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第4話 公爵様の悪口


 社交界というものが、私はあまり好きではない。


 嫌いというほどでもない。


 ただ、必要性を感じないだけだ。


「笑ってください、お嬢様」


「笑ってるわよ」


「それは無表情です」


「口角は上がってる」


「二ミリくらいです」


「十分でしょう」


「全然です」


 鏡越しに、ミアがため息をついた。


 今夜は王家主催の夜会。


 婚約が正式に決まってから、私とリヒト様が二人揃って公の場に出るのは初めてだった。


 当然、欠席という選択肢はない。


「もう少し嬉しそうな顔をしてください」


「何が嬉しいの?」


「婚約者と夜会に行けるんですよ?」


「この前も会ったけど」


「そういうことじゃありません」


 最近、ミアとの会話はこの言葉で終わることが多い。


 そういうことじゃない。


 では、どういうことなのか。


 説明してほしい。


「それに」


 私は鏡の中の自分を見る。


「今日の目的は、私とリヒト様の婚約を周囲に認識させることでしょう?」


「まあ……そうですけど」


「なら、二人で会場にいるだけで目的は達成できるわ」


「お嬢様」


「何?」


「そういうところです」


「だから、何が?」


「もういいです」


 諦められてしまった。


     * * *


 会場へ到着すると。


 私は早々に、自分の認識が甘かったことを知った。


「……多いわね」


「何がです?」


 隣からリヒト様の声がする。


「人です」


「夜会ですから」


「知ってます」


「では、なぜ驚くんです?」


「知識として知っていることと、実際に見ることは違うでしょう」


「なるほど」


 リヒト様が小さく笑った。


 今夜の彼は、いつもよりずっと隙がない。


 黒を基調とした正装。


 銀色の髪は丁寧に整えられ、普段よりも公爵らしい威厳がある。


 黙っていれば、近寄りがたいほど整った人だ。


 ――黙っていれば。


「エレノア嬢」


「はい?」


「今、失礼なことを考えていませんでしたか?」


「どうして分かったんです?」


「否定してください」


「難しいですね」


「……あなたは本当に」


 呆れたような声。


 けれど、その口元は少し笑っていた。


 私たちの少し後ろには、レオン様がいる。


 人の多い場所では、いつもより近い。


「では、参りましょう」


 リヒト様が片腕を差し出した。


 私はその腕に手を添える。


 その瞬間。


 会場に入った私たちへ、一斉に視線が集まった。


「……」


 なるほど。


 これは面倒だ。


「見られていますか?」


 リヒト様が小さな声で聞いた。


「かなり」


「やはり」


「分かるんですか?」


「空気で」


「便利ですね」


「便利だと思います?」


「少なくとも、今は」


 リヒト様が笑う。


「どんな顔をされています?」


 私は周囲を見る。


「驚いている人が三割」


「はい」


「興味津々が五割」


「残りは?」


「値踏みしてます」


「……正直ですね」


「聞いたのはリヒト様です」


「そうでした」


 私たちはそのまま会場の中央へ進んだ。


 途中、何人もの貴族から声をかけられる。


 婚約を祝う言葉。


 お似合いだという言葉。


 幸せを祈っているという言葉。


 けれどその中に、本心がどれだけあるのだろう。


「ヴァレンシュタイン公爵、この度はおめでとうございます」


「ありがとうございます」


「ルーベンス嬢も、お美しい」


「ありがとうございます」


「いやあ、本当に――」


 中年の伯爵が、リヒト様を見て一瞬言葉に詰まった。


「……良いご縁に恵まれましたな」


「ええ」


 リヒト様は穏やかに答えた。


 慣れているのだろう。


