第10話 あなたと共に
リヒト様が故郷へやって来てから、三日が経った。
「ここを、薬屋にしたいんです」
私は店の中央に立ち、改めてそう言った。
まだ店と呼べるような状態ではない。
棚は半分しかなく、作業台も仮のもの。薬草を保管するための戸棚は昨日ようやく届いたばかりで、店の奥には荷解きすら終わっていない木箱が積み上がっている。
それでも、私にとってはずっと欲しかった場所だった。
「ここで薬を作って、売りたいんです。侯爵家のためでも、誰かに命令されたからでもなく、私が必要だと思った薬を」
リヒト様は黙って聞いている。
「もちろん、薬を作るだけじゃ生活できないかもしれません。店がうまくいく保証もないし、公爵夫人になったら好き勝手に店をやるなんて難しいと思います」
「エレノア」
「はい」
「昨日も言いましたが」
リヒト様は少し呆れたように笑った。
「なぜ、結婚したらやめる前提なんです?」
「……でも」
「やればいいでしょう」
「簡単に言いますね」
「難しく考えているのはあなたです」
反論しようとして、やめた。
確かにそうかもしれない。
「僕は公爵ですから、王都や領地を長く離れられない時期もあります。あなたにも公爵夫人としてお願いしなければならないことはあるでしょう」
「はい」
「だから、そのあたりは相談しましょう。あなたがここに来る日があってもいいし、僕が来てもいい。必要ならこの近くに家を用意してもいい」
「家まで?」
「嫌ですか?」
「嫌というか……」
この人は昨日から、私よりずっと先のことを考えている。
「それに研究なら、公爵邸でもできます」
「研究室……」
「まだ空っぽです」
少し恨めしそうに言われた。
「誰かさんが、見に来ると言った翌日にいなくなったので」
「……それは本当にすみませんでした」
「かなり楽しみにしていたんですよ」
「だから謝ってるじゃないですか」
「一生言うかもしれません」
「そんなに?」
「そんなにです」
思わず笑ってしまった。
故郷に薬屋を持つ。
公爵邸には研究室を持つ。
私は行き来して、薬を作る。
リヒト様は仕事があるときは領地や王都へ戻り、時間があればこちらへ来る。
今まで考えたこともなかった。
私の中ではずっと、人生とは何か一つを選ぶものだった。
侯爵家に残るか、逃げるか。
研究を利用されるか、捨てるか。
リヒト様と結婚するか、故郷へ帰るか。
でも。
選ばなくてもいいものまで、私は選ぼうとしていたのかもしれない。
「リヒト様」
「はい」
「私、欲張りでもいいですか?」
「内容によります」
「それ、私の台詞です」
「使ってみたかったので」
少し笑ってから、私は言った。
「ここで薬屋をやりたいです」
「はい」
「研究も続けたい」
「はい」
「それから……」
少しだけ迷った。
でも、今度は逃げない。
「あなたとも、一緒にいたいです」
リヒト様が黙った。
「……何か言ってください」
「少し待ってください」
「またですか?」
「大事なところなので」
そう言った彼の口元が、少しずつ緩んでいく。
やがて隠しきれなくなったように笑った。
「全部、叶えましょう」
「そんな簡単に」
「簡単ではないと思います」
リヒト様は私の前まで来た。
「でも、二人で考えればいい」
「……はい」
「一人で決めないで」
その一言だけ、少し声が低くなる。
やっぱり。
黙っていなくなったことは、相当根に持たれているらしい。
「もうしません」
「本当に?」
「多分」
「エレノア」
「冗談です」
「……心臓に悪いのでやめてください」
思わず笑った。
リヒト様はため息をついたあと、私の手を取る。
もう、その動作にも以前のような迷いはなかった。
「では」
「はい?」
「改めて聞いても?」
「何をです?」
彼が私を見る。
見えるようになった瞳で。
真っ直ぐに。
「僕と結婚してください」
最初の婚約に、この言葉はなかった。
家同士が決めた。
私も利用した。
リヒト様も受け入れただけだった。
でも今は違う。
侯爵家は関係ない。
契約も。
援助も。
何も関係ない。
彼が私を選んで。
私が彼を選ぶ。
「はい」
今度は迷わなかった。
「喜んで」
リヒト様が笑う。
そして次の瞬間、強く抱きしめられた。
「ちょっと、苦しいです」
「……すみません」
腕が少し緩む。
でも離れない。
「離してとは言ってません」
「……」
また強くなる。
「だから苦しいです」
「どうすればいいんですか」
「加減してください」
「難しいですね」
「そんなことあります?」
胸元から笑い声が聞こえた。
私も笑った。
ずっと帰りたかった場所で。
ずっと会いたかった人に抱きしめられている。
これなら。
悪くない。
