嫌だと言ったことを無理強いする人ではない。
私の意思を、自分の気持ちより優先する。
そういう人だから。
「だから大丈夫」
そう口にした瞬間。
なぜか少しだけ、寂しいと思った。
* * *
まだ薄暗い時間。
私は使用人用の出入口の前に立った。
正門は使わない。父に気づかれる可能性を少しでも下げるためだ。
「お嬢様」
「何?」
「私も一緒に行けますよ」
「駄目」
「どうして?」
「ミアにはミアの生活があるでしょう」
「私は別に――」
「それに、自分の力で生きたいって言ってるのに、最初からミアを連れて行ったら格好がつかない」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題」
「……頑固」
「知ってる」
ミアの目が少し潤んだ。
「泣かないで」
「泣いてません」
「泣いてるでしょう」
「お嬢様に言われたくありません」
「私は泣いてない」
「知ってます。そこが腹立つんです」
「理不尽ね」
二人で少しだけ笑った。
そして私は、扉へ手をかける。
「ミア」
「はい」
「今までありがとう。あなたがいてくれて良かった」
ミアが俯いた。
「そういうの、今言わないでください」
「どうして?」
「泣くからです」
「ああ」
「本当にもう……」
目元を拭ってから、ミアが顔を上げる。
「お嬢様」
「何?」
「行ってらっしゃいませ」
その言葉に、胸が詰まった。
行ってらっしゃい。
それは、帰ってくる人に言う言葉だ。
「……ええ」
私は笑った。
「行ってきます」
扉を開けると、冷たい朝の空気が頬に触れた。
ずっと、この日を待っていた。
侯爵家から自由になり、誰のためでもなく、自分のために生きる日を。
嬉しいはずだった。
それなのに、歩き出した私の頭に浮かんだのは故郷の景色ではない。
『あなたと結婚する日が、楽しみです』
リヒト様の声だった。
私は足を止めなかった。
振り返らなかった。
今振り返れば、本当に戻ってしまいそうだったから。
だから前だけを見て歩いた。
彼に渡す薬と手紙を、ミアの手に残して。




