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第5話 手を離さないで


「エレノア嬢。来月の夏祭りですが」


「はい」


「もし予定がなければ、一緒に行きませんか?」


 そう言われて、私は顔を上げた。


「夏祭り?」


「はい」


「珍しいですね」


「……何がです?」


「リヒト様から、どこかへ行きたいと言うのが」


 これまで何度も会ってきたけれど、基本的には公爵邸だった。


 庭を歩いたことはある。


 夜会にも一緒に出た。


 けれど、リヒト様自身からどこかへ誘われたことはない。


「そう言われると……確かに」


 本人も今気づいたらしい。


「嫌でしたか?」


「いいえ」


 私は首を振った。


「行きたいです」


「本当ですか?」


「はい。ちょうど見たいものもありますし」


「……見たいもの?」


「夏祭りでは、各地の商人が王都に集まるのでしょう?」


「ええ」


「なら、普段この辺りでは手に入らない薬草や素材を扱う商人も来るかもしれません」


「……」


 リヒト様が黙った。


「何です?」


「いえ」


 なぜか笑っている。


「やっぱり薬草がお目当てでしたか」


「せっかく行くなら有意義なほうがいいでしょう?」


「僕との祭りだけでは、有意義ではありませんか?」


「……」


 私は少し考えた。


「まだ行っていないので判断できません」


「そこは嘘でも有意義だと言うところでは?」


「まだ行っていないのに?」


「……そうでした。あなたはそういう人でしたね」


 呆れた声なのに、楽しそうだった。


「では」


 リヒト様が笑う。


「当日、あなたに有意義だったと言わせられるよう努力します」


「期待しています」


 私が答えると。


 隣に立っていたレオン様が、小さく息を吐いた。


「……お二人とも」


「何です?」


「いえ。何でもございません」


 最近、レオン様はこういうことが多い。


     * * *


 そして、夏祭り当日。


「……想像以上ね」


「人が、ですか?」


「どうして分かったんです?」


「以前、夜会でも同じことを言っていたので」


「ああ」


 確かに。


 王都の大通りには、数えきれないほどの人がいた。


 道の両側には色鮮やかな屋台が並び、頭上には小さな魔石灯。


 まだ日が沈みきっていないため灯りは淡いけれど、夜になれば通り全体が光に包まれるらしい。


「リヒト様は来たことがあるんですか?」


「子供の頃に一度だけ」


「目が見えていた頃?」


「ええ。ただ、ほとんど覚えていません」


 リヒト様が少し顔を上げる。


「だから今日は、あなたに頼ろうかと」


「私に?」


「庭では色々と説明してくれたでしょう?」


「あれ、結構難しいんですよ」


「期待しています」


「勝手ですね」


「婚約者ですから」


「便利な言葉ですね、それ」


 私が言うと、リヒト様が笑った。


「では、行きましょうか」


「はい」


 リヒト様が杖を手に歩き出す。


 私はその隣。


 レオン様は少し後ろを歩いている。


 最初は目についたものを、そのまま説明していた。


「右に果物の屋台があります」


「はい」


「左は装飾品。その先に串焼き」


「エレノア嬢」


「何です?」


「全部説明しなくても大丈夫ですよ」


「……そうですか?」


「情報が多すぎて、逆に分からなくなってきました」


「ああ」


 なるほど。


 私は少し考える。


 見えている私にとって重要な情報と、リヒト様にとって必要な情報は違う。


「では、歩くために必要な情報だけ伝えます」


「お願いします」


「六歩ほど先で道が少し狭くなります。右から人が来ているので、少し左へ」


「はい」


「その先に段差が一つ」


 リヒト様が自然に歩く。


「……分かりやすい」


「でしょう?」


「さっきまでとは大違いですね」


「改善したんです」