* * *
それからの日々は、驚くほど忙しかった。
薬屋の準備を進めながら、公爵家との婚姻準備もやり直した。
以前と違うのは、そのほとんどを私たち自身で決めたことだ。
店は予定通り開く。
公爵邸の研究室も完成させる。
春から秋にかけては故郷と公爵領を行き来し、冬は研究に時間を使う。
もちろん、実際に始めれば予定通りにいかないこともあるだろう。
それでもいい。
そのときは、また考えればいいのだから。
そして数か月後。
私は白いドレスを着ていた。
「……お嬢様」
「何?」
「綺麗です」
後ろに立つミアの声が震えている。
「泣かないでよ」
「泣いてません」
「それ、最近よく聞く」
「誰からです?」
「レオン様」
「一緒にしないでください」
思わず笑う。
鏡の中には、見慣れない自分がいた。
白いドレス。
髪には、小さな青い花。
「それ」
ミアが花に触れる。
「公爵様が選ばれたんですよね」
「ええ」
『青い花がいいです』
リヒト様がそう言った。
理由を聞いたら。
『初めてあなたが僕に見せてくれた色だから』
と言われた。
正確には、あの頃は見えていなかったのだけれど本人が気に入っているなら、それでいい。
「行きましょうか」
「はい」
扉が開く。
光が差し込む。
その先にリヒト様がいた。
彼は私を見た瞬間、動かなくなった。
「……」
「リヒト様?」
返事がない。
近づく。
「どうしました?」
「……綺麗です」
「ありがとうございます」
「すごく」
「はい」
「……本当に」
「分かりましたから」
「言わせてください」
珍しく譲らない。
「今日くらい」
その顔があまりにも真剣で、私は笑った。
「どうぞ」
「綺麗です」
「ありがとうございます」
「僕の婚約者が」
「もうすぐ妻です」
「……そうでした」
リヒト様が嬉しそうに笑う。
差し出された手を取った。
その手は夏祭りの日より、ずっと強く私の手を握っていた。
* * *
「リヒト・ヴァレンシュタイン。あなたは――」
誓いの言葉が続いていく。
私は隣を見る。
銀色の髪。
穏やかな横顔。
そして、私を見ている瞳。
最初に会った日にこの人は言った。
『あなたは、私に期待しないでいただきたい』
あの頃の彼が。
今は私の手を握っている。
そして私も。
『私は別に、普通の結婚がしたいわけではありません』
そう言った。
今でも、その考えは変わっていない。
普通でなくていい。
公爵夫人なのに田舎で薬屋をやって。
夫と離れて暮らす日があって。
研究に夢中になって帰るのを忘れて。
そのたびに、きっとこの人に怒られる。
それでいい。
「エレノア・ルーベンス。あなたは――」
「はい」
答える。
迷いはなかった。
誓いの言葉が終わる。
リヒト様が私を見る。
「エレノア」
「はい」
「今、すごく幸せです」
「……そういうの、今言うんですか?」
「言いたくなったので」
少し笑う。
「私もです」
彼の目が細くなる。
ああこの顔が好きだ。
そう思った。
「では」
リヒト様が少しだけ顔を近づける。
「もう、逃げませんよね?」
「まだ言います?」
「確認です」
「逃げません」
「本当に?」
「しつこいです」
「一度逃げられたので」
仕方がない。
私は彼の手を握り返した。
「大丈夫です」
そしてあの日と同じ言葉を言う。
「ここにいます」
リヒト様の表情が止まった。
それから泣きそうなくらい幸せそうに笑った。
「……はい」
今度は彼が答えた。
「見えています」
唇が重なる。
祝福の鐘が鳴った。
私はずっと、帰る場所が欲しかった。
両親と暮らした故郷。
自分で選んだ、小さな薬屋。
そして私を待っている人がいる場所。
帰る場所は、一つでなくてもいい。
これから私は二つの場所を行き来しながらこの人と生きていく。
自分で選んだ人生を自分で選んだ人と。
――幸せに。
⸻
おまけ 初夜
「……」
「……」
気まずい。
ものすごく気まずい。
結婚式も終わり、祝宴も終わり。
ようやく二人きりになった寝室で、私はベッドの端に座っていた。
少し離れたところにはリヒト様。
正確には今日から夫。
「リヒト様」
「はい」
「さっきから、どうしてそこにいるんです?」
「……心の準備を」
「何の?」
「聞かないでください」
「私が聞いたんですけど」
リヒト様が額を押さえた。
結婚式ではあんなに堂々としていたのに。
「もしかして緊張してます?」
「しています」
「即答」
「あなたはしていないんですか?」
「してますけど」
「そう見えません」
「顔に出にくいので」
「ずるい」
そんなことを言われても困る。
少し沈黙したあと、リヒト様がこちらへ来た。
隣に座る。
近い。
「エレノア」
「はい」
