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第3話 彼女だけが見えているもの


 リヒト様の診療記録は、想像していた以上に面白かった。


「……やっぱり、おかしいわね」


 私は紙の上に並べた資料を見ながら呟いた。


「何がおかしいんですか?」


 向かいで薬草を仕分けていたミアが顔を上げる。


「全部」


「全部?」


「ええ」


 私は一枚の紙を持ち上げた。


 先日、公爵家から借りてきた診療記録の写しだ。


 リヒト様が視力を失ったのは十二歳のとき。


 馬車の事故に巻き込まれ、その際に護衛の魔術師が使った防御魔法と、襲撃者が放った攻撃魔法が衝突。


 大規模な魔力爆発が起きた。


 リヒト様は一命を取り留めたものの、三日間意識不明。


 目を覚ましたときには、完全に視力を失っていた。


「眼球そのものに損傷はほとんどない。頭部にも致命的な外傷はなし。それなのに光すら感じない」


「それって、珍しいんですか?」


「普通ならね」


 私は別の資料を手に取る。


「当時の医師は、魔力によって視神経が破壊されたと判断している。でも――」


「でも?」


「それなら、こっちの記録と矛盾する」


 指で一文を示す。


「事故から三か月後、一度だけ光を感じたと書いてあるの」


「え?」


「しかも、強い治癒魔法を使った直後に」


 ミアが目を瞬かせる。


「じゃあ……治るってことですか?」


「まだ分からない」


 私は即答した。


 期待だけで結論を出すのは嫌いだ。


 可能性と事実は違う。


「でも、完全に機能を失っているわけではない可能性がある」


「……お嬢様、楽しそうですね」


「そう?」


「ものすごく」


 言われて、自分の頬に触れてみる。


「普通よ」


「いいえ。お嬢様が難しい薬を作っているときの顔です」


「どんな顔?」


「獲物を見つけた猫みたいな」


「失礼ね」


「褒めてます」


「それ、リヒト様も言うのよね」


 最近、褒めていると言えば何を言っても許されると思っている人が多い気がする。


 私は診療記録へ視線を戻した。


「……試してみる価値はありそう」


 失われた視力を取り戻す魔法薬。


 簡単ではない。


 むしろ、今まで誰も成功していないからこそ、リヒト様は今も目が見えないのだ。


 それでも。


 不可能だと決めつけるには、まだ早い。


「お嬢様」


「何?」


「もし薬が完成したら、公爵様に言うんですか?」


 その問いに、私は少し考えた。


「完成したらね」


「研究していることは?」


「言わない」


「どうしてです?」


「期待させたくないから」


 私は資料を閉じた。


「治るかもしれないと言われて、結局治りませんでした、が一番残酷でしょう?」


「……そうですね」


「だから、まだ秘密」


「分かりました」


「リヒト様にも、レオン様にもよ」


「はい」


 ミアが頷く。


 私はもう一度、診療記録へ目を落とした。


 それに。


 これは、あくまで私の興味で始めた研究だ。


 彼のために始めたわけではない。


 ――少なくとも、今はまだ。


     * * *


 それから一週間後。


「エレノア様がお見えです」


 執務室に響いた声に、リヒトは顔を上げた。


「通してくれ」


「かしこまりました」


 使用人が去る。


 向かいに座っていたレオンが、書類を閉じた。


「本日はずいぶん早くから落ち着きがありませんでしたね」


「……何の話だ?」


「朝から三度、時刻を尋ねられました」


「仕事の予定を確認していただけだ」


「四度でした」


「さっき三度と言っただろう」


「増えました」


「……」


 リヒトは眉を寄せた。


「お前、最近性格が悪くなっていないか?」


「昔からです」


「自覚があるなら直せ」


「善処します」


 絶対に直す気がない。


 そう思ったところで、扉が叩かれた。


「失礼いたします」


 聞き慣れ始めた声。


 リヒトは無意識に姿勢を正した。


「こんにちは、リヒト様」


「こんにちは、エレノア嬢」


「レオン様も」


「ようこそお越しくださいました」


 レオンが答える。


「今日は木苺のタルトがあるそうですよ」


「本当ですか?」


 エレノアの声が少し明るくなった。


「楽しみにしてたんです」


「……そうですか」


 リヒトは答えた。


 レオンは何も言わない。


 何も言わないが。


 視線だけは感じる。


「何だ、レオン」


「何も」


「まだ何も言っていないだろう」