 相手が一瞬、何を言おうか迷ったことにも。


 その理由にも。


 そして、それを気づかないふりすることにも。


「……」


「エレノア嬢?」


「何でもありません」


 私は前を向いた。


 なぜだろう。


 少しだけ面白くない。


     * * *


「少し休みますか?」


 夜会が始まって一時間ほど経った頃。


 私はリヒト様へ尋ねた。


「大丈夫ですよ」


「でも疲れているでしょう?」


「顔に出ていますか?」


「いいえ」


「では、なぜ?」


「返事が短くなってきたので」


 リヒト様が黙る。


「……よく見ていますね」


「そうですか?」


「ええ」


「研究では観察が基本なので」


「僕も研究対象に含まれているんですか?」


「少し」


「少し……」


 何とも言えない声だった。


「向こうに人が少ない場所があります」


「では、少しだけ」


 壁際に置かれた椅子へ案内する。


「ここです。椅子があります」


「ありがとうございます」


 リヒト様が腰掛ける。


「飲み物を取ってきましょうか?」


「いえ。エレノア嬢も休んでください」


「私は平気です」


「では、隣に」


 そう言って、彼は隣の椅子を手で示した。


 私は座る。


 会場の喧騒が、少しだけ遠くなる。


「……疲れますね」


 リヒト様がぽつりと言った。


「夜会が?」


「人が多い場所が」


「音?」


「それもあります」


 彼は少しだけ声を落とした。


「誰がどこにいるのか分からないというのは、思ったより神経を使うんです」


「なるほど」


 声。


 足音。


 衣擦れ。


 グラスが触れる音。


 音楽。


 これだけのものが同時に聞こえる中から、必要な情報を選ばなければならない。


 私なら、目を閉じたまま歩けと言われても数分で嫌になるだろう。


「帰ります?」


「……え?」


「もう婚約を披露するという目的は達成したでしょう」


「あなたは本当に合理的ですね」


「駄目ですか?」


「いえ」


 リヒト様は笑った。


「もう少しだけいましょう」


「分かりました」


「せっかくあなたが綺麗なドレスを着ているそうなので」


「……」


 私は自分のドレスを見る。


 淡い青色。


 ミアが選んだものだ。


「見えてないのに分かるんですか?」


「レオンが言っていました」


「なるほど」


「似合っているそうですよ」


「そうですか」


「……それだけ?」


「ありがとうございます?」


「なぜ疑問形なんです?」


 私は少し笑った。


 そのとき、


「リヒト様」


 レオン様が近づいてくる。


「陛下がお呼びです」


「分かった」


 リヒト様が立ち上がる。


「エレノア嬢、少し離れます」


「はい」


「すぐ戻ります」


「ごゆっくり」


 レオン様に付き添われ、リヒト様が離れていく。


 私は一人になった。


「……さて」


 どうしよう。


 知り合いはほとんどいない。


 ミアは控えの部屋にいる。


 リヒト様が戻るまで、ここで待っていればいいか。


 そう思ったときだった。


「ねえ、ご覧になった?」


 少し離れたところから、女性の声が聞こえた。


「ええ。ヴァレンシュタイン公爵でしょう?」


 名前が聞こえたので。


 なんとなく、耳に入った。


「本当に婚約なさったのね」


「驚いたわ」


「ルーベンス侯爵家も、よく娘を差し出したものね」


 私はグラスへ伸ばしかけた手を止めた。


 どうやら、私の話でもあるらしい。


「でも、侯爵家はかなり困っているそうよ」


「まあ。では、やはりお金目当て?」


「他にある?」


 くすくすと笑う声。


 別に。


 そこは間違っていない。


 正確には父がお金目当てなのであって、私は家を出たいだけだが。


「それにしても、お気の毒よね」


「誰が?」


「エレノア様よ」


 私?