「手、いいですか?」
「夫婦になって最初にそれですか?」
「駄目ですか?」
「駄目じゃないです」
手を差し出す。
彼の指が絡む。
九話で初めてこうして指を絡めたときより、少しだけ自然になった。
リヒト様が繋いだ手を見ている。
「好きですね、それ」
「好きです」
「手が?」
「あなたに触れるのが」
「……」
この人たまにとんでもないことを真顔で言う。
「エレノア」
「はい」
顔を上げる。
唇が触れた。
軽いキス。
離れる。
もう一度。
今度は少し長い。
それでも離れる。
「……」
「リヒト様?」
「すみません」
「何が?」
「もう一回しても?」
「……どうぞ」
また唇が重なる。
三度目。
四度目。
「……多くないですか?」
「すみません」
「謝りながらするのやめてもらえます?」
「では、謝りません」
「そういう問題?」
笑おうとした。
けれどまた唇を塞がれる。
今度はさっきより長かった。
離れたとき、リヒト様の呼吸が少し乱れている。
「……エレノア」
「はい?」
「困りました」
「何が?」
「全然、足りない」
心臓が跳ねた。
いつもの穏やかな声なのに少しだけ余裕がない。
「……何が足りないんです?」
分かっているのに聞いた。
リヒト様が黙る。
耳が赤い。
「言わせるんですか?」
「聞いただけです」
「……触れたい」
繋いでいないほうの手が、頬に触れる。
「もっと」
その一言だけひどく必死に聞こえた。
私は何も言わなかった。
代わりに彼の胸元を掴んで、少しだけ引き寄せる。
目が合う。
「……いいですよ」
リヒト様が固まった。
「本当に?」
「何回確認するんです?」
「だって」
彼の指が頬に触れたまま、わずかに震えている。
「あなたのことになると、自信がなくなる」
「公爵様なのに?」
「関係ありません」
即答だった。
「嫌われたくないので」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
私は頬にある彼の手へ、自分の手を重ねた。
「嫌いませんよ」
「……」
「多分」
「エレノア」
「冗談です」
「今日くらい勘弁してください」
思わず笑った。
その瞬間抱きしめられた。
強い。
「苦しいです」
「……すみません」
少しだけ緩む。
でも離れない。
「エレノア」
「はい」
「好きです」
「知ってます」
「好きです」
「二回目」
「……ずっと言いたかったので」
首元に顔を埋められる。
いつもなら絶対に見せないような姿だった。
余裕なんてどこにもない。
「会えなくなったとき、本当に怖かった」
「……はい」
「見えるようになっても、あなたがいなかった」
抱きしめる腕に力が入る。
「だから今、ここにいるのが嬉しくて」
少し間が空いた。
「離したくない」
その声を聞いて私は彼の背中へ腕を回した。
「離れませんよ」
「……本当に?」
「今日は」
「今日は?」
顔を上げたリヒト様が、ものすごく不安そうだった。
「冗談ですって」
「あなたの冗談、心臓に悪いです」
「ごめんなさい」
「……もう一回言ってください」
「何を?」
「離れないって」
仕方がない人。
「離れません」
「もう一回」
「しつこい」
「お願いします」
私は笑った。
「離れませんよ」
リヒト様が本当に安心したように笑う。
そしてまたキスをされた。
今度はさっきより少しだけ長く。
「……リヒト様」
「はい」
「もう、聞かないんですね」
「何を?」
「キスしていいか」
彼の動きが止まった。
「……嫌でした?」
「そうじゃなくて」
「よかった」
心底ほっとした顔をする。
そのまま、額に。
頬に、また唇に、何度も触れる。
「……ちょっと」
「はい」
「本当に多いです」
「我慢していたので」
「いつから?」
「あなたを見つけてから」
「そんなに?」
「多分、それより前から」
困ったように笑ったあと。
また唇が触れた。
「……幸せです」
キスの合間に、彼が呟く。
「さっきも聞きました」
「何度でも言います」
「そうですか」
「はい」
私は笑って今度は自分から彼にキスをした。
「……」
リヒト様が固まった。
「どうしました?」
「それは」
「はい?」
「……ずるい」
次の瞬間。
また抱きしめられた。
さっきよりもずっと必死に。
「エレノア」
「はい」
「今日は、本当に離せないかもしれません」
「……どうぞ」
そう答えると。
彼は泣きそうなくらい嬉しそうに笑った。
その夜。
何度名前を呼ばれたのか。
途中から数えるのをやめた。
ただ。
眠りにつく直前まで。
繋いだ手だけは。
一度も離れなかった。
本編はこれにて完結です。
番外編も投稿するのでもう少しお付き合いください。