「私も何も申しておりません」


 エレノアが首を傾げる気配がした。


「仲がいいんですね」


「長い付き合いなので」


「腐れ縁です」


 二人の声が重なった。


「やっぱり仲がいいですね」


 エレノアが笑う。


 その声を聞いて。


 リヒトもつられて笑った。


     * * *


「診療記録は役に立ちましたか?」


 お茶を飲みながら、リヒト様が尋ねた。


「はい。とても」


「そんなに面白いものではないと思いますが」


「面白かったですよ」


「自分の診療記録を面白いと言われたのは初めてです」


「褒めています」


「便利な言葉ですね、それ」


 どうやら覚えられてしまったらしい。


「一つ気になったことがあるんです」


「何でしょう」


「事故から三か月後、一度だけ光を感じたという記録がありました」


 リヒト様が少し黙った。


「……ありましたね」


「覚えているんですか?」


「ええ」


 ティーカップがソーサーへ置かれる音がする。


「あれは……朝だったと思います」


 リヒト様はゆっくりと言葉を選んだ。


「目を開けたとき、ほんの一瞬だけ、明るいと思ったんです」


「色は?」


「分かりません」


「形は?」


「それも」


「痛みは?」


「少し」


「どんな?」


「目の奥が熱くなるような」


「どれくらい続きました?」


「エレノア嬢」


「はい?」


「取り調べですか?」


 顔を上げると、リヒト様が苦笑していた。


「あ……すみません」


「いえ。構いません」


「つい」


「本当に薬のことになると止まらないんですね」


「よく言われます」


「誰に?」


「ミアに」


「なるほど」


 リヒト様が笑う。


「でも、珍しいですね」


「何がですか?」


「僕の目の話を、そんなふうに聞く人は」


 私は首を傾げた。


「どんなふう?」


「……難しいですね」


 彼は少し考えた。


「普通は、聞いてはいけないことだと思うようです」


「ああ」


 それは分かる。


 初対面のとき、レオン様もそんな顔をしていた。


「あるいは、とても気の毒そうな顔をされます」


 その言葉は。


 今までより少しだけ低かった。


「『お辛いでしょう』とか」


「……」


「『お気の毒に』とか」


 私は黙って聞いた。


「悪気がないことは分かっています。ただ――」


 リヒト様は小さく息を吐く。


「何度も言われると、自分がとても不幸な人間のような気がしてくる」


 私はしばらく考えた。


「リヒト様は、不幸なんですか?」


「え?」


「ご自身ではどう思っているんです?」


 彼が黙った。


 レオン様もこちらを見ている。


「目が見えないことではなくて。今の生活そのものが」


「……考えたことがありませんでした」


「なら、人に決めてもらう必要はないでしょう」


「……」


「不幸かどうかなんて、本人が決めればいいと思います」


 私は木苺のタルトを一口食べた。


 今日も美味しい。


「少なくとも、こんなに美味しいタルトを毎週食べられるなら、私だったら結構幸せですけど」


「……ふっ」


 リヒト様が吹き出した。


「そこですか?」


「重要ですよ」


「そうですね」


「はい」


「では、来週も用意させましょう」


「本当ですか?」


「ええ」


「では来週も来ます」


「タルト目当てですか?」


「半分くらいは」


「半分も?」


 リヒト様が声を上げて笑う。


 その横で。


 レオン様が、ほんの少しだけ微笑んでいた。


     * * *


 お茶を飲み終えたあと。


「今日は天気がいいですね」


 窓の外を見ながら私が言うと、リヒト様が答えた。


「そうなんですか?」


「あ」


 しまった。


 と思ったけれど。


「そうですよ。雲がほとんどありません」


「そうですか」


「庭に出ませんか?」


「庭?」


「はい」


「……構いませんが」


 少しだけ迷ったような返事だった。


 その理由は、庭へ出てすぐに分かった。


 リヒト様は屋敷の中なら、ほとんど一人で歩ける。


 けれど庭は違う。


 風で枝が落ちることもある。


 庭師が道具を置くこともある。


 季節によって花壇の配置も変わる。


 決まった場所に決まったものがある屋内より、ずっと歩きにくいのだ。


 後ろにはレオン様がいる。


 けれど、私はいつものように声をかけた。


「五歩くらい先から石畳が少し細くなります」


「分かりました」


「右側に花壇があります」


「何の花ですか?」


 私は花壇を見る。


「……白い花です」