「だって、あんなにお若いのに」


「お相手が盲目でしょう?」


「結婚したら大変よ」


「子供だってどうなるか分からないし」


「公爵様ご自身は素敵な方だけれど……」


 そこで声が小さくなる。


「やっぱり、目が見えない方との結婚なんて」


「私だったら耐えられないわ」


「私も」


 私はしばらく黙っていた。


 別に。


 怒るようなことではない。


 彼女たちは、彼女たちの価値観で話しているだけだ。


 目が見えない夫との生活は大変そう。


 自分なら嫌だ。


 それ自体は自由だ。


 ただ。


「エレノア様も、お気の毒ですわ」


 その一言だけが。


 妙に引っかかった。


「……何が?」


 気づけば、口に出していた。


「え?」


 三人の令嬢が振り返る。


 私を見る。


 そして。


 見る見るうちに顔が青ざめた。


「あ……エ、エレノア様」


「こんばんは」


「いつからそこに……」


「最初からいましたけど」


「……」


 なぜ私が気まずくならなければならないのだろう。


「それで」


 私は尋ねた。


「私の何がお気の毒なんですか?」


「それは……」


 三人が顔を見合わせる。


「その……公爵様は……」


「はい」


「目が……」


「見えませんね」


「ですから……」


「ですから?」


 話が進まない。


 私は少し考える。


「ああ」


 ようやく理解した。


「リヒト様の目が見えないから、私が不幸になるということですか?」


「不幸だなんて、そこまでは……」


「でも、お気の毒なのでしょう?」


「……」


「同じでは?」


 一人が慌てて口を開く。


「わ、私たちはただ、エレノア様のことを心配して……」


「ありがとうございます」


「え?」


「でも必要ありません」


 私は普通に答えた。


「今のところ、困っていませんので」


「ですが、結婚生活となれば――」


「目が見えないことが、結婚生活にどのような問題を起こすんです?」


「それは……」


「一人で歩けない、とか……」


「歩けますよ」


「え?」


「屋敷の中なら一人で歩いています」


「でも、書類を読むことも――」


「人に読んでもらえば済みます」


「それでは周囲に負担が……」


「それなら仕組みを変えればいいでしょう」


「……仕組み?」


「目で読めないなら、指で読める文字を作ればいい」


 三人が黙った。


「それに」


 私は続ける。


「公爵として必要なのは、目が見えることではありません」


「……」


「領地を治める知識と判断力でしょう?」


 誰も答えない。


「少なくとも私は、リヒト様と話していて、能力が低いと感じたことは一度もありません」


「で、でも……」


 一人の令嬢が小さな声で言った。


「やはり、普通の男性とは……」


「普通?」


 私は首を傾げた。


「普通とは何です?」


「……」


「目が見えること?」


「それは……」


「では、目が見えれば立派な人間なんですか?」


「そんなことは――」


「ですよね」


 私は頷いた。


「人の価値を視力だけで決めるのでしたら、随分と浅い物差しですこと」


 沈黙。


 少し言いすぎただろうか。


 でも、間違ったことは言っていないと思う。


「それから」


 私は付け加えた。


「私が幸せか不幸かは、私が決めます」


 三人の顔を見る。


「会ったこともほとんどない方々に決めていただかなくて結構です」


「……申し訳、ありません」


「いえ」


 私はグラスを手に取った。


「分かっていただけたなら、それで」


 三人はそそくさと去っていった。


 私はその背中を見送る。


「……」


 少し喉が渇いた。


 一口飲む。


「面倒ね、社交界って」


「――そうですね」


「……」


 聞こえた声に。


 私は固まった。


 ゆっくり振り返る。


 数歩先。


 リヒト様が立っていた。


 隣にはレオン様。


「……いつからいました?」


「どこからだと思います?」


「質問に質問で返さないでください」


「あなたもよくやりますよ」


「今は関係ありません」


 リヒト様が笑う。


 嫌な予感がする。


「まさか……全部?」


「全部ですね」


 レオン様が答えた。


「……」


 私は目を閉じた。


「忘れてください」


「なぜです?」


「恥ずかしいので」


「先ほどは随分堂々としていましたが」


「本人がいないと思っていたからです」


「僕の悪口なのに?」


「だからでしょう?」


 私はリヒト様を見る。


「本人の前で同じことを言う必要はないです」


「……」


 彼が黙った。


「リヒト様?」


「一つ、聞いても?」


「はい」


「なぜ、怒ったんですか?」


「怒ってません」


「怒っていましたよ」


「冷静でした」


「声がいつもより低かったです」


「……よく聞いてますね」


「研究では観察が基本なので」


「それは私の台詞では?」


 少し笑ったあと。


 彼はもう一度聞いた。


「なぜです?」


 私は考えた。


 なぜ。


 確かに。


 別に放っておけばよかった。


 私自身が悪く言われたところで、どうでもいい。


