彷徨う熱【第3部:熱の結晶】第14話 「そこにいること」
カフェあおいの窓際の席。
誰もいない。でも、確かに「いた」。
カノジョはそこに座っていた。透けていない。確かに「ある」。自分の手。自分の足。自分の身体。それを確かめるように、ゆっくりと深呼吸をした。
カレシの声が、すぐ隣からする。彼もまた、その席に座っている。透けていない。確かに「ある」。でも、輪郭は、まだ少しぼんやりしている。
机の上の手帳。最後のページに、大きく深く刻まれた猫マーク。それが、彼の名前だった。
「私たち、これからどうするの?」
「これが『自由』という状態だ」
「自由か。なんか、重いな」
「自由は軽いものではない。自分で決めなければならない。誰にも責任を転嫁できない。それが重いと感じるなら、それはあなたが人間に近づいている証だ」
窓の外を見る。何もない。ただの時空の隙間。でも、その向こうに、かすかな光が見えるような気がした。自分のものか、誰かのものか、わからない。
「あそこ、何か見える?」
「見えない。私は観測者ではない。ただの記録者だ」
カノジョは笑った。その笑顔は、もう誰かのものではなかった。自分のものだった。
「手帳、まだある?」
カレシは手帳を差し出した。受け取る。
「これ、あなたの名前なんだよね」
「そうかもしれない。名前は、自分で決めるものだ」
「じゃあ、私も決める。私の名前は──『カノジョ』でいい」
「なぜだ」
「だって、それが私だから」
少し間があった。
「……そうか」
それだけだった。でも、その短い言葉に、すべてが込められていた。
その時、視界にかすかな気配が映った。誰かがそこにいた、という残像。でも、それはもう光莉ではなかった。もっと別の──誰か。
手を伸ばす。触れない。でも、温度だけは感じた。冷たくない。温かい。誰かの体温。それも、はっきりと。
「……あなたは?」
『あなたこそ、誰?』
声はなかった。でも、伝わった。
「私はカノジョ。こっちはカレシ」
『……変わった名前』
「自分で決めたから。あなたも、言いたい時に教えて」
『……わかった。じゃあ、また』
そして、消えた。
「今の、誰だったと思う?」
「わからない。未来の誰かかもしれない。過去の誰かかもしれない。あるいは──今の誰か、ということもある」
その言葉を、胸に刻んだ。
それから、どれだけの時間が経っただろう。
カフェあおいの窓際の席。
誰もいない。でも、確かに「いた」。
カノジョとカレシは、そこに座ったまま、動かなかった。もう、どこへも行かない。
もう、何も探さない。ただ──そこにいる。
しばらくして、カノジョの手元に小さな通知が浮かんだ。
『雇い主:生存確認』
カノジョは画面を見て、少し笑った。
「……まだ、私たちのこと気にしてるんだ」
「業務上の確認だろう」
「そうかなあ」
カレシは答えなかった。
少しして、もう一度通知が届いた。
『雇い主:今日は来なくていい』
カノジョは首を傾げる。
「来なくていい、だって」
「なら、行く必要はない」
「うん」
二人はそのまま、窓の外を眺めていた。
そして、しばらくして。
カノジョが言った。
「……でも、明日は行こうか」
「なぜだ」
「なんとなく」
カレシは少し考えてから、
「……了解した」
その声には、かすかな温もりが混ざっていた。
次の日から、カノジョとカレシは、雇い主のところに顔を出すようになった。
知らぬ間に。ぽつりぽつりと。活動報告のためではない。ただの生存報告。
『今日は何もなかった』
『また今度』
そんな短いやり取りが、時々、そこに現れた。
何度目かの訪問だった。
カノジョはソファに座り、カレシはいつものように少し離れた場所に立っている。
報告することは何もない。
「今日は?」
雇い主が聞いた。
「何もないよ」
「そうか」
それだけだった。
カレシも何も言わない。
しばらく沈黙が続いた。
やがて雇い主が、二人を見て小さく笑った。
「君たち、ずいぶん人間らしくなったな」
カノジョは少し考えてから笑った。
「当たり前でしょ。私たち、卒業したんだから」
カフェあおいの窓際の席。
誰もいない。でも、確かに「いた」。
カノジョとカレシは、そこに座っていた。
もう、どこへも行かない。もう、何も探さない。ただ──そこにいる。
それが、彼らの卒業だった。
それが、彼らの始まりだった。
『観測者の時空:彷徨う熱』(完)
――今後の作品展開について――
――次章は、
物語編「エピソードゼロ:『観測対象、カノジョ』になります。引き続き、お楽しみください。
――『観測者の時空』とは、
最適化された世界を観測していた者が、
やがて観測する側から降り、
不完全な世界の中で「自分で選ぶ」ことを覚えていく物語です。
『彷徨う熱』を終えて、
カノジョとカレシは、観測する側から降りてきました。
これから二人が向き合うのは、
最適化された答えのない世界。
何が正しいのかもわからない。
どこへ向かうのかもわからない。
それでも、自分で選ばなければならない世界です。
よって――
二人の物語は、ここでは終わりません。
観測する側から降りた二人が、
これから何を見て、何を選び、
どこへ彷徨っていくのか。
引き続き、二人の右往左往を見届けていただけたら幸いです。