「早いですね」


「一度失敗した方法を続ける意味がないので」


 そう答えるとリヒト様が少し笑った。


「やっぱり、あなたといると楽ですね」


「楽?」


「ええ」


 彼は杖を動かしながら歩く。


「必要以上に心配されないので」


 私は首を傾げた。


「心配したほうがいいですか?」


「いいえ」


「なら、問題ありませんね」


「……そういうところです」


 何がだろう。


 聞いても、教えてくれなかった。


     * * *


「あ」


 しばらく歩いたところで、私は足を止めた。


「どうしました?」


「少し寄ってもいいですか?」


「もちろん」


 私が見つけたのは、小さな露店だった。


 乾燥させた薬草や魔物由来の素材が並んでいる。


「珍しいものでも?」


「多分」


 棚の端。


 小さな袋に入った銀色の粉。


「これ、見せてもらえますか?」


 店主に声をかける。


「ああ。北部で採れた月光苔だよ」


「月光苔?」


 私は袋を受け取った。


 指先に少量取る。


 光に当てると、わずかに青白く反射した。


「……違いますね」


「え?」


 店主が眉をひそめる。


「これは月光苔だけじゃない」


「何を言ってるんだい。ちゃんと北部から仕入れたものだよ」


「月光苔は乾燥させても水分に触れると淡く発光します」


 私は近くにあった水を一滴落とす。


 粉の一部だけが、青白く光った。


 残りは変化しない。


「半分以上、別の苔が混ざってます」


「……」


 店主が黙った。


 隣から、リヒト様の声がする。


「偽物ですか?」


「正確には、混ぜ物ですね」


「よく分かりましたね」


「両親と研究していた頃、何度か使ったので」


 袋を店主へ返す。


「この品質なら、表示価格の三分の一くらいが妥当です」


「お、お嬢ちゃん。商売の邪魔を――」


「それでは通報するほかありませんね」


「……っ」


 店主のおじさんは慌てて店の片付けを始めた


「行きましょう、リヒト様」


 そのまま離れる。


 少し歩いたところで。


「……ふっ」


 隣から笑い声が聞こえた。


「何です?」


「いえ」


「笑いましたよね?」


「随分あっさりしているなと思って」


「偽物を高値で買う理由がないでしょう?」


「値切るのかと思いました」


「品質の悪い素材は研究には使えません。安ければいいわけではないので」


「なるほど」


 リヒト様は少し考えてから。


「あなたは、本当に薬のことになると頼もしいですね」


「薬以外では頼りないみたいな言い方ですね」


「そんなことは言っていません」


「今、少し思ったでしょう」


「……否定はしません」


「リヒト様」


 笑いながら歩く。


 その後ろで。


 レオン様も、少し笑っていた。


     * * *


 日が沈むにつれて、頭上の魔石灯が一つずつ灯り始めた。


「リヒト様」


「はい」


「灯りがつきました」


「どんな感じです?」


 私は空を見上げる。


「道の上に、小さな光がずっと続いてます」


「色は?」


「暖かい黄色です」


「綺麗ですか?」


「綺麗ですよ」


「そうですか」


 リヒト様が微笑む。


「見てみたいですね」


 その言葉に胸の奥が少しだけ痛んだ。


 以前なら治せたら面白い。


 そう思っていた。


 でも今は違う。


 ――見せたい。


 この景色を彼に。


「見られますよ」


 思わず言った。


「……随分、自信がありますね」


「あります」


「根拠は?」


「秘密です」


「秘密?」


「まだ」


 薬のことは言わない。


 完成していないものを、治療法とは呼べない。


 期待を持たせて失敗するくらいなら確実になるまで黙っている。


 それだけは決めていた。


「では」


 リヒト様が笑う。


「信じておきます」


 その言葉に胸が少し重くなる。


 研究は進んでいる。

 

