彷徨う熱【第3部:熱の結晶】第13話 「手放すこと」
時空の隙間を戻る道は、行きよりもずっと静かだった。
光莉の熱を、もう外のものとして感じることはなくなっていた。正確には──感じなくなったのではなく、それが自分の一部になったから、意識することがなくなっただけなのかもしれない。
自分の手を見る。透けていない。確かに「ある」。重み。色。声。感触。匂い。味。それが全部、自分のものになった。誰かのものではなく、自分のものとして、そこにある。
「……なんだ、これ。『慣れた』のかな」
「そうかもしれない。ノイズは、時間と共に自分のものになる。それが適応、というものだ」
声は、少し遠い。でも、前よりは近い。
「私たち、光莉を見つけられたのかな」
少し間があった。
「見つけたのかもしれない。見つからなかったのかもしれない。どちらも、答えではない」
「じゃあ、何が答えなの?」
「答えがない、ということが答えだ。それが伝線、というものだ」
その時、視界にかすかな光が映った。
出口だった。時空の隙間の。つまり──カフェあおいの入り口。
「……着いた。まだ、開いてる」
「あなたが帰りたいと思ったから、開いたのだろう」
光に向かって手を伸ばす。
カフェあおいの窓際の席。
誰もいない。でも、確かに「いた」。
カノジョは、その席に座った。透けていない。確かに「ある」。自分の手。自分の足。自分の身体。それを確かめるように、ゆっくりと。
「……戻ってきた」
「そうだ」
声は、すぐ隣からした。カレシもまた、その席に座っている。透けていない。確かに「ある」。でも、その輪郭は、まだ少しぼんやりしている。
机の上に、手帳が置かれている。最後のページの、大きく深く刻まれた猫マーク。それが、彼の名前だった。
「これ、あなたの名前なんだね」
「そうかもしれない。名前は、自分で決めるものだ」
「じゃあ、私も──」
「あなたの名前は、あなた自身が決めればいい」
その言葉を、胸に刻んだ。
その時、視界にかすかな気配が映った。誰かがそこにいた、という残像。
「誰か、いる?」
「いない。ただの気配だ」
手を伸ばす。触れない。でも、温度だけは感じた。冷たくない。温かい。誰かの体温。それも、かすかに。
「……光莉の?」
「あなたがそう感じるなら、それが答えだ」
カノジョは笑った。その笑顔は、さっきよりもずっと、自分のものに見えた。
「そろそろ、私たちも卒業しようか」
「何を」
「『探す』ことを。だって、もう見つけたから」
「何を」
「答えがない、ということを」
カレシは答えなかった。でも、その沈黙が答えだった。
窓の外を見る。何もない。でも、確かに「あった」。光莉がいた熱が、まだそこに残っているような気がした。
「光莉は、もういないんだね」
「そうかもしれない。だが──熱は残った。あなたの中に」
「うん」
自分の手を見る。透けていない。確かに「ある」。でも、その手は誰かの重みを抱えている。それはもう、他人のノイズではなく、自分の一部だった。
「これで、いいのかな」
「あなた自身が決めることだ。『これでいい』と決めるのも、『これではいけない』と決めるのも、あなたの自由だ」
カノジョは、その言葉を胸に刻んだ。そして──これでいい、と決めた。
「これで、終わりにしよう。『彷徨う』ことを」
少し間があった。
「……了解した」
その声は、いつも通り冷たかった。でも、その冷たさの中に、確かに熱が混ざっている。
カフェあおいの窓際の席。
誰もいない。でも、確かに「いた」。
カノジョとカレシは、その席に座ったまま、動かなかった。
もう、どこへも行かない。もう、何も探さない。ただ──そこにいる。
それが、彼らの卒業だった。