「それでは分かりませんね」


「あ」


 思わず笑ってしまった。


「すみません」


「いえ」


「そうですよね。白いと言われても」


「想像はできますよ。一応」


「でも、白を知っているんですか?」


「十二歳までは見えていましたから」


「ああ、そうでした」


 私は花壇へ近づいた。


 小さな花がいくつも咲いている。


「これは……何ていう花かしら」


「知らないんですか?」


「薬草なら分かるんですけど、観賞用はあまり」


「意外ですね」


「私を何だと思っているんです?」


「植物なら何でも知っている人かと」


「そんなわけないでしょう」


 私は花を一輪、そっと指で触った。


「でも……」


 どう説明すればいいだろう。


「花びらが薄いです」


「薄い?」


「はい。五枚あって……先が少し丸い」


 私は顔を近づける。


「匂いは甘いです。強くはないですけど」


 リヒト様が少し顔をこちらへ向ける。


「触りますか?」


「いいんですか?」


「花に聞かないと分かりませんけど」


「……それは難しいですね」


 私は笑いながら、リヒト様の手首へ軽く触れた。


「手、借りますね」


「……はい」


 彼の手を花のところまで導く。


「ここです」


 指先が花びらに触れる。


「本当だ。薄い」


「でしょう?」


「柔らかいですね」


「匂いもします?」


 リヒト様が少し顔を近づける。


「……少しだけ」


「甘いでしょう?」


「ええ」


 しばらく。


 彼は花に触れていた。


「……不思議ですね」


「何がですか?」


「花を見るというのは、目で見ることだけだと思っていました」


「そうなんですか?」


「ええ」


 私は考える。


「でも、目で見るだけだと匂いは分かりませんよ」


「……確かに」


「触った感じも」


「そうですね」


「なら、リヒト様のほうが私より詳しくこの花を見ているかもしれません」


 彼がこちらを向いた。


「僕は見えていませんよ」


「見えるって、目だけでするものなんですか?」


 何気なく言っただけだった。


 けれど。


 リヒト様は何も答えなかった。


「リヒト様?」


「……いえ」


 しばらくして。


 彼は小さく笑った。


「あなたといると、不思議なことばかり言われます」


「嫌ですか?」


「いいえ」


 すぐに返事があった。


「むしろ――」


 風が吹いた。


 木々の葉が擦れる音。


 花の香り。


 遠くで鳥が鳴いている。


「面白いです」


 その声は、どこか穏やかだった。


     * * *


 庭の奥へ進む。


「左に大きな木があります」


「何の木ですか?」


「分かりません」


「またですか?」


「だから薬草以外は専門外です」


「では、どんな木です?」


「ええと……」


 私は見上げる。


「すごく大きいです」


「それは伝わりませんね」


「難しいですね、これ」


「頑張ってください」


「他人事ですね」


 私は少し考える。


「幹は、リヒト様が両腕を回しても届かないくらい太いです」


「なるほど」


「葉っぱは濃い緑で――」


 そこまで言って、止まる。


 緑。


 彼は知っている。


 十二歳までは見えていたのだから。


「……緑は覚えていますか?」


 尋ねると。


 少し間があった。


「覚えている、と思います」


「と思う?」


「色の記憶は、少しずつ曖昧になるんです」


 思わず彼を見る。


「赤も、青も。名前は覚えています。どんな色だったかも、知識としては分かる」


 リヒト様は木々の音へ耳を傾けているようだった。


「でも、それが本当に自分の覚えていた色なのか、時々分からなくなる」


 その言葉に。


 胸の奥が、少しだけざわついた。


 かわいそう。


 そう思ったわけではない。


 ただ。


「じゃあ、私が覚えておきます」


 口から出た。


「……え?」


「色」


「あなたが?」


「はい」


 私は木を見上げる。


「今日の葉は、少し暗い緑です。日の当たっているところだけ、黄色っぽく見えます」


 少し先へ目を向ける。


「空は薄い青。雲はほとんどありません」


「……」


「向こうの花は黄色です。あ、その隣は赤」


「エレノア嬢」


「はい?」


「急に全部説明しなくても大丈夫ですよ」


「……そうですか」


「覚えきれません」


「あ」


 確かに。


 リヒト様が笑った。


 私もつられて笑う。


「では、一つずつにします」


「お願いします」


「今日は――」