 あと一つ。


 決定的な触媒さえ見つかれば完成する可能性は高い。


 そうしたら――。


「エレノア嬢?」


「はい?」


「どうしました?」


「何でもありません」


 私は前を向いた。


 今はまだ考えなくていい。


     * * *


 祭りの中心へ近づくにつれ人の数は一気に増えた。


「……すごい人ですね」


 前を見る。


 人。


 人。


 人。


 道の先が見えない。


「少し遠回りします?」


「……」


「リヒト様?」


「ええ」


 返事が遅い。


 私は彼を見る。


 表情はほとんど変わっていない。


 けれど杖を握る手に、少し力が入っている。


 歩幅もさっきより狭い。


「リヒト様」


「はい」


「一度、止まりましょう」


「大丈夫ですよ」


 すぐに返ってくる。


 私は周囲を見る。


 大勢の話し声。


 屋台からの呼び込み。


 楽器。


 子供の声。


 何百という足音。


 夜会で彼が言っていた。


『誰がどこにいるのか分からないというのは、思ったより神経を使うんです』


 なるほど今のリヒト様には私が見ている「人混み」が、一つの大きな騒音として押し寄せているのかもしれない。


「……大丈夫じゃないでしょう」


「え?」


「歩幅が狭くなってます。返事も遅い。さっきから杖を握る力も強い」


「……よく見ていますね」


「観察は得意なので」


 その瞬間。


 横から子供が飛び出してきた。


 リヒト様の肩にぶつかる。


「っ――」


 身体が揺れる。


 すぐに立て直したけれど。


 後ろから来た人を避けようとして、今度は別の人とぶつかりかける。


 前。


 後ろ。


 右。


 左。


 人の流れが一定ではない。


 この状況で、声だけの案内では遅い。


「リヒト様」


「はい」


「手、借ります」


「え?」


 私は彼の手を取った。


「……!」


 思っていたより冷たい。


「エレノア嬢?」


「ここにいます」


 しっかりと握る。


「私の声は聞こえます?」


「……はい」


「なら、私の声だけ聞いてください」


 周囲の動きを見る。


「三歩まっすぐ。そのあと少し左」


 一歩。


「そのまま」


 二歩。


「右から人が来ます。止まらず進んで」


 三歩。


「大丈夫」


 彼の手に少しだけ力が入る。


「私がいますから」


「……」


 返事はない。


 けれど。


 握った手は離れなかった。


     * * *


 人の流れを抜けて静かな脇道へ入る。


「もう大丈夫です」


「……はい」


「少し休みましょう」


 近くにベンチを見つけた。


「二歩先にベンチがあります」


 リヒト様が腰掛ける。


 私も隣へ座った。


 さっきまでの喧騒が遠くなる。


「……すみません」


 リヒト様が言った。


「何がです?」


「せっかく誘ったのに」


「はい」


「結局、あなたに助けてもらってしまった」


「それが?」


「……」


「何か問題あります?」


 リヒト様が黙る。


「僕は、あなたの婚約者ですよ」


「知ってます」


「普通は逆では?」


「何が?」


「僕があなたを守るものでは?」


 私は少し考えた。


「状況によるのでは?」


「……状況?」


「リヒト様にできることなら、リヒト様がやればいい。私にできることなら、私がやる」


 私は肩をすくめる。


「それでいいでしょう?」


「……」


「それに」


「はい」


「私、守られてばかりの人生は嫌です」


 リヒト様がこちらを向く。


「自分でできることは自分でする。できないときは誰かに頼る」


「……」


「リヒト様も同じでいいんじゃないですか?」


 長い沈黙。


 やがて。


「あなたには敵いませんね」


 リヒト様が笑った。


「勝負してたんですか?」


「していません」


「なら敵う必要もないでしょう」


「……本当に敵わないな」


 また笑う。


 私は立ち上がろうとしてそこで気づいた。


「……あ」


 まだ手を握っている。


「すみません」


 離そうとする。


 けれどその前にリヒト様の指が、私の手を掴んだ。


「……」


「……リヒト様?」


「もう少し」


「え?」


 彼は顔を伏せたまま小さな声で言った。


「もう少しだけ……離さないでください」


 胸がどくん、と鳴った。


「……はい」


 なぜかそれ以上、何も言えなかった。


 今までだって彼に触れたことはある。


 階段。


 庭。


 馬車を降りるとき。


 必要なら、普通に手を貸してきた。


 なのに今は同じはずの手が全然違うものに思える。


「エレノア嬢」


「はい」


「ありがとうございます」


「……どういたしまして」


「あなたがいて良かった」


「……」


 胸がまた大きく鳴った。


 私は前を向く。


 なぜだか今だけは彼の顔を見てはいけない気がした。


     * * *


 しばらくして。


 夜空へ、一筋の光が上がった。


 大きな音。


 そして暗い空いっぱいに、光が広がる。


「始まりました?」


「はい」


 花火だ。


「どんな感じです?」


「最初は赤」


「はい」


「空に、大きな花が咲いたみたいです」


「花?」


「でも、すぐに消えます」


 次の花火が上がる。


「今度は金色」


 また一つ。


「青」


 リヒト様は黙って聞いている。


「綺麗ですか?」


「綺麗ですよ」


「……そうですか」


 少しの沈黙。


「見てみたいな」


 小さな声だった。


 私は横顔を見る。


 そして今度は迷わなかった。


「見られますよ」


「またそれですか?」


「はい」


「相変わらず、根拠は秘密?」


「秘密です」


 リヒト様が笑った。


「では、楽しみにしています」


「……はい」


 楽しみにしています。


