第2話 変わった婚約者
ヴァレンシュタイン公爵との婚約が正式に決まったのは、顔合わせから五日後のことだった。
驚くほど早かった。
もっとも、両家にとってはずいぶん前から話が進んでいたらしいので、私とリヒト様の意思確認など最後の確認事項に過ぎなかったのだろう。
「お嬢様、届きましたよ」
朝食を終えた私のところへ、ミアが一通の封筒を持ってきた。
「何が?」
「公爵様からです」
「リヒト様から?」
封蝋にはヴァレンシュタイン公爵家の紋章。
開いてみると、数行の簡潔な文章が書かれていた。
婚約が正式に決まったこと。
そして、都合がよければ三日後に公爵邸へ来てほしいということ。
「……随分と急ね」
「そこですか?」
「他に何かある?」
「普通、婚約者からお手紙が届いたら、もう少しこう……」
ミアが両手を胸の前で組む。
「嬉しい、とか。何が書いてあるんだろう、とか」
「書いてあることなら、今読んだでしょう?」
「そういう意味じゃありません」
「難しいわね」
「お嬢様が難しくしてるんです」
そう言いながらも、ミアはどこか嬉しそうだった。
私はもう一度、手紙に目を落とす。
三日後。
特に予定はない。
正確には、薬の調合をする予定だったが、それは夜でもできる。
「行くと返事をしておいて」
「はい」
「あ、それから」
「何ですか?」
「公爵邸の庭に、薬草園があるか聞いておいて」
「……初めて婚約者のところへ遊びに行く令嬢が聞くことじゃないと思います」
「重要でしょう?」
「お嬢様にとっては、ですね」
呆れながら部屋を出ていくミアを見送り、私は研究机へ戻った。
机の端には、一冊の古い医学書が開かれている。
視覚障害と魔力損傷について記されたものだ。
先日の会話から考えれば、リヒト様が視力を失った原因は、単なる外傷ではない可能性が高い。
事故。
魔力暴走。
完全な失明。
そして、十年以上経過しているにもかかわらず、目そのものには大きな損傷がないという。
――少し、興味深い。
「……一度、詳しい記録を見てみたいわね」
私はページをめくった。
婚約者の目を治したい――というほど殊勝な理由ではない。
ただ、治せないと言われているものを見ると、本当にそうなのか確かめたくなる。
昔からそういう性格なのだ。
両親にもよく言われた。
『エレノアは、できないと言われると嬉しそうな顔をするね』
否定はできない。
できないのなら、その理由を知りたい。
理由が分かれば、覆す方法があるかもしれない。
ただそれだけだ。
今のところは。
* * *
三日後。
「エレノア様がお見えです」
その声に、リヒトは読んでいた書類から顔を上げた。
――正確には、読んでいたのはレオンだが。
「もうそんな時間か」
「はい」
レオンは手元の書類を閉じた。
「応接室へご案内しています」
「分かった」
リヒトが立ち上がる。
すぐにレオンがそばへ寄ったが、リヒトは慣れた動きで机を回り込んだ。
自分の屋敷の中なら、ほとんど一人で歩ける。
家具の位置も、扉までの歩数も、すべて頭に入っているからだ。
「……ところで」
廊下へ出たところで、レオンが口を開いた。
「何だ?」
「本当に、よろしいのですか」
「何が?」
「この婚約です」
リヒトの足がわずかに止まった。
「今さらだな」
「だからこそです」
レオンは淡々と言う。
「あの方は、少々……変わっています」
「それは知っている」
「初対面の婚約者に、視力を失った際の魔力暴走について尋ねる令嬢を、私は初めて見ました」
「僕もだよ」
「笑い事ではありません」
そう言われて、リヒトは小さく笑った。
「お前は彼女を警戒しすぎだ」
「当然です」
「なぜ?」
「侯爵家の事情をご存じでしょう」
その一言で、リヒトの表情から笑みが消えた。
ルーベンス侯爵家の経営状態が良くないことは、当然知っている。
今回の婚約も、それと無関係ではない。
「公爵家との婚姻を望む理由が、純粋な好意であるとは思えません」
「それなら問題ないだろう」
「……はい?」
「彼女自身が言っていたじゃないか。条件が悪くないから結婚する、と」
レオンが黙る。
「少なくとも、嘘はついていない」
「それはそうですが」
「僕はむしろ、安心したよ」
好意もないのに愛を囁かれるより。
目が見えない自分を憐れみながら、優しいふりをされるより。
『条件が悪くないからです』
そう言い切った彼女のほうが、よほど信用できた。
「それに」
リヒトは再び歩き出した。
「話していて、退屈しなかった」
