第3話後半 「会議編:迷わない会議室」
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ディスプレイの端に、わずかなノイズが走った。
一瞬、線が歪み、すぐに戻る。
気のせいかと思った。でも——
「あれ……」
瞳が、顔を上げた。
空気が変わっていた。
音が引いていく。
コピー機の唸り、廊下を歩く足音、遠くの電話のベル——
すべてが、ゆっくりと遠ざかる。
代わりに、規則的な低音が聞こえてきた。
換気のような。機械の駆動音のような。
規則的すぎて、逆に気持ち悪い。
「ようこそ」
声が響いた。
振り向くと、“カノジョ”が立っている。
会議室の隅。誰も座っていない席の隣。
いつ現れたのか。最初からそこにいたのか。
「ここは、“最適化された意思決定”の世界です」
次の瞬間、会議室が変わった。
同じ部屋のはずだった。
でも、すべてが「整いすぎていた」。
資料は、会議が始まる前に完成している。
配布されている。誰もが目を通している。
当然のように。
議論は存在しない。
結論だけが、静かに提示される。
声は、無機質だった。感情の起伏がない。
ただ、事実を述べているだけ。
「最適解は、これです」
誰かが言う。
全員が、同時に頷く。
迷いはない。異論もない。
すべてが、最短距離で決まっていく。
時間の無駄は、一秒もない。
「この世界では、無駄な議論は排除されています」
カノジョが説明する。
「意見の衝突、感情の揺れ、誤解——
それらはすべて“非効率”です」
拓は、その光景を見つめた。
たしかに、速い。
たしかに、正しい。
でも——
「……誰も、責任取ってないな」
気づくと、口に出していた。
カノジョが、こちらを見る。
その目は、責めるでもなく、ただ「問い」を受け止めている。
「責任は、最適化システムが負います」
「じゃあ、人は何をするんだ?」
「決定を受け入れ、実行します」
その答えは、あまりにも正しかった。
正しすぎて——逃げ道がない。
「それって……“考えてない”のと同じじゃないか」
拓は言った。
隣で、瞳が小さく頷く。
「失敗も、迷いもないなら、
それってもう“選んでる”って言えるのかな」
カノジョは、少しだけ沈黙した。
表情は変わらない。でも、その間の長さが、少しだけ違っていた。
考えるような、でも何も考えていないような——
その曖昧さが、妙に気持ち悪かった。
そして、静かに言った。
「その問いは、この世界では不要です」
世界が、ほどけた。
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透明な層が剥がれ、元の空気が戻ってくる。
コピー機の音。誰かの笑い声。歩く足音。
気づくと、元の会議室に戻っていた。
資料は少しズレている。
誰かが言い直している。
「すみません、今のちょっと訂正いいですか?」
空気が、少しだけ乱れる。
でも——
その“乱れ”が、妙にリアルだった。
誰かが間違えた。誰かが気づいた。誰かが直した。
その「手間」が、確かにそこにあった。
会議が終わる。
人が立ち上がる。
予定より少し遅れたけれど、誰も気にしていない。
「さっきの件、もう少し詰めたいんだけど」
誰かが言う。
「いいよ、あとで話そう」
予定外の会話が、生まれる。
会議室にはなかった「間」が、そこにあった。
拓はそれを見て、ふと思った。
(ああ……これか)
非効率で、遅くて、面倒で——
でも、何かが“動いている”。
誰かが考えている。
誰かが迷っている。
誰かが、間違えている。
その「不完全」の積み重ねが、やっと「仕事」という形になっている気がした。
瞳が、横で小さく笑った。
「さっきより、ちょっとだけ“仕事してる感じ”するね」
「だな」
拓も笑った。
完璧ではない。
でも、どこか納得できる。
「ねえ、今日の会議——何か残った?」
瞳が聞く。
拓は、少し考えた。
「……わからない。
でも、さっきよりは、覚えてる」
「それだけでいいかもね」
瞳はそう言って、席を立った。
【観測者としての作者の独白】
私たちは、「正しさ」を求める。
速く、無駄がなく、間違いのない判断。
それは、社会にとって確かに望ましいものだ。
しかし、その先にあるのは——
“誰も迷わない世界”かもしれない。
迷わないということは、選ばないということでもある。
失敗しないということは、試さないということでもある。
傷つかないということは、何も賭けていないということでもある。
そして、すべてが正しく決まる世界では、
「なぜそれを選んだのか」という問いすら、消えていく。
誰も問わない。誰も考えない。
ただ、与えられた最適解を受け取るだけ。
そのとき、人間はまだ——
“考えている存在”と言えるのだろうか。
それとも、ただ最適な答えを受け取るだけの
静かな装置になっていくのだろうか。
「考える」ということは、時に無駄を生む。
「迷う」ということは、時に時間を浪費する。
「間違える」ということは、時に誰かを傷つける。
でも——
その「非効率」の中にしか、
「自分で決めた」という実感は生まれない。
私はまだ、
“迷うこと”を手放していないだろうか。




