第1話 盲目公爵との婚約
初投稿です。
その日、私は父から一つの命令を受けた。
「エレノア。お前には、ヴァレンシュタイン公爵家へ嫁いでもらう」
「……そうですか」
驚きはしなかった。
むしろ、いつかそうなるだろうと思っていた。
最近の我が家――ルーベンス侯爵家には、以前のような余裕がない。
領地経営は傾き、商会との取引も減り、屋敷の使用人は少しずつ姿を消している。
それでも、侯爵家という看板だけは残っている。
だからこそ、家格の高いヴァレンシュタイン公爵家との縁談は、父にとって最後の切り札なのだろう。
「断ることは許さん」
「別に断るつもりはありません」
「……何?」
父が怪訝そうに眉をひそめる。
私は手元の紅茶を一口飲んだ。
「私にとって、結婚相手が誰かは、それほど重要ではありませんから」
「お前……」
父は不快そうに顔を歪めた。
けれど、私にはその反応のほうが不思議だった。
私がこの家で何をしてきたのか。
父も母も、よく知っているはずだ。
幼い頃から、私は両親の研究を手伝ってきた。
魔力を安定させる薬。
傷を癒やす薬。
魔力暴走を抑える薬。
薬草の配合から抽出方法、魔力の流し方まで。
両親が亡くなったあとも、その研究を続けてきた。
そして、それを侯爵家は利用した。
「お前をこの侯爵家の娘として立派に育ててやる代わりに薬の研究を続けその恩を返せ」
父はそう言う。
だから私は、ここに置いてもらえている。
そういう関係だった。
家族というより――取引相手に近い。
ならば私も、結婚を取引として考えればいい。
「それに、公爵家へ嫁げるなら、悪い話ではありません」
「ほう。ようやく自分の立場が分かったか」
「そういう意味ではありません」
「何?」
「この家から出られるのでしょう?」
父が黙った。
私は笑った。
「それなら、私は喜んで嫁ぎます」
父の顔が少しだけ引きつった。
どうやら、その理由までは想定していなかったらしい。
私には、この家を出たいという願いがある。
侯爵家の令嬢になりたいわけではない。
贅沢な暮らしがしたいわけでもない。
ましてや、権力が欲しいわけでもない。
ただ――
いつか、自分の生まれ育った町へ帰りたい。
両親と過ごした、あの小さな町へ。
そこで薬を作りながら暮らしたい。
それが私の望みだった。
だから、今回の婚約は都合がいい。
侯爵家を出る理由ができる。
それだけで十分だった。
「では、準備しておけ。三日後、公爵家へ顔合わせに行く」
「分かりました」
私は立ち上がった。
部屋を出ようとしたところで、父が背後から言った。
「エレノア」
「はい?」
「絶対に、失敗するな」
「……何をですか?」
「この縁談をだ」
私は少し考えてから答えた。
「それは、お相手の方にも同じことを言っておいたほうがいいと思いますよ」
「なに?」
「結婚は一人ではできませんから」
そう言って、私は部屋を出た。
背後で父が何か言っていたが、聞こえないふりをした。
* * *
「お嬢様、本当に行かれるんですか?」
「行くわよ」
私の荷物をまとめながら、ミアが心配そうに私を見る。
ミアは、この家で唯一、私が心を許している使用人だ。
私が両親の研究を引き継いでいることも。
この家から出たいと思っていることも。
全部知っている。
「公爵様って……あの、ヴァレンシュタイン公爵ですよね?」
「そうね」
「盲目の……」
「そうらしいわね」
ミアが声を落とした。
「怖くないんですか?」
「どうして?」
「その……目が見えない方と結婚するのって、大変なんじゃ……」
「目が見えないことと、人柄が悪いことは別でしょう?」
「それは……そうですけど」
「それに」
私は薬瓶を一つ手に取った。
「目が見えない原因が病気や呪いなら、治療できる可能性だってあるわ」
ミアが目を丸くする。
「また始まりましたね」
「何が?」
「お嬢様の『治せるかもしれない』」
「だって気になるじゃない」
私は瓶を光にかざした。
「見えない原因が何なのか。どんな魔力反応が残っているのか。神経が傷ついているのか。それとも魔力回路の問題なのか」
「……結婚の話なのに、もう薬のことを考えてるんですね」
「だって面白そうだもの」
「普通はそこを心配するんですけど……」
「私は普通じゃないらしいから」
「自覚はあるんですね」
「もちろん」
ミアが呆れたように笑った。
私は小さく笑い返した。
そして、その夜。
私は一人で机に向かった。
紙の上に、いくつかの薬草の名前を書いていく。
――視覚回復。
可能性があるとすれば、まずは魔力による神経再生。
ただし、完全に失われた視覚を戻すには、通常の治癒薬では足りない。
必要なのは――
「……特殊な触媒がいるわね」
私はペンを置いた。
そのときはまだ知らなかった。
この小さな思いつきが、後に私の人生を大きく変えることになるなんて。
* * *
三日後。
私はヴァレンシュタイン公爵邸の応接室にいた。
「エレノア・ルーベンス嬢ですね」
「はい」
「こちらへどうぞ」
案内された部屋は、侯爵家よりもずっと静かだった。
華美ではない。
けれど、家具一つ一つの質が高い。
使用人の動きにも無駄がない。
公爵家という立場を考えれば当然なのだろう。
そして。
「……初めまして」
その声が聞こえた。
私は顔を上げる。
「リヒト・ヴァレンシュタインです」
銀に近い淡い髪。
整った顔立ち。
けれど、その瞳は私のいる場所を捉えていなかった。
彼は私の向かいに座ると、ほんの少しだけ顔を傾けた。
「本日は来てくださってありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