レオンが一瞬だけ目を見開く。
「……それは何よりです」
「何だ、その言い方は」
「いえ」
「絶対に何か思っているだろう」
「滅相もございません」
長い付き合いだから分かる。
これは、絶対に何か思っている声だ。
けれど追及する前に、応接室へ着いてしまった。
扉が開く。
「リヒト様」
聞き覚えのある声がした。
それだけで、不思議と肩の力が抜けた。
「お待たせしました、エレノア嬢」
「いいえ。それほど待ってはいません」
「それは良かった」
「あ、でも」
「はい?」
「先にケーキを頂いてしまいました」
「……そうですか」
「絶品でした。流石は公爵家ですね」
リヒトは一瞬黙ってから、笑った。
「遠慮がありませんね」
「食べていいものとして置いてあったので」
「もちろん、構いません」
「なら良かったです」
レオンが後ろで小さく息を吐いた。
やはり変わった令嬢だ、とでも思っているのだろう。
* * *
「それで、今日は何をするんですか?」
私が尋ねると、リヒト様は少し困った顔をした。
「……何を、と言われましても」
「何か用事があって呼ばれたのかと」
「いえ。婚約者になったのですから、少しずつ互いを知る時間を作るべきかと思ったのですが」
「なるほど」
私は納得した。
確かに合理的だ。
ほとんど知らない人間といきなり結婚するより、事前に性格や生活習慣を把握しておいたほうがいい。
「では、質問しても?」
「どうぞ」
「朝は何時に起きますか?」
「……六時頃です」
「朝食は?」
「七時半頃に」
「好き嫌いは?」
「特には」
「寝る時間は?」
「日によりますが、十一時頃でしょうか」
「仕事は?」
「午前中は書類仕事が多いですね。午後は領地関係の打ち合わせや――」
「ちょっと待ってください」
「はい?」
私は首を傾げた。
「書類仕事はどうされているんです?」
部屋の空気が一瞬止まった。
後ろにいたレオンの視線が鋭くなる。
どうやら、聞いてはいけないことだったらしい。
けれど、純粋に疑問だった。
「目が見えないのであれば、書類を読むのは難しいですよね」
「……レオンや使用人に読ませています」
「全部?」
「基本的には」
「それは大変ですね」
私が言うと、リヒト様は少しだけ目を伏せた。
「ええ。周囲には迷惑をかけています」
まただ。
私は眉を寄せた。
この人はすぐに、自分が誰かに迷惑をかけているという話に持っていく。
「別に、そういう意味で言ったわけではありません」
「え?」
「効率が悪そうだと思っただけです」
「……効率?」
「読み上げてもらう間、レオン様も拘束されるのでしょう?」
「まあ……そうですね」
「なら、文字を指先で読めるようにすればいいのでは?」
今度こそ、二人とも黙った。
「……指先で?」
リヒト様が聞き返す。
「はい」
私はテーブルに置かれていた紙を一枚取った。
「例えば、紙に凹凸をつけて、文字の代わりになる記号を作るんです」
指先で紙の上をなぞる。
「一つの記号に一つの文字を対応させれば、目で見なくても指で読めるでしょう?」
「……」
「最初は覚えるのが大変でしょうけど」
「エレノア様」
レオンが初めて私に話しかけた。
「それは……今、思いつかれたのですか?」
「はい」
「今?」
「今です」
レオンが何とも言えない顔をする。
「そんなに変ですか?」
「いえ」
「ならいいですけど」
私は紙を置いた。
「ただ、実用化するなら記号の数を減らしたほうがいいでしょうね。頻出する音をまとめるとか。紙に凹凸をつける方法も考えないと」
「……エレノア嬢」
「はい?」
「あなたはいつも、そんなことを考えているのですか?」
リヒト様が聞く。
「そんなこと?」
「不便なものを見つけたら、どうすれば便利になるか、と」
私は少し考えた。
「そうかもしれません」
「なぜ?」
「不便なままにしておく理由がないので」
そう答えると。
リヒト様は、しばらく何も言わなかった。
何かおかしなことを言っただろうか。
「リヒト様?」
「……いえ」
彼は小さく笑った。
「やっぱり、あなたは変わっていますね」
「またですか」
「褒めています」
「前は褒めていないと言っていました」
「今回は褒めています」
「基準が分かりません」
私がそう言うと、彼は楽しそうに笑った。
初めて会ったときにも思ったけれど。
この人は、笑うとずいぶん印象が変わる。
整った顔立ちだから、黙っていると少し近寄りがたい。
けれど笑うと、年相応に見える。