 侯爵家がお金目当てだと言われても事実だ。


 なのに。


 リヒト様のことを言われた瞬間。


 妙に腹が立った。


「……間違っていたからです」


「何が?」


「彼女たちの言っていることが」


「それだけ?」


「それ以外にあります?」


 リヒト様は答えなかった。


「……そうですか」


 なぜか。


 少し嬉しそうだった。


     * * *


 夜会からの帰り。


 馬車の中。


 リヒトは黙っていた。


「リヒト様」


 向かいに座るレオンが声をかける。


「何だ」


「先ほどから静かですね」


「疲れただけだ」


「そうですか」


「ああ」


「では、話しかけないほうが?」


「そうしてくれ」


「承知しました」


 静かになる。


 馬車の車輪の音だけが響く。


 けれど。


 リヒトの頭の中では、先ほどの声が何度も繰り返されていた。


『人の価値を視力だけで決めるのでしたら、随分と浅い物差しですこと』


『私が幸せか不幸かは、私が決めます』


 今まで。


 何度も陰口を聞いてきた。


 かわいそうな公爵。


 盲目の公爵。


 結婚相手が気の毒だ。


 跡継ぎはどうするのか。


 公爵として務まるのか。


 直接言われることもあった。


 聞こえないと思われているのか、すぐ近くで話されることもあった。


 そのたびに。


 聞こえないふりをしてきた。


 否定する意味がないと思っていたから。


 ある意味、事実でもある。


 自分の目が見えないことで、周囲に負担をかけている。


 妻になる人間にも。


 きっと。


 だから。


 エレノアも、いつか後悔する。


 ずっとそう思っていた。


 けれど。


『私が幸せか不幸かは、私が決めます』


「……」


 胸の奥が。


 妙に騒がしい。


「レオン」


「はい」


「エレノア嬢は……」


 そこまで言って。


 言葉が止まる。


「何でしょう」


「……いや」


「はい」


「何でもない」


 レオンは何も聞かなかった。


 しばらくして。


「私は」


 ぽつりと言う。


「何だ?」


「エレノア様は、素敵な方だと思います」


 リヒトが顔を上げる。


「急に何だ」


「感想です」


「聞いていない」


「そうでしたか」


「……」


「ですが」


 レオンの声が少し柔らかくなる。


「あなたが悪く言われたことで、本気で腹を立てる方を――私は初めて見ました」


「……」


「それだけです」


 また静かになる。


 リヒトは窓の外へ顔を向けた。


 当然、何も見えない。


 それなのに。


 なぜか今夜は。


 彼女がどんな顔で、あの言葉を言っていたのか。


 それが知りたいと思った。


     * * *


 翌週。


「お嬢様」


「何?」


「届いてますよ」


 ミアが箱を持って研究室へ入ってきた。


「何が?」


「公爵様から」


「また?」


「また、って」


 箱を開ける。


 中に入っていたのは。


「……木苺のタルト」


「ですね」


「どうして?」


「お手紙もあります」


 小さな封筒を開く。


 そこには短い文章だけが書かれていた。


『先日はありがとうございました。


 あなたが幸せかどうかは、あなたが決めることだそうなので。


 せめて、その判断材料を一つ増やしておきます。』


「……」


 私はタルトを見る。


 そして手紙を見る。


 もう一度、タルトを見る。


「どういう意味です?」


 ミアが尋ねる。


「多分……」


 私は少し考えた。


「これを食べたら幸せだって、前に私が言ったから」


「まあ」


「何?」


「いえ?」


「その顔やめて」


「何も言ってませんよ」


 最近。


 周りにこういう人が増えた気がする。


「食べます?」


「いただきます」


「早いですね」


「せっかく送ってくれたんだから」


 フォークを入れる。


 一口。


「……美味しい」


「幸せですか?」


「それ聞く?」


 ミアが笑う。


 私はもう一口食べた。


 甘酸っぱい木苺の味。


 確かに。


 少しだけ。


「……まあ」


「はい?」


「悪くないわね」


 何が、とは言わなかった。


     * * *


 その頃。


 公爵邸では。


「届いたでしょうか」


 リヒトが尋ねた。


「まだ出して一時間です」


「……そうか」


「はい」


「別に急いでいるわけではない」


「何も言っておりません」


「その言い方をやめろ」


「どの言い方でしょう」


 レオンは涼しい顔で書類をめくる。


「ところでリヒト様」


「何だ」


「来月、王都で祭りがございます」


「……それが?」


「いえ」


 紙をめくる音。


「エレノア様は、お好きでしょうか」


「……」


「珍しい薬草も売られてるとか」


 しばらく。


 沈黙が続いた。


「レオン」


「はい」


「来月の予定を確認しておいてくれ」


「承知しました」


「……仕事の予定を確認するだけだからな」


「もちろんです」


 レオンの声は。


 少しだけ、笑っていた。

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