私は頭を下げた。
彼の隣には、一人の男性が立っている。
黒髪で、厳しい目をした青年。
おそらく護衛か側近だろう。
「レオン・ハルトマンです」
「エレノア・ルーベンスです。よろしくお願いします」
レオンは短く頭を下げた。
けれど、その視線は明らかに私を警戒している。
まあ、無理もない。
婚約者候補としてやってきた令嬢が、主人に何を望んでいるのか。
彼には分からないのだから。
「……エレノア嬢」
「はい」
「今回の婚約について、少しお話があります」
「どうぞ」
リヒト様は一度、息を吐いた。
「あなたは、私に期待しないでいただきたい」
「……?」
「私は目が見えません」
淡々とした声だった。
「社交の場では、あなたに迷惑をかけるでしょう。日常生活でも、普通の夫婦とは違うことが多いと思います」
「そうでしょうね」
「ですから――」
彼の指が、膝の上でわずかに動いた。
「もし、この婚約を断りたいのであれば――私は反対しません」
静かな声だった。
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
てっきり、公爵家からも断ることのできない縁談だと思っていた。
「……断ってもいいんですか?」
「はい」
「本当に?」
「ええ」
私は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「私は別に、普通の結婚がしたいわけではありません」
リヒト様が黙る。
「普通の夫婦というものが、どういうものなのか私には分かりませんし」
「……」
「それに、目が見えないことだけで結婚を断る理由にはならないと思います」
レオンがわずかに目を見開いた。
リヒト様も驚いているらしい。
「では……なぜ?」
「何がですか?」
「なぜ、この婚約を受けるのですか?」
私は少しだけ笑った。
「条件が悪くないからです」
「……条件?」
「はい」
私は指を折りながら話した。
「公爵家なら生活に困ることはありません。私が研究を続けることも許可していただけるでしょう」
「それは……」
「それに、私は侯爵家より公爵家のほうが静かに暮らせそうだと思っています」
「……」
「あと、あなたは私に無理をさせるつもりがない」
私は彼を見た。
「なら、私としては断る理由がありません」
沈黙。
やがて。
「……ふっ」
小さな笑い声が聞こえた。
リヒト様が笑っている。
「何かおかしかったですか?」
「いえ……」
彼は少し困ったように笑った。
「本当に変わった人だと思っただけです」
「よく言われます」
「褒めていませんよ」
「知っています」
今度は、彼が少しだけ声を上げて笑った。
その笑い方は、思っていたよりずっと柔らかかった。
私は少し意外に思った。
もっと冷たい人なのかと思っていた。
けれど。
目が見えないことを理由に、最初から自分を低く見積もっている。
それだけは少し気になった。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
「目が見えないことについて」
レオンの表情が険しくなる。
けれど私は気にせず続けた。
「生まれつきですか?」
「……いいえ」
「事故?」
「はい」
「そのとき、魔力暴走はありましたか?」
「……魔力暴走?」
「はい」
私は身を乗り出した。
「もし魔力による損傷なら、神経そのものが壊れているとは限りません」
「……」
「視力を失ってから、光を感じたことは?」
「ありません」
「では、音や匂いに対する感覚が以前より鋭くなったことは?」
「それは……あります」
「なるほど」
私は頷いた。
頭の中でいくつかの可能性が浮かんでくる。
魔力による視神経の損傷。
あるいは脳への魔力干渉。
もし後者なら――
「……治せるかもしれませんね」
「え?」
リヒト様がこちらを向いた。
「いえ」
私は慌てて首を振った。
「まだ何も分かりません」
「……治せると思ったのですか?」
「可能性の話です」
「そうですか」
彼は少し笑った。
「もし本当に治せたら、面白いですね」
「ええ」
私は頷いた。
そのときの私は、まだ知らなかった。
この人の目を治したいという気持ちが。
いつか、私自身の心まで変えてしまうことを。
* * *
その日の帰り道。
馬車の中で、ミアが尋ねた。
「どうでした?」
「婚約することになりそう」
「本当ですか?」
「ええ」
「……お嬢様、嬉しそうですね」
「そう?」
「はい」
私は窓の外を眺めた。
流れていく景色。
侯爵家へ戻る道。
今日まで何度も通った道なのに、なぜか少し違って見えた。
「嬉しいというより――」
「というより?」
「これで、ここを出られるから」
ミアが静かに笑った。
「そうですね」
「公爵家に行ったら、薬の研究を続けられるかもしれない」
「……目の薬ですか?」
「それも含めてね」
私は今日会った青年を思い出した。
リヒト・ヴァレンシュタイン。
盲目の公爵。
けれど、思っていたよりずっと普通の人だった。
少し不器用で。
少し自信がなくて。
そして、思ったよりよく笑う。
「……変わった人だったな」
私が呟くと、ミアがくすりと笑った。
「それ、公爵様も同じことを思っていると思いますよ」
「そうかもね」
私は窓の外へ視線を戻した。
このときの私はまだ知らなかった。
この婚約が、ただ侯爵家を出るための手段になるだけではないことを。
そして。
いつかこの人の手を、自分から握りたいと思う日が来ることを。
――このときの私は、まだ知らなかった。