「……リヒト様は」
「はい?」
「もっと笑ったほうがいいですね」
その瞬間。
リヒト様の笑みが止まった。
レオンもこちらを見る。
「……なぜです?」
「そのほうが話しかけやすいので」
「ああ……」
「黙っていると怖そうです」
「怖いですか?」
「少し」
「……そうですか」
なぜか、リヒト様は再び笑った。
「エレノア嬢は、本当に容赦がありませんね」
「嘘をついても仕方ないでしょう?」
「確かに」
その日の会話は、それから一時間ほど続いた。
好きな食べ物。
嫌いなもの。
普段どんな本を読むのか。
領地のこと。
私の薬の研究のこと。
話してみると、リヒト様は思っていた以上に知識が豊富だった。
特に領地経営や貿易については詳しく、私が知らないことも多い。
逆に薬学についてはほとんど知らないらしく、私の話を興味深そうに聞いていた。
気づけば、予定していた時間を大幅に過ぎていた。
「そろそろ帰らないと」
時計を見て立ち上がる。
「もうそんな時間ですか」
「はい」
リヒト様も立ち上がった。
「玄関まで送ります」
「大丈夫ですよ。一人で行けます」
「それでは婚約者として格好がつきません」
「そういうものですか?」
「多分」
「多分なんですね」
二人で部屋を出る。
廊下を歩き、階段へ差しかかった。
リヒト様が自然に足を止める。
その後ろからレオンが手を伸ばしかけた。
けれど私は先に口を開いた。
「三歩先に階段です」
二人の動きが止まる。
「……はい?」
「三歩です。十一段あります」
リヒト様が一歩。
二歩。
三歩。
靴の先が、ちょうど階段の縁で止まった。
「右側に手すりがあります」
彼が手を伸ばし、手すりを掴む。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
そのまま私は先に階段を下りた。
後ろから、一定の間隔で足音が続く。
玄関へ着くと、ミアが待っていた。
「お嬢様」
「待たせたわね」
「いいえ」
私は振り返った。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「次はいつ来ればいいですか?」
尋ねると、リヒト様が少し驚いたように顔を上げた。
「……また来てくださるのですか?」
「婚約者は互いを知る時間を作るべきだと、さっきリヒト様が言ったでしょう?」
「……そうでしたね」
「それに」
「それに?」
「まだ聞きたいことがあります」
「例えば?」
「事故のときの診療記録を見せていただけるか、とか」
一瞬の沈黙。
後ろでレオンが深いため息をついた。
「お嬢様……」
ミアまで呆れている。
「何?」
「いえ。何でもありません」
リヒト様が声を上げて笑った。
「分かりました。用意しておきます」
「ありがとうございます」
「では……来週はいかがですか?」
「大丈夫です」
「お待ちしています」
「はい。また来週」
私は馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まる。
馬車が走り出してから、ミアが私を見る。
「お嬢様」
「何?」
「公爵様と仲良くなれそうですね」
「そう?」
「だって、楽しそうでしたよ」
「リヒト様が?」
「お嬢様もです」
「私も?」
そんなつもりはなかった。
ただ、話が思ったより面白かっただけだ。
「まあ……」
私は窓の外を見る。
「悪い人ではなさそうね」
少なくとも。
次に会うのが嫌だとは思わなかった。
* * *
馬車の音が完全に聞こえなくなってから。
リヒトは屋敷の中へ戻った。
その隣を、レオンが歩いている。
「……レオン」
「はい」
「来週の予定は?」
「先ほど、空いていることを確認されていたでしょう」
「そうだったな」
「はい」
少しの沈黙。
「診療記録を用意しておいてくれ」
「承知しました」
「それと」
「はい」
リヒトは少し迷った。
「……今日出した菓子は、何だった?」
レオンが足を止める。
「木苺のタルトですが」
「そうか」
「……」
「何だ?」
「いえ」
レオンは何事もなかったかのように歩き出した。
「来週も、同じものを用意させます」
「僕はそこまで言っていない」
「そうですか」
「ただ聞いただけだ」
「承知しております」
「絶対に分かっていないだろう」
「滅相もございません」
リヒトは眉を寄せた。
けれど。
来週。
また、あの声がこの屋敷にやってくる。
そう考えると――
なぜだか、少しだけ楽しみだった。