 その言葉が少しだけ胸に刺さる。


「いつか」


 私は夜空を見上げたまま言った。


「一緒に見ましょう」


 リヒト様が黙る。


「……約束ですよ」


「はい」


「忘れないでください」


「忘れません」


 大きな花火が上がった。


 光が夜空を照らす。


 いつか本当にこの景色を彼と見たい。


 そう思った。


     * * *


 祭りの帰り。


 馬車の前で、私はリヒト様と向かい合っていた。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ」


「楽しかったですか?」


 聞かれて私は少し考える。


「はい」


「……即答ではないんですね」


「ちゃんと考えただけです」


「結果は?」


「予想以上に楽しかったです」


「それなら良かった」


 リヒト様が笑う。


「有意義でした?」


「十分に」


「安心しました」


 最初の会話を覚えていたらしい。


「では、また来週」


「はい」


 馬車へ乗ろうとした。


「エレノア嬢」


 呼び止められる。


「はい?」


「僕は」


 リヒト様が少し迷う。


「最初に会った日、あなたに言いましたね」


『もし、この婚約を断りたいのであれば――私は反対しません』


 あの日の言葉。


「覚えています」


「あのときは」


 静かな声だった。


「あなたも、いつかこの婚約を後悔するだろうと思っていました」


「……」


「僕と結婚するより、もっと良い相手がいると」


「リヒト様」


「でも今は」


 彼が続ける。


「少し、考えが変わりました」


「……?」


「あなたと結婚する日が」


 彼は穏やかに笑った。


「楽しみです」


「……」


 何も言えなかった。


 嬉しい。


 最初に浮かんだのはその感情だった。


 でもそのすぐ後に別のものが胸を締めつける。


 薬が完成したら私は、


「エレノア嬢?」


「……私も」


 気づけば答えていた。


「楽しみにしています」


 嘘ではない。


 だからこそ苦しかった。


「そうですか」


 リヒト様の声が明るくなる。


「では、また来週」


「はい」


 馬車へ乗る。


 扉が閉まる。


 走り出した馬車の中で私は窓の外を見た。


「……お嬢様」


 向かいに座るミアが声をかける。


「何?」


「何かありました?」


「どうして?」


「嬉しそうなのに、困った顔をしてるので」


「……器用な顔ね」


「お嬢様がしてるんですよ」


 私は小さく息を吐いた。


 今日リヒト様の手を握った。


 彼が安心したのが分かって嬉しかった。


『あなたがいて良かった』


 あの言葉も。


『あなたと結婚する日が、楽しみです』


 あの言葉も全部嬉しかった。


 私はもう気づかないふりはできない。


 リヒト様が好きだ。


 多分。


 思っていたより、ずっと。


 でもそれとこれとは別だ。


 私はずっと自分の人生を取り戻すために、この家を出ることを望んできた。


 誰かの役に立つ薬を作れと言われるのではなく誰かの都合で生きるのでもなく。


 故郷へ帰って自分の作りたい薬を作って自分で自分の人生を決める。


 それが両親を亡くしてからずっと、私が望んできたことだ。


 リヒト様を好きになったからといってその願いまで、なかったことにはしたくない。


「……難しいわね」


「何がです?」


「自分の気持ち」


 ミアが驚いたように私を見る。


「お嬢様がそんなこと言うなんて珍しいですね」


「私もそう思う」


 計算なら答えがある。


 薬の調合なら、失敗した原因を探せる。


 でも気持ちには正しい答えがない。


 窓の外。


 遠くで、まだ花火が上がっていた。


 私はそれを見つめる。


 ――薬が完成したら。


 そのとき私は何を選ぶのだろう。


 今の私にはまだ分からなかった。


     * * *


「リヒト様」


「何だ」


 エレノアを乗せた馬車が去ったあとレオンが隣から声をかけた。


「ずいぶん思い切りましたね」


「……何が?」


「結婚する日が楽しみだ、と」


「聞いていたのか」


「近くにおりましたので」


「……」


「エレノア様も楽しみだと仰っていましたね」


「ああ」


 リヒトの口元が緩む。


「嬉しそうですね」


「……悪いか?」


 レオンが少し驚いた。


 いつもならそんなことはないと否定するところだった。


「いいえ」


 レオンは笑った。


「何も」


 リヒトは杖を握り直す。


 今日人混みの中で一瞬、頭がパニックになった。


 誰がどこにいるのか分からない。


 どこへ進めばいいのかも分からない。


 自分だけが、世界から切り離されたような感覚。


 けれど、


『ここにいます』


 彼女の声が聞こえた瞬間世界の中に一つだけ確かな場所ができた。


 彼女の声。


 彼女の手。


 そこへ向かえばいい。


 そう思えた。


「……レオン」


「はい」


「僕は」


 少しだけ迷ってリヒトは言った。


「今日、祭りへ行って良かった」


「そうですか」


「ああ」


「では、来年も?」


 来年、その言葉にリヒトは自然と想像した。


 来年も彼女が隣にいる。


 その頃にはもう夫婦になっているかもしれない。


「……そうだな」


 笑みが浮かぶ。


「来年も、彼女と行きたい」


「承知しました」


「なぜお前が承知するんだ」


「予定を空けておきます」


「一年先だぞ?」


「重要な予定ですので」


「……好きにしろ」


 呆れながら。


 リヒトは屋敷へ戻っていく。


 来年。


 再来年。


 その先も。


 彼女が隣にいる未来をいつの間にか当たり前のように思い描き始めていた。


 ――彼女が、その未来から消えるかもしれないとも知らずに。

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