 周囲を見渡す。


 ふと、目に留まった。


 少し先。


 木漏れ日の下に、小さな青い花が咲いている。


「青い花があります」


「青?」


「はい」


 私は近づいた。


「空より少し濃い青です。小さくて……たくさん咲いてます」


「綺麗ですか?」


「綺麗ですよ」


「そうですか」


「……見たいですか?」


 聞いてから。


 余計なことを言ったかもしれないと思った。


 けれど。


「ええ」


 リヒト様は穏やかに答えた。


「見てみたいですね」


 その声に悲しさはなかった。


 だから私も、普通に答えた。


「では、いつか見られるといいですね」


「……いつか?」


「はい」


「随分、簡単に言いますね」


「難しく言えば見えるようになるわけでもないでしょう?」


 一瞬の沈黙。


 それから。


「……確かに」


 リヒト様が笑った。


 私は青い花を見つめる。


 ――いつか。


 本当に見せられたら。


 少し、面白いかもしれない。


     * * *


 その日の夜。


「今日はいかがでしたか?」


 レオンが尋ねた。


 リヒトはソファに腰掛けていた。


「何が?」


「エレノア様です」


「なぜ毎回、僕に感想を聞くんだ」


「気になりますので」


「お前が?」


「はい」


「……」


 信用できない。


「変わらないよ」


「そうですか」


「相変わらず、変わった人だ」


「なるほど」


「庭の花を説明してくれた」


「存じております。私も後ろにいましたので」


「……そうだったな」


 レオンが黙る。


「何だ?」


「いえ」


「言いたいことがあるなら言え」


「では」


 レオンは少しだけ笑った。


「私が後ろにいたことを忘れるほど、楽しかったのですね」


「……」


 リヒトは答えなかった。


「失礼いたします」


「待て」


「何でしょう」


「その顔をやめろ」


「どの顔でしょう?」


「今の顔だ」


「生まれつきです」


「嘘をつけ」


 レオンが部屋を出ていく。


 一人になったリヒトは、ソファへ深く身体を預けた。


 静かになった部屋。


 目を閉じても。


 開いても。


 何も変わらない。


 いつもの暗闇。


 けれど。


『今日の葉は、少し暗い緑です』


 彼女の声を思い出す。


『空は薄い青』


『向こうの花は黄色です』


『その隣は赤』


 頭の中に。


 昔見た色が、ぼんやりと浮かぶ。


 十二歳の頃。


 まだ目が見えていた頃の記憶。


 青。


 緑。


 黄色。


 赤。


 そして。


『じゃあ、私が覚えておきます』


「……」


 胸の奥が、妙に温かくなった。


 かわいそうだとも。


 気の毒だとも。


 彼女は一度も言わなかった。


 見えないなら。


 触ればいい。


 匂いを嗅げばいい。


 聞けばいい。


 分からなければ、私が説明する。


 彼女にとっては、本当にそれだけなのだろう。


「……変な人だ」


 小さく呟く。


 なのに。


 その変な人が来る日は。


 最近、朝から少しだけ気分がいい。


     * * *


 同じ頃。


 侯爵邸の研究室では。


「お嬢様、まだ寝ないんですか?」


「もう少し」


「もう夜中ですよ」


「分かってる」


 私は小さな薬瓶へ液体を注いだ。


 淡い青色。


 まだ試作品ですらない。


 視神経に魔力を届けるための基礎薬。


 これだけでは何の意味もない。


 けれど。


 今日、リヒト様から聞いた話で一つ仮説ができた。


 彼の視力は、失われたのではなく。


 何かによって――閉ざされているのではないか。


「……だったら」


 治せるかもしれない。


 今日見た青い花を思い出す。


『見たいですか?』


『ええ。見てみたいですね』


 私は薬瓶を光へかざした。


 淡い青が揺れる。


「……見せてあげたいな」


 ぽつりと呟いて。


 自分の言葉に気づく。


 私は手を止めた。


「……?」


 今。


 私は何と言った?


 治せたら面白い、ではなく。


 見せてあげたい。


「……まあ、同じようなものよね」


「何がですか?」


「何でもない」


 ミアに答えて、私は再び薬瓶へ視線を戻した。


 まだその違いについて、深く考える必要はない。


 そう思った。


 ただ、小さな青い薬瓶だけが。


 月明かりの下で、静かに揺れていた。

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